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山崎峠への挑戦
6−1 怪隧道“七里沢” 山崎峠側坑口の様子
不穏な隧道を脱すると、そこはやはり廃道らしかった。
日当たり加減が良く、残雪こそほとんど無いが、そのかわりに、坑口上部と切り通しの両側から落ちてきた土砂が、路面を厚く覆っている。
坑口から20mほど進んだ場所には、倒れた(あるいは倒された?)通行止め用のガードレールが、無惨な姿をさらしている。
七里沢隧道は完全に通行止め扱いだというのに、それでも通行しようとするライダーがいると言うことは、オブローダー人口が面積に対して少ないであろう東北では、珍しい。
やはり、某大御所サイトによる紹介の影響であろうか?
近づいて見てみることにする。
わずか109mしか離れていないはずの白石側の明かりが、妙に遠くにみえる。
廃道に挟まれ、廃なることを運命付けられたような隧道であった。
素堀り、木造、そしてコンクリ巻き、三つの内部構造を併せ持つ、現在進行形の崩壊隧道。
次にあなたが訪れるとき、果たして、109m先にこの光は見えているか!
七里沢隧道紹介の最後に、私が最も崩壊を懸念する箇所をお見せしよう。
それはこの、山崎峠側の坑口部である。
白石側には、一応コンクリート製の坑門があったが、こちらはまるっきりそれがない。
坑口の真下の路面には、土砂が山盛りになっているので、おそらくは崩れ落ちたものと思われる。
そして、剥き出しになった地山を見ると、今にも剥がれ落ちてきそうである。
このまま、坑口は徐々に後退していき、その崩土が最終的には坑口を埋没させてしまうのではないだろうか?
内壁のコンクリートは余りにも薄っぺらで、これだけの地山の圧力にも耐えられそうにない。
6−2 最終兵器の投入!
七里沢隧道を抜けると、ほぼ直角に近いカーブで、進路が南に変わる。
隧道直前の道は、路肩が酷く抉れたり、土砂崩れで道全体が波打ったりしていたので、それから見れば、だいぶ大人しくなったようだ。
なにより、北向きの鬱蒼とした杉林から、南向きの松林に変化したお陰で、残雪は一気に減った。
微かに残るダブルトラックが、私を峠に誘おうとしているように見える。
もちろんこれは、GOサインだ!
もうひとつ、隧道直後の直角コーナーには、ご覧の標識が谷に向かって傾斜しつつも、辛うじて踏みとどまっていた。
その朽ち具合から、間違いなく現役当時(いや、厳密にはこの道は現道なのだが…)の標識だと思われる。
しかし、残念ながら、余りにも朽ちており、その表示内容は判然としない。
わずかに赤いペイントが同心円状に描かれているので、規制標識だと思われる。
ひどくツタに絡み付かれており、夏場などは、全く道路上から見えなくなっていることも想像できる。
隧道から100mほど進んだ地点。
久々にチャリに跨って走ることが出来、爽快である。
路面状況は良くないが、藪も芽吹いておらず、視界は良好である。
遅れを取り戻すべく、積極的に前に出る。
あやー。
どうやら、隧道前の残雪の少なさは、私を誘き出すための罠の類であったらしい。
私は、まんまと引っかかり、進んできてしまった。
ここで引き返したならば、大人しく隧道で引き返した場合と比べ、殆ど時間の損失はないものの、そこは名だたるオブローダー達の相手をしてきた山崎峠の方が一枚も二枚も上手で、私の一度進み始めたら引き返せないという弱点を、見事に突いてきた。
例によって、私は隧道からたったの200mで現れた大残雪に対し、猛然と立ち向かってしまった。
だが、私といえども、徒手空拳でこの強敵に挑むつもりはなかった。
みたまえ!
この素晴らしい最新兵器を!
山行がの誇る人類英知の結晶、カンジキである。
かつて、山々を我が者に駆け回り、凶暴なクマ族と対等にわたりあったというマタギ衆の偉大なる知恵を、山行がも足元に採用したのである。
もはや、残雪など、恐るるに足りないのである。
未使用時に大きな荷物になることと、脱着にかなりの手間がかかることから、最後までリュックの奥底に眠っていた、いわば最終兵器だ。
ぐぬー。
苦労して装備した途端に、残雪が無くなってしまった。
ふたたびチャリに跨るが、こんどはカンジキが邪魔になり、満足にペダルを漕げない。
謀ったな!
結局、わずかに進んだだけで、カンジキはその出番を終えた。
チャリとの親和性をもう少し考えるべきだった…。
その後、ときおり残雪が行く手を遮ったが、概ね乗車して進むことが出来た。
道は、右手の遙か下方に無名の谷を見ながら、松林の中を蛇行しつつ、緩やかに高度を稼ぐ。
道路構造物と言える物は何一つ見あたらず、ただ斜面を削り取っただけの道が、淡々と続く。
この春を迎える直前の冬が例年以上の豪雪だったせいか、積雪に弱い松の木は、かなり太い物も含め、バッタバッタと倒れていた。
問題なのは、路面にかかって倒れている木々であり、その量たるや膨大で、50mに一度はチャリをいちいち停止させて、乗り越さねばならなかった。
特に、今回は泊まりがけの遠出のため、45リットルのリュックを装備しており、倒木の下をくぐるという事がしにくかった。
その為に、重い荷物を背負ったままチャリを担ぎつつ、という、かつてない重労働を強いられることとなった。
数枚上にも、よく似た写真を掲載したと思うが、もちろん別の場所である。
まるで同じ場所をループしているかのように、繰り返し、右カーブ、左カーブがほぼ一定の間隔で繰り返される。
右カーブの後は、日陰になっている箇所が多く、残雪が多く苦労させられた。
とはいえ、またすぐに地面が現れるので、いちいちカンジキを装備し直すほどではなかった。
…そう書くと、極めて論理的に行動していたように思われるだろうが、実は単に、もう面倒くさくなっていただけである。
6−3 廃道のみなもと
七里沢隧道からおおよそ1.5km。
すでに隧道を発ってから56分を経過していた。
余りにも遅いペースであるが、自分なりには全力で進んできたつもり。
すると、隧道以来初めて、道が広場のようになっている場所に出た。
地面はよく締まり、その上に松の枯れ葉が積もっている。
谷側に突き出したカーブの突端にあたる場所で、視界が開けていたので、自然と峠を探すように遠くを見る。
これが、噂に聞く三安鉱山というものだろう。
対岸の斜面の稜線から谷底に至まで、段々となって残雪がその遺構を鮮明に映しだしている。
この鉱山については、相互リンク先サイト『
山口屋へようこそ!』さんに詳細な踏査レポートがあるので、参照されたい。
どうやら、昭和18年頃まで稼工していたらしく、最盛期には1000人以上もがこの谷間に暮らしたと言われる。
この広場のすぐ傍に、谷底へと降りていく分岐があったが、入り口から残雪と激藪の為、今回は侵入を見送った次第である。
この鉱山と本県道の開通は無関係ではなく、鉱産物の搬出や通勤道路として整備されたものであるが、ただし、道中の七里沢隧道が昭和28年開通(『山形の廃道』さん資料による)であるならば、やや時期的な開きがある。
これについては、謎のままだ。
(県道に指定されたのはさらに遅れて、昭和33年である)
稜線が近づき斜面が急になるにつれ、倒木の量もさらに増えてきた。
そして訪れたのが、道中最大の倒木くぐりの難所。
おそらく、現在も復旧されている見込みは低く、自然に腐朽するのを待たねばならないかも知れない。
路傍の10本以上の松が、斜面ごと道へのしかかって倒れ、30m以上にわたり封鎖している。
手ぶらならば、こんな顔をする必要もなかったのだろうが、あいにく、チャリとリュックとを別々に運ばねばならぬ苦行…失礼ながら体験した人以外にはこの苦しみは分からないであろうが…を、強いられた。
実は、規模の違いこそあれ、倒木に阻まれる場所は50mごとにあった。
しかし、それらは本来の道とは関係のないものであり、レポート的にはこれらを子細に紹介しても仕方がないと考え、大幅にカットしている。
ぶっちゃけ、旧道の風情を求める向きは、七里沢隧道で引き返しても良い。
隧道〜峠区間は、特に遺構と呼べる物のない、“乾いた”廃道である。
区間唯一の道路構造物はこれである。
う〜〜〜ん。
… 微妙。
その辺の昭和40年代に造成された住宅地に行けば、沢山見られそうなブロックだ。
ある意味、最近は使われているのを見ないので、遺構らしい遺構と言えるかも。
淡々とした倒木跨ぎと潜り、そして、残雪歩きの繰り返しに、そろそろ辟易としていた私だが、前方に初めて峠の鞍部を見つけるに至り、
その遠さに、
またもゲンナリしてしまった…。
わずか1km。
されど、廃道のイチキロである。
峠までのラスト700mは、再び北向きの斜面に差し掛かる。
さらに、海抜も400mを越えてくるので、道中では最大の残雪ゾーンとなっていた。
積雪は、多いところで40cm以上。
しかも、かつての轍が雪解け水が流れる空洞になっていて、たびたび踏み抜き、私は腰まで濡れた。
チャリもリュックも、重すぎた。
カンジキを使おうにも、リュックの奥に既にしまっていたので、めんどくさがりの私は、機会を逃してしまった。
このまま、チャリを雪に突き刺して棄てていきたい衝動に駆られる。
スタンドなしでも、チャリが支持されるほど、雪は濡れ、重かった。
汗が噴き出し、額から目に、鼻に滴る。
空を仰ぎ見て、ドリンクをがぶ飲み。
かなり、疲れています。
雪の下にある道は、その廃なる姿を隠している。
かつての轍が雪解け水の流路となり、鮮明に轍を浮き上がらせた。
その姿は、まるで現役の道のように錯覚させる。
だが、流路は毎年の洗削によって車路のそれとは決定的に異なる深さに達している。
水深も30cm以上に達している箇所があり、路面が見えていても、チャリを漕ぐことは難しい。
水流の早さも相当のものだ。
ネオプレーンの靴下を履いているとはいえ、今生産されたばかりの雪解け水は、あまりに冷たすぎる。
この残雪ゾーンでも、大変な時間を要したが、いよいよ、勾配が緩くなり…。
空に対し木々の描くシルエットが、Vの字になった。
これは、い よ い よ …。
山崎峠
7-1 地味な県境
勾配が失われ、紛れもない鞍部が眼前に現れた。
これが、宮城・福島県境の峠、山崎峠である。
道を塞ぐように立てられたガードレールが見える。
半ばまで雪に埋もれたガードレールと、福島側を向いた「通行止め」の標識。
この標識の規制内容は、車輌のみならず歩行者にも及ぶので、道路交通法に照らすならば、何人たりとも入ってはならないことになる。
私が驚いたのは、なんと峠から福島側が除雪されていたことだ。
後から考えると、この時も峠では伐採が行われていたので、一般車両用に除雪したわけではなく、たまたま林業の便のために行われていたに過ぎないのだろうが、これは私にとっては予想外の幸運そのものだった。
お陰で、ここまでの遅れを大幅に取り戻すことが出来たのだから。
もはや、残雪というよりも、まだ冬そのものの景色にある山崎峠だった。
起点である赤井畑からおおよそ5kmの登り道中に要した時間は、2時間40分にも及ぶものであった。
おそらく、徒歩の方が早かったろう。
峠からは、県道とクロスするように、無名の林道が東西に延びている。
さて、こうして一応の攻略を成した山崎峠であるが、果たして誰にお勧めできるかと問われれば、返答に困る。
道中には、唯一、七里沢隧道という“みどころ”があるものの、全体的には緩慢で、まあ、県道でないならば別段見向きもされないだろう廃道にすぎない。
やはり、背景にある道の歴史に思いを馳せながら、自分自身で景色を補完して歩くという、余裕と、イメージ力が求められるように思われる。
その点、私の場合は、折り重なる倒木と、大量の残雪に気を散らされ、はっきり言って苦痛感ばかりが残る突破行となってしまった。
愛が、足りなかったと、オブローダー的には反省している。
福島側には、控えめな県境案内標識と、県道案内標識が並んでいる。
一方、宮城側への交通には、さきほどの通行止め標識およびに、道中でたびたび見た物と殆ど同内容の、通行止め告知標識が並ぶ。
県境を挟み、かなりの温度差を感じる県道であった。
鞍部を下りに転ずると、しばし造林道のような状態となる。
重機の唸りを間近に聞きながら、そそくさと通り過ぎる。
よもや、通り抜け交通があるとは作業員達も思うまいから、驚かさないように。
その1に、続く。