隧道レポート 奥羽本線旧線 唐牛隧道  

公開日 2006.11.01
周辺地図

 もはや廃線趣味の世界でも語り尽くされた感のある、東北地方もう一つの幹線鉄道、奥羽本線。
明治期に開業している路線の各所には、老朽化した煉瓦造りの旧隧道が放棄されたままに残り、それぞれの地域で独特の存在感を示している。
 そして、そのうちの一本が、終点にそう遠くない青森県弘前平野の片隅に、残っている。


周辺地図

鉄道廃線跡を歩く〈8〉巻末資料の「全国線路変更区間一覧」(←この資料はシリーズ中でもおそらく最も役に立つので、全巻揃えるのはちょっと…という方でも、この巻だけは買った方がよいと思う) によれば、この旧線区間があるのは碇ヶ関駅と長峰駅の間で、廃止された旧線の延長は700mとある。複線化と線形改良、そして隧道の老朽化を理由にして、昭和46年に現在線へと切り換えられているようだ。

 短い旧線区間に、隧道の数は一本。
現存するならば、おそらくは簡単に補足できそうな物件である。
だが、その短さ故か、或いは単にマイナーであるためか、これまで書籍やネット上で取り上げられたことがないのかも知れない。
私は2004年に探索しているが、今回はその模様をお伝えしよう。

 なお、探索日は2004年2月18日である。



 もう一度。

 探索日は、2月18日である。





林檎畑の煉瓦隧道

碇ヶ関駅南の小旧線跡

 秋田発青森行きの奥羽本線始発列車に乗り込んだ私は、凍てついた鉄路が北へ、そして内陸へ進むにつれ、車窓の景色がモノトーンに変貌していく様を、ただ黙って見ていた。
そして、きつく暖房の効いた車内で、いつしか眠りに落ちていた私が目覚め、ようやくデッキへと移動を始めたのは、長い長い県境のトンネルを過ぎてしばらく経った頃だった。

 矢立峠で青森県内に入って2つ目の駅である碇ヶ関に降りた。
木造の駅舎から出た途端、しんしんと落ちる綿雪が頬にあたってシャンといった。

 私は来てしまった。
もちろん、山チャリをするために……。


 後にも先にも、こんなに雪深い中を探索したのは、この他に数えるほどしかない。
この日、私が最初の探索箇所に選んだのは、碇ヶ関駅のすぐ南にある短い旧線区間。
前出のリストによれば、津軽湯の沢と碇ヶ関の間でも、昭和46年に複線化のため500mの線路が付け替えられている。
現在線の碇ヶ関トンネルに対応する区間だが、以前の線路はトンネルを迂回するように山際をカーブして通過していた。

 駅から1kmほど線路沿いの道を南下すると、碇ヶ関の集落の南のはずれの山際に現在線のトンネルの外側壁が見えてくる。
もはや旧線跡は目前、その敷地は既に目視で確認できた。
しかし……。

 どうやって接近するよ、これ。



 正面切って接近するには、地上の凹凸も殆ど深雪で隠された中を強引に歩いていくより無かった。
しかし、それはおそらく田んぼの中。
これほどの積雪では、万一水路などの溝が隠れていないとも限らない。
とても恐ろしくて、全く地上の見えない場所を歩いていくことは出来なかった。

 旧線跡全線の踏破は諦め(踏破せずとも、旧線のほぼ全貌が遠方から見えてしまったというのもある)、一箇所だけ川を渡る部分へと、うまく除雪された小道を選んで接近した結果撮影できたのが、右の画像である。



 線路敷き近くまで接近して撮影。
碇ヶ関駅構内を背にして、新旧線の分岐を南望している。
向かって右の複線が現在線で、左のガーダー橋(上の写真にも写っている)は単線だった旧線の跡である。

 なお、線路端も太ももまでの積雪に覆われており、万一列車が接近してきても素早く待避することは出来ない状況。
さらに、雪で視界は極端に悪く、列車の接近する音も聞こえにくいときた。
この画像よりも線路へは近付いていない。



 正直、これ以来この旧線跡を正式に探索していないので、この橋の詳細な情報も不明である。
規模の小さなガーダー橋が旧線跡に現存しているということだけは判明した。
なお、この他には目立った遺構は無さそうなのであるが、前述の理由により詳細は不明となる。

 この朝一発目の探索で、すでにこの日の探索全体に暗雲は垂れ込めていた。
やはり、これほどの積雪は地上のあらゆるものを隠してしまい、発見も困難であるし、接近は更に困難。
さらに、寒い!!!!
(山行が冬の山チャリスタイルは独特のもので、例えば下半身にはタイツとズボン2着を重ね履いていたりする。が、寒い!)



いよいよ隧道目指し、移動


 さて、いよいよ真冬の廃隧道探索へと出発だ。
目指す唐牛隧道だが、それはずばり唐牛(かろうじ)地区にある。
ちょうど碇ヶ関駅と長峰駅の中間付近で、平川がオメガ状に蛇行するその基部の丘陵を貫いている。
そして、現在線とは近接平行しているようだ。

 だが、雪中での隧道探索の苦労を前に、そこへ移動するだけでも命懸けな事が判明。
まして、冬期は狭い道が軒並み通行不能となってしまうため、通行量はこのような幹線国道に集中しがちである。
私が移動に使わざるを得なかったこの国道7号も、歩道がない場所が多く、また歩道があっても雪の中だったりと、生きた心地はしなかった。


 具体的にその危険を挙げれば、転倒による車との接触である。
転倒だけならばいいのだが、転がったところを後続なり対向の車に轢かれてしまうのは、絶対に避けたい。
互いにあまりに不幸だからだ。
こんな状況でチャリを漕いでいる私への道ゆくドライバーたちの神経質ぶりも、当時まだ車の免許を持っていない頃はなんとなく不愉快だったが、今となっては彼らにむしろ同情する。
そうだ、こんなアイスバーンをチャリで走っているのは、きっと迷惑だったのだろうな…。

 路面は轍が深く抉れ、その外を走っていても引き込まれる。しかもそこだけは摩擦熱で氷が溶けかかっていてツルッツルなのである。
はっきり言って、轍の中ではチャリのブレーキ操作やハンドル操作は完全に無効となり、一台一台車が近付く度に、足を路面に付けて進路を変更し、路傍に立ち止まってやり過ごすより無かった。
北国、冬の山チャリ最大の憂鬱である。



 碇ヶ関の街並みを離れしばし行くと、国道は奥羽本線を大きな跨線橋で跨ぐ。
線路の行く手を見ると、白くフェードアウトしていく視界のギリギリの場所に、黒くぽつッと小さなトンネルが見えた。
あれが唐牛トンネル(現在線)だから、目指す旧隧道もあの隣にあるのだろうか。

 私は、とにかく一秒でも早くこの命懸けの国道から逃げ出したいという気持ちが勝って、思わず雪原に転がり出たくさえなったのだが、それは流石に無謀。
もう暫く我慢して進むことにした。



 緩やかな坂を上って、やってきました唐牛集落。
平川の蛇行の傍らにある丘陵の上に民家が集まって一つの集落となっている。
集落の真ん中を国道が突っ切っているが、この先下って平川を渡ればもう長峰駅の傍だ。

 当然のことだが、旧線跡へのアプローチに看板などがあるわけはない。
地図上で適当にあたりを付けておいた小道へと折れる。



 国道の死の危険から解放され、手足の凍えは早くも痛みを伴ってきていたが、気分はいくらか上向いた。
しかし小道を辿って集落を離れると、再び大きな牡丹が落ち始め、一挙に視界は狭まった。
葉も実も全てを落とし、おばけ屋敷のモニュメントみたいになった林檎の畑。
その中を辛うじて雪寄せのされた小道が続く。
この道は川の蛇行の突端まで行って行き止まりみたいだから、どこかで線路がトンネルで潜っているはずなのだ。
果たして、それを当てずっぽうで見つけられるだろうか…。

 …たぶん、厳しいな。



 いや、あった!!

 林檎畑の斜面の下に、大きく視界が開けたのである。
そして、そこにはレールが雪に隠され、廃線とそう区別が無くなってしまった複線の線路が、連なる電信柱の列でそれと分かるように現れた。
さらに、そこから緩やかに分かれて、まさにこの足元へと吸い込まれるように消えていく、細い溝の痕跡が見えた。

 まさに、それが目指す旧線跡であった。



 北国雪中の廃隧道 唐牛隧道


   し しかし……。



  この雪原に、降りて行けというのか…。

 いや、もちろんチャリは置いていくけど……。



   これ… もどって、これる?



 ズボッ  ズボッ

 ズボッ ズボッ

 ズボッズボッズボッ

斜面は思いのほかに急であり、しかも雪質は底の方まで柔らかかった。
案の定、私は最初のうち太ももまでであったのが、斜面が急になるにつれ、腰まで雪に埋もれ、そして遂には胴体まで雪の中に隠された。

 あわ あおわあわ… ちっ 窒息する?!?!

 あわー!!



 …ど、どうにか谷底… いや、旧線跡である林檎畑の一角まで降りることが出来た。
もちろん周辺に足跡など一切無い。
振り返っても、私が雪面に華麗に描いたシュプール……ならぬ、ラッセルの痕跡があるのみ。
しかも、もうこの斜面を登り直せるかどうかは、はっきり言って分からない。
いや、マジで。

 …そんなわけで、退路を断たれたかも知れない不安感を感じながら、ともかく今は前を向いて…隧道を目指すことにしよう…そうしよう。

 もう、隧道はすぐそこにあるのだから。


   現れた、唐牛隧道。

 雪の壁に取り囲まれながらも、はっきりと明治の威厳を顕示し続ける、黒々とした煉瓦の坑門。
真っ直ぐ出口の明かりが通っており、内部は通り抜けが出来そうだ。

 竣功、明治28年。
すなわち、築110年を経過している。
この隧道が掘られた弘前〜碇ヶ関間の開業は、奥羽北線では青森〜弘前間に次ぐ2番目の開業区間であり、奥羽本線全体としてもやはり2番目に古い開業区間となる。
青森〜弘前間には大釈迦峠越えがあり、そこに大釈迦隧道が掘られている。この前年の明治27年だ。
しかし、同隧道は内部で閉塞しており、通り抜けが出来る形で健在なのは、おそらくこの唐牛隧道が奥羽本線最古である。
(あの赤岩の旧線跡よりも6年も古いのだ)



 後編では、いよいよその内部をお伝えする。