坑口発見の5日後。
私は再びこの地へ舞い戻ってきた。
頼りになる仲間を得て!!
その名は、ミリンダ。
ちなみにマーチでここに来ることはオススメしません。彼だけの芸当です。
彼はその後、峠も越えましたが…。
2度目ともなれば呆気なく坑口に到達。
実は林道のすぐ傍だったのだ。
気がつかなければ一生気がつけない場所だっただけで。
到着時刻は午前8時22分。
手にはそれぞれ大きなスコップ!
山行が発掘隊の出動である!!
まずは作業前の状況を写真に収め、
いざ、
掘りまくれー!!
さて、どこから掘ったらいいものか。
砂利が浮いている斜面の上端は、このように僅かだが岩肌が露出している。
ここから下へ堅い部分に沿って掘っていくことにした。
おそらく、これがセオリーだと思うのだ。
支保工などを組めるわけでもない我々では、最短距離で柔らかい土砂を掘り抜いて進むことは出来ない。
午前8時25分、作業を開始。
2人で1m四方くらいのスペースの隅に立ち、それぞれ足元の土砂をすくっては投げ、すくっては投げ。
作業はスコップという単純な器具を投入しただけなのに、思いのほか順調に進んでいるように思えた。
土砂は案の定柔らかく、どんどん掘れる。
柔らかすぎて、掘った場所にアリ地獄のように周りの土砂がなだれ込んでしまうのが悩みの種だったが、それでも、時間をかければ確実に掘り進める雰囲気だった。
写真の状態で、作業開始から3分目。
作業開始より25分を経過。
掘り進むにつれ、時折大きめの石が出土するようになってきた。
また、最初に掘り始めた穴の断面が大きすぎて、なかなか下へ掘れなかったので、ここからは2人でほぼ同じ一点を掘り進むことにした。
地上から30cmは掘り進んだが、なお細かな砂利が密に詰まっている。
通常の地表では、ちょっと無い状況なのではないだろうか。
河原や砂浜などの堆積地ならばいざ知らず。
岩肌の斜面だぞ、ここは。
さらに30分を経過し、掘り始めからは間もなく1時間。
穴は、着実に深くはなっているのだが、この頃になると我々はハッキリと理解した。
……穴を掘るのは、容易ではない……
掘れども掘れども、変化に乏しい土色の砂利。
時折スコップの先が10cm四方くらいの石にぶつかり、これを取り除くのに手間取った。
かなりの重労働。
時折小雨のぱらつく天気だが、我々2人の体からは、湯気が立っていた。
元々の洞床のあった高さから見上げる我々の作業箇所。
こうして見ると、真下に掘り続けるだけでも相当に大変だという事が分かる。
その上、隧道内部へアプローチするならば、当然奥へと掘り進まねばならないのだ。
今はまだ斜面側に硬い岩肌を感じながら掘っているが、やがてはそれが途切れ、坑口上部が現れることを期待する。
突然、暑いと言い出し、この前よりも水量の多い沢へ身を浸す細田氏。
山行が的には、見慣れた景色である。
ちなみにこの山はヤマビルがもの凄く多く、春から夏にかけてはこんな遊びをしようものなら、全身血まみれになること必至である。
幸い、11月ともなれば彼らは活動を停止する。
さあ、涼んだら作業再開だ!!
さらに50分経過。
現在時刻は10時16分。
掘り始めからは間もなく2時間になる。
穴は、大きく深く成長を続けていた。
だが、土砂は余りにも膨大に思えた。
掘れども掘れども、相も変わらず砂利が現れたし、次第に含まれる岩が増え始めた。
一番の苦痛は、折角掘ったところに周囲の砂利が落ちてきて埋めてしまうこと。
だが、この装備では多くは望めない。
ただただひたすらに、全身を土と汗に汚しながらの単純作業の繰り返しである。
ここまで来たら、何かを掴みたい!!
ときどき休憩を挟みながらも、殆ど黙々と作業を続けた。
一度は止んだかに見えた雨が、再び落ち始める。
そしてやがて雨粒の残り僅かとなった葉っぱを打つ音が、ノイズのように耳の中へこびり付くようになる。
気付くと、本降りになっていた。
午前11時15分、作業開始から約3時間。
作業のペースは一向に改善されない。
疲労と雨と、徒労感とで、2人はやめ時を探し始めていた。
元々が、一日中掘るつもりなど無かったのだが、つい夢中になってしまった。
しかし、これは2人くらいでやったのでは、おそらく一日二日でどうこうなる物ではない気がする。
正午。
まだ我々は掘り続けていた。
汗と雨とで、全身びしょ濡れ。
手を休めると、寒い。
ふぅ。
……今日の所は、
これくらいで勘弁してやるか……。
12時18分、作業終了!!
掘り始めから4時間を経過していた。
たった2人で軽トラ一台分くらいの土砂は動かしたと思うが、まだまだ隧道坑口へたどり着いたという実感はないのが正直なところだ。
しかし、もう掘れないかと言われれば、地道に掘り進むことは不可能では無さそう。
我々は、沢水で速やかに手足と顔を洗うと、この場所を撤収した。
あれからもう1年が経つ。
結局、あのあと一度も掘りに行っていない。
いつでも行けるという油断があるのか、作業のつらさが足を遠のけさせるのか。
だが、この一年で新たに知ったこともあった。
我々が一生懸命掘り返そうとした坑口は、昭和40年頃にダイナマイトで爆破して埋め戻したのだという。
仁別の近くで飲食店を経営する男性や、その常連客から仕入れた情報だ。
ダイナマイト爆破……。
強敵である。
…しかし、それでも奥にはきっと空洞が眠っているはず。
まだ、誰も見たことのない、未知の空洞が!
掘削協力者、一応、募集中である。 あ、でも国有林内で地形の改変は…… 旧状復帰命令が出た場合も責任の取れる人募集ということで…(笑)
このレポートを書いた時点で、「あれからもう1年が経つ」と振り返っているのに、気づけば今や… 6年が経過してしまった。
この間、東京ヘ拠点を移してしまった事も大きいが、南口の再掘削作業は行っていないので、皆さまが6年ぶりの追記に期待されるような大きな探索成果はなかったりする。
それで一体何を追記しようというのかといえば、それはずばり机上調査の補足である。
つい先日、この隧道が建設された当時の新聞記事を3本も見つけたので、隧道がただ「存在した」ということだけではなく、どのような必要や期待のもとに誕生したのかという事実を証するものとして、ぜひ掲載しておきたい。
まず、これから転載する3本の記事は全て、秋田を代表する地方紙の秋田魁新報に掲載されたものである。
魁新報のバックナンバーについては、明治6年の創刊以来、今日までの膨大な見出しの検索が、秋田県立図書館デジタルアーカイブで可能である。(まだ実際の記事の閲覧は同館にマイクロフィルムが所蔵されており、複写も可能)
【記事1:秋田魁新報 昭和8年8月19日 夕刊】
記事は本文を読んでいただくのが一番良いが、五城目営林署の軌道と秋田営林署の軌道を結ぶ全長500m余りのトンネル(名前は馬場目トンネルとある)を秋田営林局が計画中で、昭和8年8月17日にトンネル工事請負の競争入札を局で行ったところ、土崎町の武田甚之助なる人物が24,800円で落札し、工事は翌昭和9年3月までに竣功する契約であったことなどが主な内容となっている。
しかし、実際にはこの契約は履行されなかったようである。
次の記事はほぼ2年後のものだが、隧道はまだ完成していない。
【記事2:秋田魁新報 昭和10年7月14日 朝刊】
この時点でも馬場目トンネルは完成しておらず、明年の昭和11年完成予定と書かれている。
隧道の延長も前の記事の500m余りという表現から563mとより具体的になっており、着々と工事が進められていることが感じられるが、当初に請け負った武田甚之助氏の顛末が気になるのは私だけだろうか。
険しい交通不便な山中で、測量技術も機械力も乏しい時代に、全長500mの隧道をわずか半年(しかも積雪する越冬)で完成させようという請負契約が、そもそも無理であったような気がするのだが…。
ちなみに、秋田営林局を後継した東北森林管理局所有の資料を元に近年書かれた『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(東北編)』のp42にも、「分水嶺を越えた森林鉄道」として本線が紹介されているが、そこには次のように書かれている。
昭和8年に着工した。太平山系の稜線部を延長550mの隧道で貫くもので、その隧道工事は難工事となった。当時、国有林内の事業を担う建設会社には、隧道工事の経験が無かったことから、公入札に付して工事契約を行ったという。
武田甚之助氏が率いた建設会社は、隧道工事の経験を買われたのだろうか…。
この詮索は本編から余りにかけ離れてしまうが、土崎といえば私の実家もそのエリアにあるだけに、気になるなぁ。
【記事3:秋田魁新報 昭和11年9月10日 朝刊】
見よ、この力強い見出しを!
林業王国秋田の新聞社として県民の誇りを鼓舞せんという意図が感じられる。
書き出しの「仁別国有林開発百尺竿頭一歩を進め」という表現は、秋田県民に知らない人のない夏の「竿灯(かんとう)祭り」にかけたわけではないと思うが、「百尺竿頭に一歩を進む」は、すでに頂点に達しているけれども、さらに一歩をすすめるという意味のことばだから、小見出しの「予定より早く(今月中竣功)」がいささか疑わしいとしても、記事後段の通り、「最高勾配四十分一の森林を長蛇の如く山奥から市へと切りひらいた局の雅量」の面目躍如たるを十分に感じさせる表現となっている。
さて、記事によると、これが掲載された昭和11年9月初旬をもって、昭和8年10月着工以来3年ぶりにようやく仁別と五城目を結ぶ新設の森林鉄道全長10kmが、総工費89,000円で完成したようである。中心となるトンネルは全長560mと記載されている。
また、「フレッシュな山の幸が市民におくり込まれる」というのは、ちょっと林鉄好きには違和感のある表現で、林鉄で運ばれるのは木材や薪炭材であって、今日のイメージにおける“山の幸”すなわち山菜を運搬するとは思えないが、記者に真意を問いたいものがある。私が知らないだけで、当時は山菜輸送も林鉄の重要な任務であったのだろうか。
ともかく、こうして誌面を度々賑わわせた難工事が成り、県都秋田の中心地である秋田駅に隣接する手形貯木場(おそらく全国でも県庁所在地の中心駅から林鉄が出発していたのは、秋田と青森と…数えるほどしかないだろう)が、県下有数の秘境であった(今もそうだが)奥馬場目の山中と直接結ばれ、沿線に新たな活気がもたらされたのであった。今は昔の物語だ。
私のこれまでの知見において、この秋田市と五城目町の境に存在した全長560m(550mとも)の馬場目トンネルは、林鉄が通ったものとしては本邦最大級の規模を誇る峠越し型の隧道であり、林業王国として名高かった秋田県と秋田営林局の威信を誇る大隧道であった。
実際は昭和11年に華々しく完成してから、わずか6年後の昭和17年に廃止となっている(昭和24年説もある)ので短命だったが、この短命さも裏を返せば、秋田の林業が極めて盛大に行われた結果として、さらなる運材の規模拡大をはかるべく、逆勾配に悩まされる峰越しによらない代替の運材ルートを早急に整備した事によるのである。林業が“ほどほど”に盛んな地域であったら、これほど大きな投資を費やした隧道は、森林鉄道の廃止まで細々とでも使われた可能性が高かっただろう。
当サイトでは、これほどの貴重性を持った大物件でありながら、偶々自宅に近かったという理由で探索の時期が早かった為、今ほど物件の背景に関する解説も出来ず、その魅力を表現し切れていないという個人的恨みがある。だからせめて貴重な新聞記事を掲載することで、私のこの物件に対する熱い思いを代替したいと思ったのが、今回の追記の理由のひとつである。