恋人達が街にあふれるこの日、男二人が、廃隧道の人となった。
一人では解決できなかった、 “大釈迦隧道 最大の謎” に挑む為に。
地中深く、 闇の、 またその奥。
二人はそこで、 何を見たのか。
ついに<二代目>大釈迦隧道 完結へ!

AM8:44 約一ヶ月ぶりの大釈迦隧道との再会だ。
今度は、私を早朝からここまで運んでくれた仲間と一緒だ。
彼は、パタリン。昨年の森吉合同探索以来の同行だ。
今回の目的はズバリ、本隧道の完全解明である。
「え? 写真撮り目的でないの?」
「前回の探索で、もう出口まで往復してなかった?」
ごもっとも。
しかし、実はまだ紹介していない謎が、あったのである。
じつは、恐怖の余り引き返した空間が。

パタ氏が先行して坑門の前に立つ。
彼には、内部の概要は話してある。
しかし、彼が実際に入るのは初めてである。
現役の鉄道隧道が野ざらしになったような、異様な光景に興奮している。
私も、初めて見たときには同じように興奮した。
いよいよ潜入を開始しようかと言うとき、私のケータイが鳴った。
職場からだった。
今日は期待したほどおにぎりが売れていないらしいので、発注の下方修正を指示した。
もう、暫くは電話には出られなくなる…。

デジカメの電池の心配はとりあえず無い。
前回の分まで、ガンガン撮影する。
これは、隧道の銘板である。
大釈迦ずい道 | |
---|---|
形式 | 1 号 型 |
延長 | ??? (読めず) |
設計 | 日本国有鉄道●●●●●(不明) |
施工 | 株式会社熊谷組 |
着手 | 昭和36年3月31日 |
竣工 | 昭和38年4月30日 |

前回、探索終了時に、ちゃんと現状を復帰させて帰ってきたのだが、そのままになっている。
ただ、もともと地面に寝ていた梯子を立て掛けたのは、前回の私の仕業である。
これを使って乗り越えようと仕組んだものだが、実際には足をかけた瞬間に足の部分が折れてしまった。
もう、原形を留めているのだけで精一杯なほど、朽ちていたのだ。
途方に暮れた私だったが、よく見たら、鍵の南京錠は壊され、既に開いていたのだ。
実は労無く侵入が可能だったのである。

そしていままた、門を開き、中へと進む者がいる。
パタ氏を先頭にして、次いで私。
たった二人、でも、一人よりも全然心強い。
今度こそ、「穴」を… 私をして怖じ気づかせた、あの「穴」を。
今度こそ、解明する!!

洞内へ。
冷たい風が流れてくる。
1440m先には、雪原のただ中の出口があるはずだ。
緩やかなカーブを描く隧道が風洞になっている。
乾いたバラストの上には、錆びきって爛れたようなレールが2条、いまだ来ることのない列車を待つ。
枕木はコンクリート製であり、内壁のそこかしこには様々な器具が取り付けられている。
電気系統の制御板に、巨大な碍子、張られたままの電線。
ある日、突然列車の運行が止まってしまったかのような景色。
だが、最後の列車が駆け抜けてから19年を経過し、あらゆる物が容赦ない風化を受けている。
名目上は休止中となっている本隧道だが… この放置は長すぎる。

50mほど進むと、バラストが消え、枕木が木に変わった。
そして、代わりにコンクリートの床が現れた。
また、二条のレールの間の床は水路となっており、透き通った水が外へと流れている。
壁は綻びもなく、所々に地下水の染みだした痕跡の白化が見える以外は良好。
隧道の強度についてはなんの不安を感じることなく、歩くことが出来る。
ただし、歩くには些か、長い。
行く手には全く明かりはなく、一見して閉塞しているかのような暗さだ。
しかしそれは、長さ故である。
二人並んで歩く。
盛んに洞内の観察を報告し合いながら。

まるで往年のタツノコプロのアニメのように、毎回「新兵器」が登場してくるパタ氏であるが、今回の目玉は、ライトである。
この写真のように、フラッシュ不要の撮影を可能にしたのは、彼が新たに投入した、100万カンデラ[単位記号:cd 1カンデラはおおよそろうそく一本の輝きに相当]という、途方もない明るさのバッテリー式携帯ライトである。
ちなみに、私のヘッドライトの光量は約1万カンデラである。
こっ、こいつは心強い。
ただし、バッテリーの都合上、40分間しか照射出来ないのである。
本隧道は、一往復最低でも45分は掛かるので…。

天井にひらかれたこぶし大の小穴から、洞床へと水が流れ落ちている。
途中、床が乾ききっている場所もあるかと思えば、このように水流のある場所もある。
せせらぎとなって水の流れる場所もある。
大釈迦峠の芯を抜く隧道は、複雑な地層の中を突破しているのだろう。
構造的にはほとんど同じ景色が続く1440mだが、見えざる地中を反映し、変化に富んだ1440mとなっている。

鉄道隧道にはつきものの待避坑は、正確に一定間隔に存在する。
ただし、どういう訳か本隧道では、全ての待避坑が西側の壁にのみ存在する。
そして、その待避坑も大中小が順繰りに現れる。
小は人二人分くらい。
大はコタツを敷いてくつろげそうなくらいのスペースと高さがある。
そして、今回初めて気が付いたのだが、洞内の多数の待避坑には、落書きの痕がある。
それは、瓦礫をチョークのようにして書かれただろう膨大な文字である。
もともと下手な字と、風化によって、殆どは判読できないが、一部は読める。
その中の一行を抜粋すれば、
57 ? ? 佐藤 勝美
彼は、少なくとも2カ所のことなる待避坑に、自身の名と思われるこの文字列を刻みつけていた。
他にも、本当に数え切れないほどの落書きがあったが、特に悪質なペンキなどによる物はなく、侵入した記念に残していったようだ。
まあ、褒められた行為ではないが、これだけ沢山あるということには驚いた。
洞内にある全ての落書きは、少なくとも百人以上の手によるものと思われた。(佐藤某のように2カ所も書く奴は稀だろう)
また、来訪日と思われる数字も多くあったが、それらは53年から59年のものが多く、というかこの範囲外は見あたらなかった。
謎なのは、記録上、本隧道の廃止は昭和59年である。
ということは…まさか、現役の隧道に侵入したということなのか?!
だとしたら、私たちの想像以上にクレイジーな連中である!
入り口の南京錠が破壊されたままになっていたことなどを含め、ある時期には大変な肝試し的若者スポットだったのだろうか?
そういえば、多くの空き缶も落ちていた。
それらは全て、今では殆ど絶滅した250ml缶だった。ペットボトルは一つも見あたらない。
このように、私たち以前にも探険目的で入った同志(?)がいたことは確かであるが、彼らと、私達とでは、生きた時代に大きな隔たりがあることを感じずにはいられない。
そして、ある時期以降の痕跡が全くないと言うことが、隧道を一層不気味に演出している。

500mくらい進むと、内壁を補強するように巻かれた赤い鉄筋が、20mほどつづく。
本当の意図は不明であるが。
この様な鉄筋は、またこの100mほど先にも、もう一度だけ現れる。
そして、この2カ所の補強箇所の中間付近に、それはある。

一度目の鉄筋を過ぎた何十メートルか先には、キロ標が残っている。
そこには、縦書きで「470」と刻まれている。
そして、このキロ標のすぐ傍に、それはある。

照らされた先には、壁にポッカリと口を開けた、小さな正方形の穴。
そんな馬鹿な。
初め私もそう思った。
自身のヘッドライトと懐中電灯だけで、急かされるように出口を求めひとり歩いた、2月のあの日。
ひ弱な明かりが奇跡的に発見してしまったこの穴に、私は戦慄したのだ。
壁に穴が開いている、しかも、明らかに人為的な穴だ。
さらに、その奥へと人が入っていける通路が存在することを知ってしまった。
私は、恐怖で引きつりながらも、好奇心に負けて侵入したのだった。
しかし幾らも行かぬうちに、引き返してきた。
今度は、絶対に奥を見届けたい。
この日を待っていた。

まるで竈ののような、あな。
なんとなく、不吉な …決して楽しい予感はしない光景だ。
つづく
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