隧道レポート 鎖大師参道の隧道 後編

所在地 神奈川県鎌倉市
探索日 2008.6.27
公開日 2013.1.30

隧道散策の残余分 



2008/6/27 11:46 《現在地》

隧道より脱出した私は、改めて周囲を観察してみた。

すると坑口向かって右手の茂みの中に、一基の石碑を発見した。
前回、坑口左側に常夜灯らしきものの残骸を見つけているが、右側にも遺物発見ということになる。

こいつめ〜。

私に小出しの情報を与えて、何が目的だー?

はたして気になる石碑の正体は?!




“堅牢地神塔”

うおわぁあ!!

これまた、興奮しちまったよ!

隧道のとなりに「“堅牢”地神塔」って、なんてお似合いなんだろう!

今回初めて調べて知ったのだが、堅牢地神というのは仏教の神の一柱で、文字通り大地を堅牢ならしめる神(女神)であるそうだ。
まさに土木工事の守り神のように聞こえるが、一般的には農耕の神として信仰されていて、神奈川県や群馬県などに多く祀られているという。

とはいえ今回この場所に限っては、やはり豊作祈願よりも、隧道の安全を願って安置されたのではないかと思うし、そうであって欲しい!




次に注目したのが、台座石に刻まれた文字だ。
そこから本碑建立の経緯や時期が判明するのではないかという期待があった。

が、だめ。

台座石には「世話?人」として「當(当)村」(ないしは「寄附」)の人名が20ばかり列記されているのみで、建立年は書かれていない。
ちなみに世話人筆頭は「内海」某という人物であった。
せめてこれが寄付者の名簿で金額でも書いてあれば、そこから年代が予想出来たかも知れないが…。うむぅ…。
【解読してやろうという方は、こちらから原寸大画像をダウンロードして下さい】

立地的にみて、この堅牢地神塔が隧道と何らかの関係を持っている可能性は高いと思うが、決定的な証拠は掴めず。
というか、どの碑(いしぶみ)も読みにくいよぉ(涙)。



念のため隧道の直上にも上ってみた。

隧道の土被りはわずかであり、洞床との高低差は6m程度であろう。

地中の隧道をイメージした状態で、地表をその出口方向へ向かって進むと、まもなく予想どおりの光景にぶち当たった。




県道304号の切り立った法面に、行く手を阻まれる。

おそらく隧道も内部は多少下っていたのであろうが、県道はそれよりもだいぶ勢いよく下っているので、高低差が想像以上に膨らんでいた。
結構怖い。

そして県道の向こう側には、本編初回の写真に山門が登場し、隧道の扁額にも名を掲げられた「鎖大師」こと、青蓮寺の境内が広がっていた。

画像にカーソルオンで、隧道の想像される位置を表示する。
おそらく県道を渡りきった辺りが、隧道の境内側の坑口だったのではないだろうか。
現在そこは墓地になっているが、元は違っていたのだろう。




この壁に歴史ある隧道が埋もれているとは、連日ここを通る数千の人々も、簡単には気付くまい。

未だ竣工年の分からぬ隧道だが、廃止の経緯は明らかだ。

それは県道が開通した時に違いない。




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最後に、県道の旧道にあたる「江の島道」を探索 


2008/6/27 11:49 《現在地》

さて、隧道に関してはこれで一通り見てきたと思う。
解明できなかったこと(竣工年)もあるが、現地で分かるのはこれだけだ。

最後はこの隧道発見の呼び水となった、“廃”切り通しの方も探索してみよう。




切り通しの方が、隧道よりも遙かに堅牢に封鎖されているのが面白い。

隧道は一般の通行人の視界から自然な形で遠ざけられており、仮に存在に気付いたとしても、ひと目見れば閉塞隧道と分かるために、無理に通行して事故に遭う人はいないと言う判断なのだろうか。
一方でこの切り通しはとても目立っている。
封鎖されていなければ、通ろうとする人も多いかもしれない。未だ地形図に描かれている所を見ても、法的には廃道ではなく鎌倉市道であり続けていると考えられる。

また封鎖の理由は「落石のおそれ」が「危険」とのことであるが、これも隧道ならば「落盤のおそれ」となるところで、どちらが危険であるかは一概には言えないものの、隧道の現状を見る限り落盤は起きそうになかった。

そしてここにも石碑ですよ(赤いところ)。

嬉しいんだけど、またジリジリと苦悩させられるのかナ…。



惟時維安政年間我郷有篤志家細谷久兵衛
内海津左衛門和田茂左衛門之三氏大奨励
実業転計公益当時於隣村津有荒野氏等斡
旋而共村民開拓之五町三段有歩称字猫池
台大井窪于仝?仰其福徳爾来星移物変?恨?其
功績不垂竹帛茲同志者相謀鏤石而顕彰之
    明治卅三年十月建之 当村 齋藤政吉作並書
※旧字体は新字体に改めました

碑は直接的に切り通しと関係するものでは無いようだ。

書かれている内容は、安政年間に「当村」の篤志家細谷久兵衛・内海津左衛門・和田茂左衛門の3氏が隣村である津村の荒野氏などと共同して5町あまり(約500e)の土地(字猫池など)の開墾を大いに奨励した事に対する顕彰碑である。建立年は明治33年で、碑面に繰り返し現れる「当村」というのは明治22年から昭和23年まで存在した鎌倉郡深沢村のことである(以後は鎌倉市に合併)。

安政期(1854-1859)の開墾事業のために切り通しが現在の姿に切り開かれた可能性はあるが(だからこそこの位置に建碑したのか)、本碑が根拠になるとは言えない。

(なお、ここで篤志家として掲げられている内海という名字を持った人物が「堅牢地神塔」の台座石にも登場しているが、名が異なっており、同一の人物では無さそうだ)



凄いな、これ。

隧道よりもこっちの方が、凄くないか?(笑)

しかも道が平坦でなく、かなりの勾配で下っているから、
余計に地表に対する比高が加わっている。

最近まで生活道路として使われていたらしく、
街灯付きの電柱が切り通しの中に設置されているが、
その丈と比較しても切り通しの深さは圧倒的だ。




とっても素朴な疑問。

こんなに深いのに、なぜ隧道ではなく切り通しなのか?

鎌倉の都を取り囲むように設置された7つの切り通し「鎌倉七口」は、歴史の授業でも登場するくらい有名な存在だが、それぞれ敵の侵攻を防ぐ目的で敢えて狭く作られているのだという。

であれば、隧道を選ばなかったのも頷ける。
通行中、この上から石や槍を落とされたら、ひとたまりもないだろう。
隧道ではそのような地の利を活かした攻め方は出来ない。せいぜい塞いで防御を固めるのが関の山であり、数に勝る敵であれば強引に山越えで攻め入ってくるだろう。そうなればもはや、どこを守ればよいか分からなくなる。
切り通しを敢えて敵に晒すことで、防衛側に有利な通路に敵を揺動する策であったと思う。




もっとも、この切り通しが「鎌倉七口」と同時代(中世)に作られたものであるかは不明だ。
しかし少なくとも、この切り通しを建設した人々は、隧道よりも切り通しの方が後々有利になると考えたのだろう。

この土地で通路としての実利だけを求めれば、必然的に隧道が選ばれたはず。
深すぎる切り通しには、通路とする事以外の何らかの思惑を感じる。
まして地質的な問題で隧道を避けたのではないと思われる立地であれば、尚のことである。




臨時開店“MOWSON”ですっ! (超久しぶりッ)

切り通しの路面は既にふかふかの落葉のベッドになっているが、そこでいくつかの通行人の遺物を見つけた。

遺物って言っても、行き倒れとか落ち武者の骸骨とか、そういう怖いものじゃないからね(笑)。

明らかに懐かしいコカコーラ瓶(←)とか、さほど古くは無さそうだけどいつのものか分からない「お試し60円」のコカコーラ250ml缶など。

これだけを見ると、この切り通しは結構昔に通行止めになっていたのかとも思う?
何かゴミが全体的に古い気がする。WONDA(1997-)とかは落ちて無さそう(笑)。
ちゃんと落ち葉拾いをすれば、もっと大量の遺物が出現するだろう。




切り通しの長さは約50mで、最も深いところでは地表に対し20mからの比高があると思う。

切り通し自体が貴重な交通遺産だと思うが、周囲の風致林というのだろうか、巨木の森が保存されている事も素晴らしい。
さすがは鎌倉。
一旦は“ゴミ溜め”隧道を見て萎えかけた気持ちが、この切り通しで一気に復活した!

そしてこれは探索後に判明したことだが、この切り通しには「男坂」という名前があった。
切り通しがいつ掘られたのかは分からない(私が調べていないだけで、多分誰かは知っているはず、教えて欲しい)が、案の定県道304号の旧道に当る道で、近世の「江の島道」(大船〜江の島)きっての難所だったとのこと。

また旧道になった時期も明らかで、昭和32年だそうだ。
このときに青蓮寺脇の現道が陸上自衛隊の受託工事として開通したことが、ウィキペディアに書いてあった。
となると、隧道も昭和32年前後に廃止されたと考えられる。

旧道化が思いのほか古く驚いたが、確かにこの切り通しは一部階段になっているくらい急であり、自動車は通行できそうにない。
抜本的なルートの改築が必要であったがために、切り通しは今日の好ましい静寂を手にすることが出来たと言えそうだ。
そしてその際には青蓮寺の献身的協力体制が不可欠であったろうと思う。



楽しい切り通しを抜けると、そこには草の茂る道があった。

藪というほど深くはない、あくまで草茂る道。

依然として下り坂なので、自転車で優しく通行する。
地面が見えないので、勢いよく行けば間違いなく階段の段差ですッ転ぶことになる。

下って行くとまもなく左手に大船方面の明るい平野が見えてきた。
そこはもはや見慣れた都会であるが、独りだけ緑に埋もれかけている青い屋根には見覚えがある。

PT(プライベートトンネル)物件の「ヤマノイハイツ手広」に他ならないッッ!




12:00 《現在地》

切り通し+草道=80mという、極短の廃道区間(封鎖区間)であったが、とても楽しめた。

この大船側も江の島側と同じ体裁で封鎖されていた。

…わるにゃぁぁん。




旧道はヤマノイハイツ手広と、心安らぐ感じのする墓地の間を通って、手広2丁目28番地の住宅地にお出迎えされた。
相変わらず道は狭いが、地形が平坦になったので普通の街路になった。

ここから先は宅地開発によって旧来の江の島道を辿ることは困難となり、少なくとも事前情報を持たない私には不可能だった。
普通に道なりに進んでいったところ…。




12:03 《現在地》

本編スタート地点である青蓮寺山門前(県道を挟んだ反対側)に出て来た。

これで気持ちよく一周したので、探索は終了である。

この写真の道が昭和32年に開通した現道であり、「矢印」の位置に「ヤマノイハイツ手広トンネル(仮称)」が、「●印」の位置に「鎖大師参道の隧道(仮称)」があった(埋め戻されている)。

こんなたわいない小さな山にも、人と道が織りなす歴史は深く複雑に入り組んでいた。
それは私などが初見で歩き回っただけでは、とても解明しきれない分量であることを実感した。
古都絡みは、やっぱ侮れねーなぁ。






最後に本編で解明できなかった謎についてのおさらい&新情報を整理しておこう。

この探索における最大のなぞは、なんといっても「鎖大師参道の隧道」を、誰がいつ建設したのかという点であろう。
これを解決するためには、洞内の壁に刻まれていた「隧道開通」という文字の隣の小さな文字(謎の五文字)を解読することが有効と思われたが、現場では判読しきれなかった。


しかし中編を公開した後で、ある読者さまから次のコメントをいただいた。

鎌倉市史社寺編(p.182)によると、戦前の青蓮寺住職は草繋全宜氏とのことですから、上から二文字は「全宜」のようにみえます。

そしてこのことをツイッターに書いてさらに皆様のコメントを求めたところ、別の読者さまから「全宜僧正代」と書いてあるのではないかというご指摘をいただいた。

私はこれを支持したいと思う。
というか、ほぼ間違いないであろう。

草繋全宜氏をコトバンクで調べたところ、確かに青蓮寺のことが書かれていた
また、ウィキペディア「青蓮寺」の項目にも、「昭和25年に住職の草繋全宣師が京都大覚寺門跡に栄晋された時に多数の末寺が青蓮寺を離れ大覚寺末となる。」とあり、昭和25年までは草繋全宣氏が青蓮寺の住職を務めていた事が分かるうえ、「かつて旧江ノ島道から青蓮寺へ抜ける洞門が存在したが、県道304号が開通した際に山ごと切りくずされ、以降この洞門は入り口で封鎖されている。」とまで書かれていた。

この寺を知る人にとって、洞門があったことは常識だったようだ。
残念ながら竣工年までは書かれていないが、謎の五文字の内容と合わせれば、草繋全宣氏が青蓮寺の住職であった戦前(いつ?)から昭和25年までのいずれかの時期に隧道は開通した…という所までは絞れるであろう。

完全解決には青蓮寺に直接伺ってみるのが一番だと思うが、お寺に電話で確かめるのはちょっと気が引けるな…。ちゃんと再訪して答えが分かったら追記します。
また、答えをご存じの方がいたら、こっそり(?)教えて下さいな。




ここからは特に本編以上の新情報はなく、いわゆるオマケだが、旧地形図の表記の変遷も見ておこう。

左図は明治36年測図の2万分の1地形図だ。

切り通しを通っていた「江の島道」(と思われる道)を赤く着色し、参道の隧道を緑で書き足した。

これを見れば分かるとおり、明治36年当時まだ参道隧道は存在しなかったようである。




今度は一気に時代が移って、現在の県道が開通してから作られた最初の版である昭和41年版(カーソルオンで昭和53年版)である。

この間の大正や昭和の版も目を通したが、隧道は一度も描かれていなかった。
そしてこれら現県道開通後の版にも当然、隧道は存在しない。

だからこそ旧地形図の調査は今回「オマケ」だったわけだが、凄まじいばかりの都市化に挟まれつつ旧状を留める手広(西ヶ谷)一帯を感じていただくべく公開した。
切り通し周辺の森は、やはり希少な自然環境だったようだ。

よく見ると、ヤマノイハイツ手広も昭和41年にはなく、53年版から登場しているな。




鎌倉市役所発行一万分の一「鎌倉市全図」(昭和35年製版)
の一部(画像提供:へちまたろう氏)

それでは隧道が描かれた地形図はないのかというと、へちまたろう氏(HETIMA.NET管理人)が大変貴重な画像を提供して下さった。

これは昭和35年に製版された鎌倉市発行の1万分の1の地形図で、昭和32年に開通した現県道や、今回探索した切り通しだけでなく、隧道の位置にも何やら道が描かれている

この地図をもって直ちに現県道と隧道が併存していた時期があるとは断定出来ないが、隧道らしきものがこの時期には確かに存在していた事は裏付けられるであろう。



以上、報告終り。


今回は廃隧道の壁面に「隧道開通」の文字を見つけた瞬間が、何より激しく興奮したッスな。
あと、美しい切り通しと。
ヤマノイハイツ手広の佇まいも……忘れられない。






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