道路レポート 宮城・福島県道107号線 赤井畑国見線  <第二回>
2005.6.15


 それでは、山崎峠を目指していこう。

レポートのスタート地点は、起点 赤井畑である。
景勝地材木岩が名高い七ヶ宿ダムの傍から、この“険”道は始まる。


 宮城県白石市 赤井畑 
2005.3.24 8:19


 目指す一般県道107号線の起点は、白石市赤井畑の旧国道にある。
ここの旧国道は、現在では主要地方道46号(白石国見線)に指定されており、このまま道なりに進めば、やがて小坂峠を越え国見町へと進む。
この主要地方道小坂峠の改良が、県道107号線の命運を断ったのであり、複雑な気分である。

107号線の肝心の起点であるが、写真に写る商店が目印である。
しかし、交差点の主要地方道側には一切の案内が無く、もはや存在自体が黙殺されていることを、感じる。

…なかなか、期待できるでだしである。
私は、武者震いしながら、薄暗い商店に入り、追加のお菓子を購入した。
店主のおばあちゃんは、私がレジの前に立ってから2分以上現れなかったが、こういうことは慣れっこなので、歴史を感じさせる店内を見ながらボーッとして待った。
おばあちゃんは何度も非礼を詫びたが、私は別に気分を害していないことを伝えると、お金を払い笑顔で店を去った。



 とても良いムード(オブローダー的に…)の、起点。
写真中三箇所の囲みは、心霊が写っているわけではなく(ニャーを探したあなたは、山行が通)、起点に用意された、案内の全てである。
左から順に見ていくことにするが、この入り口の様子を見ただけで、なんとなく嫌な予感はした。

県道の入り口っていう感じじゃ、無いもの。



 この県道が、歴史を持つ県道であることは、路傍に埋もれかけた起点を表示する標柱が主張している。
そのペンキのはげかけた表面には 「赤井畑国見線」 と言う路線名が記されていた。

この造りの標柱は、宮城県内での目撃例が多いが、真新しい物を見たことはなく、おそらくはこの道が県道に指定された昭和33年当時の物ではないだろうか。
開通当時には、おそらく近接する小坂峠や石母田峠はまだ、車が通れる状況になかったのだろう。
その状況下で、沿道に鉱山があるこの山崎峠に車道が開通し、ひとしきりは利用されたのだと思う。
実は、小坂峠というのは羽州街道上の峠であり、山崎峠よりも遙かに由緒は正しい。
もし、この山崎峠よりも先に小坂峠が県道として開通していたなら、おそらくこの山崎峠が県道に指定されることもなかったのではあるまいか。


 入り口にある標識の中で、通行者にとって一番重要なのは、これである。
狭い道幅に対し、存在感を発揮している通行止め予告である。
全文を掲載しよう。

   通 行 止 

一般県道赤井畑−国見線
この先1.5Km地点から
幅員がせまく土砂崩落の
危険がありますので
通行できません

宮城県大河原土木事務所
白石警察署




 また、入り口には「わらびの碑」と題の付いた説明板が立っている。
内容を要約すると、江戸時代に度々発生した飢饉のおり、付近の村人たちは、七里沢山中のわらびを掘って飢えを凌いだ。
そして、このわらび掘りのために、山容まで一変したという。
碑は、飢饉を生き延びた村人達が、山神への感謝と死者への冥福を祈り、1789年に建立されたものである。

肝心の碑自体は、ここにはなく、さらに山中へ入った、七里沢という沢沿いにある。
そこへ行くにも、この県道を利用することになるのだが、その辺のことは案内には記されておらず、直接に碑を詣でることは設置者(市教育委員会?)としてもあまり期待していないようだ。
とはいえ、飢饉に対する慰霊碑といった、現代的ではないものが、今もってこうして案内されているだけでも、殊勝な例なのだろうが。


 1車線ギリギリの幅しかない舗装路へとチャリを侵入させる。
路傍には、朽ちかけた大型車進入禁止の標識が。
まずはじめは廃田らしき雑草地の間を直線で登っていく。
峠までは5kmほどで高低差は300m程度、このスペックだけ見れば、取り立てて苦しむ理由はない。
バイクで通り抜けた人もいるくらいだから、まあ、チャリであれば拍子抜けと言う可能性もあるだろう。
雲が低く、今にも雨が落ちてきそうなのが心配だが、さっさと通り抜けてしまうことにしよう。

入山は、午前8時20分。
峠までの3時間にも及ぶ激闘は、こうして始まったのだった。

 七里沢 
2005.3.24 8:22


 早かった!

想像以上に、それは早く訪れた。

未舗装である。

入り口から、100mほどは簡易ながら舗装が敷かれていたものの、途中一軒の民家もないまま、早くも未舗装へと転落。

あっけなさ過ぎる。
おいしい。

ここにも、入り口にあったものと同じ文面の通行止め告知が成されている。
しかし、ゲートは存在しない。


 砂利道になっても、相変わらず道幅は狭く、自動車同士の離合は困難。
幾らも行かぬうちに、一台の道路パトロールカーが停車しているのに遭遇した。

ははーん。
サボっていやがるな。

私は咄嗟にそう思ったのだが、実はそれは勘違いだった。
通り過ぎた後に振り返ってみると、まだ20歳代くらいの茶色の作業着の男性が、車から降りて、路上に出来た大きな水たまりの水を、スコップで路外に捨てているではないか。
その仕事が誰の役に立つのかは、道が道だけにちょっと分からないが、黙々と働く姿は、道路マンとしての誇りに充ち満ちていた。
…ちょっと、贔屓ひいき目かな?


 進行方向右側に七里沢の流れが沿い、左側は雑木林の斜面となっている。
そののり面は、崩れかけた石垣になっていて、歴史を感じさせる。

上流の三安鉱山の全盛期は大正末頃だったらしいが、当時はこの赤井畑にも社宅などが建っていたという。
現在は笹原やススキの原野となっている、県道入り口付近の段々畑も、もとは住宅地であったのかも知れない。


 

 入り口から1kmで、周りの景色は杉林へとすっかり変貌していた。
登りは緩やかで、ダートはフラット気味で走りやすい。
この辺りの海抜は、200mにも満たないが、森の底の日陰には、予想以上に多くの残雪があって、新しい懸念材料となった。
実は、当初より残雪は今回の走破計画においておおきな心配事であったのだが、住まう秋田より300kmも南方である当地に於いては、おおきな問題はないだろうという最終判断を下しての計画発動だった。
実際に、他の方のレポートを見ても、4月上旬で雪は見あたらないようであったから…。


しかし、この年の冬は、特に雪が多かった。
それは、この宮城県地方でも、同じだったようである。
この森の底で見た大量の残雪は、決定的に、私の認識の甘さを指摘していた。





 残雪への懸念を抱いた途端、その弱気が現実の困難を呼びよせたかのように、苛烈な光景が行く手を遮った。

入山から1.1km地点。
峠まで、なお3.9kmも残して、現時点での冬期閉鎖地点である。
閉鎖と言っても、人為的なゲートなどはなく、単に、七里沢を跨ぐ七里沢橋が、深い残雪に埋もれているのみ。

峠までまだ3km以上ある…。
このことが、私に重く重くのし掛かってきた。
経験上、残雪上をチャリ押しで歩くと、雪質に大きく左右されるとはいえ、良くて時速2kmが上限である。
峠まで、おそらく1時間半以上掛かるだろうとことが、予感された。

現実には、その倍掛かったが。


 七里沢橋は、取り立ててみるべき所のない平凡な橋で、銘板によれば平成2年の完成である。
比較的新しい。

橋の先は、当然のように轍の無い雪上の道。
轍はないが、人の歩いた足跡が二筋ばかりある。
つまりは、誰かが往復して歩いた跡なのか。

おそるおそる分厚い雪の上に踏み込む。
これでザックリと足が沈むようだと、峠まで辿り着く前に体力を消費しきってしまう為に、ここで引き返すことも考えなければならなくなる(へなちょこと思われるかも知れないが、柔らかい残雪は、とてもチャリを押して進めるものではない)。

第一歩、二歩、三歩…。
沈み込みは少なく、比較的歩きやすい堅さがあった。
チャリの車輪はどうしても沈んでしまい、早速捨てていきたい衝動に駆られたが、とりあえず、道中最大の見所は遠くないので、そこまでは頑張ってみよう…。


 閉鎖地点  
2005.3.24 8:37


 チャリに跨いで進めなくなり、極端にペースが落ちる。
夜気を残した森の空気のなか、私の体からは水蒸気が上がる。
早くも、ヒートアップだ。

雪上を、チャリの押し歩きで攻略するのは、本当にしんどい。
もう少し時期が早くて、表面がガチガチに凍っていると、もう少し楽なのだ。
また、さらに暖かくなって残雪の量が減ってくると、雪質はよく締まった、氷の固まりのようになる。
それもまた、そこそこは歩きやすい。
この、中途半端に熔けた残雪は、かなり、嫌だ。
ハッキリ言って、単に道を攻略するだけならば別にしなくても良い苦労で、長い時間と、膨大なカロリーを消費してしまうのは、悔しい。


 七里沢橋から700m。
七里沢の流れを左の杉林の下に見つつ、直線的に登ってくると、様々なサイトの目にしてきた、閉鎖ゲートが現れた。

ここは、山崎峠へと至る県道(右)と、石母田峠へと至る林道(左)とが分岐する地点であり、林道は通り抜けが出来るようだ。(この日は残雪で不可) また、七里沢わらびの碑が建っているのも、林道を進んだ先だそうだ。
そのことは、分岐に立つ小さな木製の案内板が教えてくれている。

この閉鎖、オブローダー的にはそそる景色ではあるものの、めちゃくちゃ残雪が多いんですけど…。
私は本当に、峠まで行けるのでしょうか?!
行く手にどうしょうもないような崩壊があっても、ここを戻ってくるなんて…考えたくないぞ。


 閉鎖ゲート近景。

ここまで続いていた踏み跡は、林道の方へ消えていた。
ゲートの奥は真っ新な雪原…。

可動式ではなく、地面にコンクリートブロックで固定されてしまったゲートは、もはや開く見込みもなさそうに感じられる。
通行止め標識は、これで入り口から数えて3箇所目。
文面は、3つとも共通だが、なにやら修正されて今の文面になった痕跡が見て取れる。

この先が、いよいよ県道107号線の真の不通区間である。
峠までは、あと、3km。



 イヤーン

 やばい。

残雪よりも、もっと嫌な春の障害物のことを、すっかり忘れていた。
春、雪が消えたばかりの道は、斜面から落ちてきた倒木や土砂やらで、一年で一番酷く荒れるものだ。
これが現役の道ならば当然管理者によって早急に復旧されるわけだが、廃道の場合、これらの撤去はサンサイスト(山菜採りのこと、今作りました)やらオブローダーやらの善意による。
たとえば、あのORRのへなり氏のような人が、鉈なんかでこういうところを切り開いてくれるわけだ。
その点、山行がは後進のことを考えて藪を切り開いたりはしない。そもそも、重い鉈を持ち歩いたりもしていないし。
で、春一番の廃道は、写真のような有様なのに、大概秋頃には程々に復旧されたりしていることも多い。

何が言いたいのか。

つまり、春先の廃道は、残雪と落下物とのダブルパンチで、年で一番難しいよっ、てこと。
え? 言い訳がましいって??





 定番ですが、率直な意見を一言。

 これでも県道なのか?


荒れているのは、通る者が殆ど居ないから仕方ないにせよ、線形がめちゃくちゃ。
なんていうか、その辺の造林作業道路をやらされているような感じ。
勾配がきついし、カーブもR=2mとかそういうレベル。
路面はと言えば、土と泥で、とても車の車輪を支持できるよう堅さではない。
さらに、路肩、のり面のいずれも、一切の工作物ははし。

オールナッシング!!

未開通の県道を強引に突破しようとして居るんじゃないだよ。
一応はこれでも、現役の県道の筈。
少なくとも、管理主体である宮城県では、廃道ではないと判断している。

これは廃道でしょ。



 アッチー!

アツイ。
これまで三度、『幅員が狭く』などと “おことわり“ を頂いていたので、まあ覚悟はしていたけど、それにしても、極狭だ。

いかにも応急処置らしい立杭とロープによる幅員確保が、余計にインパクトを強調している。
残った幅1メートルm程度の道も、痩せた崖に乗った土砂の上を均しただけに過ぎず、いつ丸ごと滑り落ちるか分からない。
特に、春先は雪解けによって山肌全てが崩れやすくなっており、私とチャリ程度の加重でさえ、臨界を突破させてしまうかも知れない。

グダグダ言っても、行くんだけどな(笑)



 



 路肩の外は、壮年を迎えた杉林が七里沢の流れに落ち込んでいる。
先ほど分かれた林道が沢底を通っており、万一チャリで引き返すハメになったら、この斜面を強引に突っ切って降りた方が楽かも知れないなどと、考えながら進んだ。

あれっぷりが嫌になり、あんまり撮影していないが、この区間、かなり汗と時間を費やしました。




 ふと気がつくと、私はチャリと、リュックを投げ出していた。

時計を見ると、閉鎖ゲートからもう15分以上掛かっている。
しかし、ペースは極端に遅く、そろそろ現れても良いはずの隧道が、まだ見えてこない。
こんな調子では、本当に峠を越える自信がなくなってきた。

それと、もう今さら後悔してもどうしょうもないのだけれど…、

 何でこんなリュック持ってきたんだろ(涙)


重いだけじゃなく、倒木の下を潜ったりするたびに、引っかかりまくり、疲労度30%アップだ。



 あー、 そこだったのね…。

私が、ちょっと疲労から放心していた場所から行く手を見ると、突然の右カーブで、道は深い切り通しへと進んでいる。

そこに何があるのかは、皆様の想像どおり。

世にも奇妙な隧道が、既にへとへとな私を待ち受けていたのだった。


隧道見たら、帰って、 いいよねぇ?






衝撃の隧道へ進行

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