東北本線旧線 有壁隧道 有壁側 <後編>
陰鬱死隧
岩手県一関市 有壁

 
 坑門前に深い溜め池を作った地下水は、水面はさらに坑口内部にも続いている。
ボートで坑口まで接近した私と、細田氏は、洞内の水深が想像していたよりも浅いことから、ボートから下りて侵入した。
洞内で一番深い坑門付近でも、その水深は40cm程度。
しかし、保温性に優れたネオプレンの装備をもってしても、雪解けの地下水は刺すように冷たく、瞬く間に、私と細田氏の下半身を締め付けてきたのである。

尋常でない冷たさにしばし絶句。



 

 坑口から30mほども歩けば、水は引き、地面が現れる。
おそれていたほど泥は堆積しておらず、普通に歩くことが出来た。
しかし、水没している部分については、やはり泥と、そして埋沈している多数の流木のために、非常に歩きづらかった。

明かりの見えぬ洞内にて、最初に我々を迎えてくれた光景は、やはりというか、

崩落だった。



 入り口に向かって左側の壁が、酷く抉れて、地肌が派手に露出している。
洞内への土砂の流出は少ないが、側壁の四重煉瓦巻き立てはすべてはげ落ち、さらにその上に続く天井部の五重程度の巻き立ても、かなり剥げている。
このような箇所が、最終的な致命傷となることは、その崩壊していく様を観察できた「横荘鉄道二井山隧道」の例からも、明らかである。
露出した地肌は、濡れた砂礫層で、縞模様も鮮やかである。
このような壁が崩落面から露出するケースも過去に多く目撃しているが、一例としては、本城トンネルや、真室川林鉄安楽城線三号隧道などだ。

なお、坑門に人影があるが、それは様子を伺うふみやん氏に他ならない。
写っていてはならないモノではないのでご心配されないように…。



 そこから先、しばし隧道は平常を取り戻したかに見える。

壁には目立った崩落もなく、かつて見た一ノ関側の、足の踏み場もない壊れ方から見れば、全然平穏だ。
しかし、そこにも何かの予兆は、確かにある。

壁の至る所から染み出した、まるで血のような、赤い泥。
洞床に堆積した、得体の知れぬ黒いプディング。

廃止された直後の隧道内の様子を想像するに、レール・枕木はすべて取り外され、また、枕木痕の凹凸も見られぬ事から、バラストも回収されたようだ。
現状では、河原で見かけるような玉砂利が薄く敷かれたようになっている。
また、明治中期の隧道だけあって、洞床に排水溝などの設備があるでもなく、また、天井も現在の単線隧道に比して明らかに低い。




 そして、水滴の滴る音と、我々の足音だけが響く、光のない洞内に、鮮やかな色が現れた。

それは、赤。

どぎついまでの、煉瓦の赤である。

待避坑を中心に、かなりの量の煉瓦が剥離崩落し、洞床に山を成している。

この退廃的な光景は、まさに繋がっては居ないとはいえ、一ノ関側と一つの隧道であることを感じさせてくれる。
進むにつて、そこにあるはずの大崩壊地点めがけ、加速度的に隧道の荒廃は進んでいく…。




 坑口からおおよそ150m。
依然行く手には光は見えないが、かといって、土の壁が現れもしない。

その全長は241m。
出口があるなら、もう外が見えなければおかしい頃だが、その結末は、既に予感…、

いや、確信されている。

細田氏は、初めて入るこの隧道の様子に、いたく感動したようだった。
たしかに、これほど満遍なく崩れている隧道というのは、そう多くなく、ただ古いから崩れている以上の何かが確実に存在するのだろう。



 煉瓦の山を足元に築くほどの崩落は、どこも大変深く、その多くは、地肌を露出させるに至っていた。
煉瓦と地山との間に隙間はなく、その代わり、腐りきった木片が多数詰められている。
このように、崩壊面から木片が出現するケースも結構多い。
水分によって膨張する度合いの煉瓦やコンクリよりも大きな木材は、果たして地山と煉瓦との継ぎ目にふさわしい施工なのか、私は専門家ではないので分からないが、詳しい方に聞いてみたいものだ。



 その光景は、まさに一ノ関側と同様。

砕け散った煉瓦の山は、踏みしめるとカラカラと、気持ちのよい音を立てた。

今こうしている最中にも、いまだ壁に残っている煉瓦のいくつかは、間違いなくギリギリのバランスを保っているのだろう。
そう考えると、メットも被らず無頓着に立ち入った我々の浅はかさに考えが至る。
ここまで崩れかけた隧道に入るなら、やはりヘルメットぐらいは用意したい。




 そして、我々の行く手を遮る、大崩落地点。

これが、一ノ関側の坑内で目撃された崩落の反対側なのか、その確信を持つ事は出来ないが、天井まで容赦なく埋め尽くす土は、よく似た崩落面となっている。

ここまでは、ひどく崩れているとはいえ、それは巻き立ての煉瓦に限った話だった。
しかし、遂に “実が出て” しまった!


お食事中の方、スミマセン。
って、飯食いながら山行が見るー?(笑)



 そして、さもそれが当然であるかのように、我々は天井めがけて土の崩落面を登っていた。
そして、間もなく天井に頭が触れる。
湿気った土の臭いが鼻につく。
崩れた土砂は柔らかく、先ほどまで見た砂礫ではない、いかに地表にありそうな、土だ。


そして、何の気無しに壁際の隙間に視線を送ると…。


ひっ ひかりだ!


 上の写真と同じアングルで、今度はライトアップして撮影したのが左の写真。

僅かだが、崩落の向こう側に光が見えていた。
そして、この土山が、まさに一ノ関側で目撃した崩落ど同一の崩落であることが、確認できた。
写真からは分からないが、肉眼では、この崩落の奥行きが5m程度であることが見て取れた。

風すら通ってはいない。
まるでピンホールのごときわずかなわずかな間隙だが、確かに、貫通はしていた。
何者も通ることの出来ぬ、有壁の最期に見た光である。
 
我々、
特に細田氏は、この貫通確認(といってよいかは微妙だが)に、大変感激していた。
確かに、私もまさか明かりが見られるとは思っていなかった。
壁際の土砂だけを選択的に取り除ければ、数時間の作業で再貫通も出来るかも知れない…。



 事実上の閉塞点を背にして、坑口を振り返る。
これにて、有壁隧道の全長241mの、ほぼ99%が解明された。


危険な隧道に長居は無用。

我々は、もう二度と来ることもないだろう土壁に、別れを告げた。

 



 そして、ふたたび冷たい沼に身を沈めつつ、出口へと戻ったのだ。

洞内滞在時間は、おおよそ15分であった。





 帰りは、私もふみやん氏と共に陸上を歩いてみた。

確かに斜面はきつく、藪も濃いが、トゲのある植物がないことと、手がかりが豊富なこと、そして時期がよかったこともあり、ボートよりも遙かに速く、車まで戻ることが出来た。

写真は、振り返る坑門だ。
こうしてみると、内部の惨状が嘘のような平穏さだ。






 ひとり艦艇に乗り込む細田艦長。




 一足、いや、“ふた足”早く車に戻り、艦艇の到着を待つ我々。

あの仙人隧道で驚異の早漕ぎを見せたHAMAMI氏にも劣らぬ細田氏の舵捌き。オール捌き。
そして、偶然だが、なんとお二人とも、県北某公園の手こぎボートでボートを覚えたそうな…。
もしや、そこには何かボート上達のコツがあるのかも。

それはさておき、
こうして穏やかな日差しと春の風の中、
死したる隧道との、ひとときの逢瀬は終わり、

ふたたび、沼の奥には、終わりなき静寂が戻ったのである。






2005.3.26

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