隧道レポート 国道8号旧道 阿曽隧道(旧黒崎トンネル) 前編

所在地 福井県敦賀市
探索日 2015.9.14
公開日 2016.1.29


【位置図(マピオン)】

前回レポートした県道209号五幡新保停車場線の探索を開始する直前にも、海岸沿いで小さな廃道探索を行っていた。
そしてこれは、この日の“越前海岸南下作戦”における、海岸沿いにおける最後の収穫であった。

探索したのは、国道8号の黒崎トンネルの旧道と、そこにある旧隧道である。
北陸のメインルートとして尋常でない交通量を誇る国道8号の直接の旧道&旧隧道であるから、メジャー物件であるのだろうが、あいにく土地勘が全くなかった私にとっては(現国道を走るのも初めてだった)、「ああ、前に「廃道本」で永冨さんが書いていたのはここだったのか!」 という、ちょっとだけ嬉しい“再発見”となった。

たまにはオーソドックスでシンプルな、ヒトケタ国道の旧隧道も、やったろうじゃない!




阿曽集落から眺める黒崎。そして旧道との遭遇。


2015/9/14 15:07 《現在地》 

当面の目的地を五幡と定め、敦賀市内に入ってからもずっと越前海岸を南下してきた私の眼前に、いよいよ目的地までの“最後の地形的障害”が見えてきた。
ここから既に国道の洞門やトンネルの在処が、はっきりと遠望された。

これは地図に「黒崎」と注記された、敦賀湾にこんもりと突き出た岬である。
国道はその先端近くまで素直に回り込んでから、最後の最後の岩脈的に突き出した部分だけ、「黒崎トンネル」と注記された短めのトンネルで越えている。
越えれば五幡のある砂丘海岸だ。

実は探索前に明治から昭和までの旧版地形図を見ていたので、この黒崎には最も古い明治42(1909)年版地形図の時点で既に隧道が描かれていた事を把握していたし、「道路トンネル大鑑」により、現在の黒崎トンネルの竣工年が昭和38(1963)年となっていることも、理解していた。ゆえに、旧隧道のある可能性は高いと踏んでいた。



2分後、上の写真に写っている集落の中ほどに私は移動していた。
阿曽(あそ)という集落である。
ここも五幡と同じく、かつては製塩が盛んだった浜方の集落で、明治初年頃まで盛んに塩を出していたそうだ。
昭和30年までは東浦村に属したが、その後はずっと敦賀市である。

歩道の無い部分の多い集落内を、車たちに追い抜かれながら駆け抜けると、黒崎を越えるための登り坂が始まった。
そして海面からある程度の距離を取って、山腹の水平道路に移り変わるとほぼ同時に、重厚な作りの洞門が空の大半を奪った。



それは長い洞門だった。
後で地図で長さを調べてみると、継ぎ足しながら黒崎トンネルの北口まで400mほどは続いているようで、トンネルそのものよりも遙かに長くなっている。
その名は、黒崎防災洞門という。昭和48年建造。

窓から海が見える点を含め、雰囲気的には、同じ国道8号の遠く離れた親不知子不知(新潟県)辺りとよく似ていると思った。
その辺の都道府県道や、国道であっても指定区間外ではあまり見かけない、直轄国道らしい本気度の高い防災施設だ。
しかもこの味わいは、洞門の風景だけで理解されるものではないと思っている。
轟々と殺戮の破壊力を伴って身体の傍を行き交う大型車列と一緒に観賞することで、始めて、本気の本気たる所以が体験できる。

これは普通に考えて、道路観賞に向いた環境でないことは明らかだが、嫌いではない。



突然の絶景ターイム!

日々、数え切れないほどの人目に触れている「見馴れた」車窓なのだろうが、
その質は、極めて高い。名付けて、敦賀半島の“洞門和(あ)え”である。

しかも見ることだけは容易いが、じっくり観賞したり写真に残そうとすれば、
自転車や歩行者といった交通弱者、ある意味この道にとっての半端者に身をやつさなければならない代物である。
もちろん、洞門の柱や天井は私にとって必要なものであって、これが無い景色は別のものといえる。



15:12 《現在地》

さて、国道に連れられて、黒崎核心部へ接近。

なるほど、黒崎という名前の通り、黒っぽい岩の目立つ岬だ。
そして、険しい。
前後の海岸線が斜度45度くらいの崖錐斜面になっているのに対し(崖錐に洞門は不可欠だ)、岬部分だけは明瞭な岩場が背びれ状に突出していて、上下とも地上には道を求めることが困難な地形になっている。

当たり前だが、明治時代という土木技術に極めて制約が多かった時代に隧道がいち早く掘られたということには、それなりに理由があって然るべきであり、需要の点は現在の国道8号に連なる幹線という納得がなされ、地形的部分についても、この現地を眺めてすんなりと納得が行った。



次の私の注目は、現在の黒崎トンネルが、明治時代の地形図に描かれていた隧道と同一の箇所にあるものかどうかという点だったが、

廃隧道発見警報発令!

全く以て探す手間は省けていた。
あからさまである。北口から接近しさえすれば、これは高速で走行された運転席からでも(昼間なら)確実に見えるだろう。
その貫通までもが、即座に確認出来た。

これまでの防災洞門よりもさらに古かろう鋼鉄製洞門の赤く塗られた支柱の列が、切り捨てられた明治の隧道を冷徹な鉄格子の向こうに隔離し、全く事も無げだった。



旧道への分岐地点は、存在しない。
旧道があったであろう場所は分かるが、そこへ行くためには、道を逸脱し、洞門の外へ出なければならない。
こんなシチュエーションになると、いつも外沢という難所のことを思い出す。

ここでは頻繁に行き交う車達が、みな苛立ちげにスピードを出しながら、「ここで余計な事はするな。この道ではただ止まらずに走り続けろ。」と、私に無言のプレッシャーを与えてくる気がした。

事実、マイカーでの訪問であれば、全く車を止める余地が無いので、だいぶ遠くに停めて歩いてくるしかないだろう。
自転車はその点だいぶマシだが、とはいえ、このトンネル前の洞門の道路余地を見ると、自転車を置いておくことさえ心配があった。
(スタンドの無い自転車なので、立てておくと車走の風圧で倒れて車道へ転がり出る畏れがあるし、予め倒しておいても余地が足りず車道に出る。)



自転車をどうするか決めた私は、それと一緒に、車が視界から消えた隙を見計らって、反対の路肩へ移動した。
この時に現在の黒崎トンネルの姿をよく見ることが出来た。

ただし、よく見えたのは洞内で、坑門はあまり見れなかった。
洞門が坑門にぴったりと接着していて、どうしても見る事が出来ない。
見える範囲で判断すれば、コンクリートで摸造的に作られたアーチ環を有する、いかにも昭和30年代の主要国道のトンネルらしい姿である。扁額があったか否かが判断出来ないのは残念だ。
多分隠されてしまっているだけで、あるとは思うが。

大鑑によれば、この黒崎トンネルの緒元は以下の通りである。

黒崎トンネル
 全長97m 車道幅員6.5m 限界高4.5m 昭和38(1963)年竣工



15:13 《現在地》

自転車を置き去りにして行くのが心配なのならば、連れて行けばいい!

そんなの当たり前の話ではあるのだが、躊躇ったのには理由があった。

クズ藪がとて凄くなっているのが、遠目にも見えていたのである…。

だが、とりあえず路外に自転車を避難させるのは最低必要だろうと判断し、腰丈のコンクリート壁を自転車ごと乗り越えて、路外へとダイブした。


そしてそこは案の定、

いや、遠目に見て想像していた状況よりも遙かに強烈なクズ藪であった。

自転車は路外へ出た途端にハンドルまで埋没してしまい、そのままでは進む事など1メートルでも容易ではない状況。
とはいえ、盛夏の探索を恨むのは「今さら」もいいところである。夏でも廃道を探索したくなっちゃうんだから仕方ない。仕方ない。仕方ないよ…………
 
ね?



まあ…、それにしても、

洞門の内と外で、ここまで世界の色が違うことには新鮮な驚きを覚えた。まさに異世界であった。

良い気分ではある。 自転車のことはしばし “忘れて” 励むことにしよう。



自転車は、忘れると言ったとおり、ここに置いていく。
短距離とはいえ、とてもじゃないが一緒に溺れるのはゴメンだ。
隧道の向こう側がどうなっているのかも知れたもんじゃないのだし。

そもそも言いたい。夏だから、仕方ないのかもしれないが、「廃道本」で目にしたこの隧道の印象は、
確か、全然こんなんじゃ無くって……なんかこう……枯れた……枯れススキが如何にも似合うような風景で…、
淋しい日本海をバックにした風景だった気がするんだが………。

あれは、季節の違いと廃道というイメージが見せた、ひとときのだったらしい。

なんか、すっごい、“旺盛”で“ギラギラ”してますよー(草が)。



私自身、ネタとしても好きじゃないので、写真も1枚しか撮らなかった。
しかもその写真も無意識で避けたのか、見返しても1匹しか写っていなかった。
別にその写真には大してインパクトもないし、誰にもキモチイイものではないと思うので使わないが、

毛■、超多いです

こんな暑くて仕方無いッつうのに、リュックから長袖を取り出して軍手と一緒に着用。■虫対策のうえ、前進再開。
いよいよ、黒崎突端の岩脈と言うべき岩場が目前になってきた。
良い景色ではあるが、残念ながら波に砕ける波濤よりは、相変わらずすぐ背後にある国道の車両走行音の方が、遙かに、この場の音を占めていた。まあ、ファッション廃道ではなく、リアル廃道なので、仕方ない!




うーぉー、キタキタ!

さすがに、来るね。来るものがある。あるよ。

やっぱりいい……

石造坑門は、いつ見ても、いいものだ。

この隧道は、もう間違いなく明治生まれの逸品である。
ここからも既に見て分かる石造という材質もそうだが、出発前から古地形図により既に判明していたことであり、たしか「廃道本」だと、明治でも結構若い年の建造だと書かれていた気がする…(歴史解説は「後編」で)。

それにしても、近付いてみてよく分かることがある。
これは、とても小さい隧道だということ。
長さもそうだけど、断面の小ささが、ちょっと驚くレベルであった。

もちろん、国道8号として昭和38年まで使われていたことに驚く、という意味だ。

昭和38年が最近だとはさすがに思わないけれど、国道8号という元一級国道のイメージと比較すれば、当時でさえ(或いは戦前でさえも)、この断面は時代遅れを感じさせたのではないかと思う。
明治の末期には並行する鉄道として北陸本線が開通していたことが、当時の陸路の成長を遅らせていたのだろうという想像はややステレオタイプかもしれないが、恐らく事実でもあるだろう。




そして、坑門に手の届く位置へ達した私は、さらなる歓喜の声を上げた。



これでした! またちょっと思い出しましたよ。

この隧道の最大の特徴が、この珍しい放物線アーチという断面!

私の記憶にあるこの形の隧道といえば、やっぱり廃隧道で、やっぱり激藪に
埋もれていた(苦笑)のだが、新潟県の八箇隧道を思い出す。
しかしあれは普通の場所打ちコンクリだったので、石アーチで、というのは初めて見るかな。
古めの鉄道の暗渠には、この形をたまに見る気がするが、道路トンネルでは確かに珍しい。

珍しいは、正義だ!




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