隧道レポート 旧山古志村の七曲隧道

所在地 新潟県長岡市
探索日 2011.5.15
公開日 2011.5.29

前回、東隧道について解説した際に使用した【この図】の中に、さり気なくこの隧道を記載した。

名前を「七曲隧道」といい、東隧道同様に【昭和6年地形図】【昭和41年地形図】には表示がないが、同じ年代に掘られた手堀隧道だったことが、今回の探索で発覚した。

この隧道は、人文社が発行した「新潟県広域道路地図」の平成3年発行版に表記されている(右図)。
所在地はちょうど東川を対称軸に見立てた場合に、東隧道の対称となる位置で、梶金の子供たちが峠を東隧道でくぐって通学したのに対し、木籠の子供たちは危険な川べりの絶壁を隧道でくぐって、同じ学校に通学していたということになる。

もちろん、これらは通学専用の隧道というわけではなく、東隧道とともに梶金と木籠を結ぶルートの一部を構成し、現在の国道や県道である川べりの車道が出来るまでは、東竹沢村内の東西を結ぶ幹線であったと思われる。

この隧道も探索前に用意した調査リストには入っていたが、例によって現地では見つけることが出来ず、古老の証言によって詳細が判明した。
探索日は東隧道探索の前日、5月15日の夕方である。
これからその模様をお伝えするが、あまり期待してはいけない。
オブローディングの実際には、“こんなこと”が多いのである。



学校へのもう1本の隧道〜七曲隧道


2011/5/15 16:14 《現在地》

現在地は、東隧道のレポでもお馴染みの東川橋。
ここから橋を渡って木籠集落へ向かう道の途中に、七曲隧道は描かれている。

それでは、さっそく前進開始!




移動を開始してまもなく、正面遠方に“奇妙な”景色を見る。
それはまるで、とてもこの山村には似つかわしくない、住宅展示場のような家並み。
だが、あそこはちょうど手前に見える東川が芋川本流に合流する辺りで、地図に照らせば「木籠集落」である。

先に見た梶金の集落も、大半が新しいと思える家並みで、多少の違和感があった。
だが、今度の集落は家が新しいだけではなく、土地自体が極めて人造的だ。

反省する。
現住の集落に対して“奇妙な”という表現は失礼であった。
だが、それは初見の私の嘘偽らざる実感であり、この後に見る光景の予兆であった。





東川同様、芋川もまた大量の土砂によって河床が著しく埋め立てられていた。
だが、今度はそれだけではなかった。

それは私が今日一日の山古志探索ではじめて目にした、7年という月日を感じさせない震災の傷跡だった。

沢山の家が、土の海に埋もれていた。

家並みの間に県道もあったはずだが、完全に埋もれていて分からない。
代わりに付け替えられた立派な橋が、廃墟の屋根を掠めるように駆け抜けていた。
新旧の凄惨な対比だった。

私は崩れた道や廃道を見るとワクワクする。
だが同じ廃でも廃墟。特に家屋の廃墟には、そういう気持が湧いてこない。
自らの住まいをこのような姿で晒すことになった不運を思うと、胸が痛む。




16:23 《現在地》

そしてここが、かつて七曲隧道があった場所だ。

現状は、跡形も無くなっている。
ただ、崖に添って掘られていた隧道の弓なりの線形が、地上の道路として見えるだけである。
頑丈にコンクリートで突き固められた高い法面には、雪崩防止柵が幾段も重ねられ、明り化したことによる弊害を防いでいた。

詳細はもう少し後に住民の証言を元に述べるが、この位置に隧道があったこと。
隧道は後に開削されて、村道28号線の一部となったこと。
これらが事実であり、隧道の遺構は存在しない。

事前情報無しでアタックする廃隧道の3割くらいはこういう結末であり、多くはレポとして日の目を見ていない。




七曲隧道跡地からは一気に下り坂で、数百メートルで県道23号に合流する。

ただしこの県道は震災後に建設された付け替え道路で、本来の県道は芋川の河床近くにあった。
それらは、木籠集落の中心部や水田と一緒に水と泥に呑まれたままである。

…ちょっとだけ、見に行ってみよう。
いつものようには、気が進まないが。





旧道沿いにある諏訪神社。

ここはぎりぎり水没を免れたようだが、まだ新しそうな石の鳥居が崩れたままになっていた。




神社の前を過ぎると、旧道は河床へ向けて下り始める。
右のすぐ上手を現在の県道が並行している。
傍らには電柱の列が続く。

普通の山里の県道風景のようだが…。




 16:35 《現在地》

広大な湿地帯に呆気なく呑み込まれて、道は消えた。

この天然ダムの堰き止め口は、ここから1.3kmほども芋川を下った前沢川との合流地点付近であり、最も水位が高かった時期には、この湿原も全て水の底であった。
人間が土木力を駆使して作るダムもかくやというような、巨大な天然ダムだったのだ。

なお今は堰き止め口の放水路工事が終わっているので、もう冠水することはないと思う。
だが、水底で堆積した膨大な土砂を取り払うことは、されていない。
少し手入れをすれば水田として利用できそうな埋没地だが、そのような再利用も行われてはおらず、廃墟を撤去することもなく、震災の記憶を留める記念地の様相を呈している。



今度は現道の木籠橋にやって来た。

廃墟に満ち満ちた河床の状況は悲しいが、その上には立派に生まれ変わった橋や県道とともに、新たな木籠の暮らしが根づいていた。

彼らは住み慣れた廃墟を日々見下ろしながら暮らすことを選んだ、強き人々だ。

逆境にめげぬ粘り強さは、数多の手堀隧道を生み出した半世紀前の「血」が今も絶えていないことを思わせる。
…というのは、感傷に過ぎるだろうか。




なお、東北の地震の後ということもあるのだろうか。
地元の人らしくない若いカップルが、ひとしきり橋上から廃集落の様子を見た後、隣り合う震災復興資料館兼直売所の「郷見庵」に向かって行った。
そして私もそれに続いた。

…私の一番の目当ては、空気を読まずに七曲隧道(の情報)だけど…。





橋のたもとに立てられた、巨大な自然石の碑。
その碑身には、力強い文字が打ち込まれていた。

「地震で沈んだ村 皆の力でここによみがえる 山古志木籠」

「山古志村木籠集落は平成十六年十月二十三日中越地震の河道閉塞により芋川に沈みました。しかし、人々の多くの絆で集落は甦りました。震災五年目を迎えるにあたり、地域の復興を祈念します。 (略)住民一同」



碑の傍らには、水没前の木籠集落の地図が掲示されていた。

白と赤に塗り分けられた無数の家が描かれており、その半分くらいが淡い水色に塗られた水没地域内にあったことが分かる。
現在廃墟として残っている以上に、多くの家屋が呑み込まれたのだ。
もっとも、白い家は震災当時空き家だったとのことで、集落の半数以上の家が空き家だったという過疎の村の現実にも驚いた。

なお、冒頭に遠望した新興住宅街のような家並みは、予想通り復興による新たな造成地であり、図中に緑色で示された一角だ。




なおこの地図には東隧道(この時点では所在地を知らなかった…情報を得て探索をしたのは翌日)にも関わる、重要な表記があった。

東隧道や七曲隧道が村の大人たちの手ずから掘られた最大の目的は、安全な通学路を作ると言うことであった。
そしてその目的地となる学校の名前が、はじめて判明したのだ。

その名も 梶木小学校 といった。

梶金と木籠。
それぞれの頭文字を組み合わせた名前に違いない。
安易と言えば安易だが、2つの集落の子供たちに平等な中間地点に建てられた学校としては、相応しい名前である。

さらに、学校の前にはその名も「学校橋」という小橋が東川に架かり、その先の線は描かれていなかったが、東隧道へと通じていた梶金からの通学路である。
村道28号線の開通により、道は震災より前に廃道化していたのかも知れない。




 16:44 《現在地》

郷見庵と名付けられた、まだ新しい観光施設にやってきた。
1階部分は産直やアイスクリームなどを売る売店で、外階段から入る2階が「震災復興資料館」になっている。

私は売店の店番をしていたご婦人に、芋川の対岸に昔隧道があったのではないかと聞いてみた。
すると「あった」との明確なお答えをいただいた。
そして、「七曲隧道」という名前とともに、その建設と廃止の顛末まで伺うことが出来た。

小松倉集落で東隧道の決定的情報を得る前日の夕方にも、やはり隧道の詳細を知る別の“神”に出会っていたのだ。
自らが隧道を掘り抜いた、或いは自らの隧道掘りの励みとした、もしくは直接の先祖がそうした関わりを持っていた彼らだけに、隧道と聞けばすぐに答えが出てくる。
ある意味、オブローダーいらずかも。
(もっとも隧道掘りには反対者もおり、そのために村内での対人関係を危うくするような問題も生じていたと聞くから、誰しもが隧道に親しみを感じている訳ではないことには注意を要する。それは山古志に限ったことではなく、聞き取り調査をする場合の前提として肝に命じなければならない)



ご婦人が指を指して「あそこにあった」と教えてくれた場所は、郷見庵から芋川を挟んだ対岸のまさに先ほど隧道跡を疑った【場所】だった。

・隧道は、「七曲(ななまがり)のトンネル」と呼ばれていた。
・内部は地形に沿ってカーブしており、途中にいくつもの明り窓(横穴)が外へ通じていた。
中山隧道よりも古い。(正確な年までは分からないが、ご婦人は誇らしげに言っていた。完成したのは東隧道(昭和10年)と同時期だろうか?)
・子供たちが崖の上の山を越えて通学するのが危ないので、木籠の大人たちが通学安全のために掘った。
・狭かったが、小型自動車やバイク、自転車、荷車などが通った。
・昭和60年頃に、隧道が狭く不便だと言うことで、村による隧道の撤去拡幅工事が行われた。
・ご婦人自身は隧道の景色を気に入っていたようで、跡形も無くなってしまったことを「惜しいことをした」と言っていた。

さらに、隧道の在りし日の写真が2階に飾ってあるというので、お礼を言って2階へ向かった。




新しい木の香りがする外階段を上り、靴を脱いで2階へ入ると(入館無料)、そこは無人の資料館だった。
そして最初に私を出迎えたのは、「がんばって東北」のメッセージがハートを囲む大きな寄せ書きと、虹と泣き笑いのイラストの上に書かれた、“先輩罹災者”の実感のこもったアドバイスだった。

 いっぱい泣いてください 私もそうでした
 その後に笑ってください 皆がその笑をまっています
 かならず道はひらけます


隣には、色鮮やかな屋根屋根が泥色の湖に沈んだ、大きな写真。
下には、雪解けの春を象徴する、美しい村の風景がいくつも掲げられていた。




2つの地震の苦闘者たちに黙礼を捧げて、いざ入館。






二齢の蚕を背に木籠のトンネルをくぐる。昭和46年6月8日

七曲隧道内で撮影された写真。

思いのほか大きな隧道だったことが分かる。
少なくとも、大人の背丈と同程度だった東隧道とは比較にならない。
昭和初期からこの大きさだったとしたら素晴らしい先見の明だと思うが、この点は明らかではない。

また、後ろに外が見えているのは坑門ではなく、沢山あったといわれる明り窓の1つだろう。
明り窓というには些か大きいが、崖の地上すれすれの位置に掘られていたことが分かる。
木のつっかえ棒が噛まされているのが、おっかない。

ちなみに横穴は建設中のズリ捨てや完成後の明り窓という目的もあったろうが、地上との距離をこれで測りながら、カーブした隧道を掘るという工夫であったろう。





撮影 片桐恒平

いずれも昭和54〜55年頃に撮影された木籠集落の風景。

左上は諏訪神社で、中上は木籠橋(水没した県道が芋川を渡っていた橋)だろうか。

七曲隧道の写真が3枚も撮られている。
木籠集落にとって、大きな存在だったことが伺える。





昭和55年5月4日

大きなサングラスを着けた早苗姿の若い女性が、やはり横穴の前でフレームに収まっている。
横穴から光が射し込む構図は、今日のオブローダーにも大いに好まれているが、やはり美しい。

ところでこの横穴は、2枚上の写真と同じ横穴だろうか。
つっかえ棒は見えないが、横穴部分の下部にコンクリートのようなものが見えているのは共通している。

背景に出口の光は見えないが、隧道全体がカーブしていたためだろう。
地図読みから推定される全長は、東隧道と同じ130m程度である。
また路面は未舗装のようだが、車の轍が見て取れる。
通行量はそれなりにあった様子だ。





昭和55年5月4日

そしてこれが、おそらくは東口の坑門。

写っている人物と比較すると、やはり東隧道に較べて車道足る大きさを持っていることが分かる。
最初こそ東隧道程度の人道隧道だったかも知れないが、木籠集落の一部は隧道の向こう側にも広がっているので、彼らの便利のために拡幅が行われたのかも知れない。

なお、坑口部のみコンクリートによる巻き立てが行われていたようだが、坑門と呼べるようなものは存在しない。
ほとんど素堀と変わらぬ風情だ。
これが昭和55年当時の姿だが、今日もこのまま残っていれば、お宝だったろうなぁ…。





谷底にあった梶木小学校。昭和45年11月12日。

幻となった隧道の写真は以上だが、最後に梶木小学校について。

上の写真は、東隧道の東口付近から、学校のある東川の谷底を撮影したものと思われる。【現在の風景】

下の写真は、前述した「学校橋」と木造校舎の姿である。
東隧道がいかに通学目的を重視して掘られたかは、そこから通じる学校橋と校舎の位置関係を見ても明らかだ。
解説文を以下に転載する。

校名は梶金と木籠集落の頭を取ってつけたものである。明治34年(1901)に学校を建てることになったとき、建築費を出すならば梶金集落に建ててもよいと木籠集落から提案された。でも梶金集落にはそれだけの余裕がなかったので、協議して2つの集落の中央に建てることにした。その場所が谷底(木籠)だった。
昭和45年に梶木小学校は5学級、44人の児童が在校した。同校には山古志中学校の分校もあって、3学級、38人が同じ校舎で学んでいた。梶木小学校は小松倉の芹坪小学校と統合されて、昭和52年3月末日に廃校になった。

前回述べた解説と大きく矛盾する内容はないが、校舎が2つの集落の中間に建てられた経緯については、私が考えた「平等」というニュアンスはなく、単純に建設費の問題からとなっている。なるほど、その方がリアルだな…。




学校から帰る小学4年生。帽子のないのが浩司君。昭和45年11月12日。

最後に掲載するこの写真。

キャプションからはそれと判明しないが、子供たちが乗っかっている弧状の物体。

もしかしたら、東隧道のどちらかの坑口のコルゲートパイプではないだろうか。

写真が白黒なのでえらい昔のように錯覚するが、国産初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられた今から40年ほど前の景色だ。
フレームの中の腕白たちも、いまごろ元気に働いているはず。


親や地域が子供を育てる愛の形には、色々ある。
そしてこの雪深い山村には、通学路の整備という愛に育まれた命が確かにあった。