国道16号 横須賀隧道群 前編 

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2007.3.23
公開日 2007.4. 8

 三浦半島レポのデビュー戦を、いかにも山行がらしい廃隧道「佐島隧道」で飾った(飾れてないか)私だが、むしろ私がこの三浦半島という地で一番行ってみたかったのは、これから紹介する隧道群だった。
そしてそれは期待通りに、私の心を並の廃隧道以上に掴んだ。
現役でありながら。

 横須賀市史は「交通・運輸の推移」という節を設け、その中で「横須賀は地形上、トンネルが多く…」と概観している。 続けて「(市内のトンネルは)(昭和)60年4月1日現在64ヶ所を数えるが、30年には既に42ヶ所のトンネルが開削されていた。」と、古い隧道が多く存在することに触れている。

 これから紹介する国道16号の隧道群は、奇しくも路線番号に等しい16本の隧道で構成されている。 そのうち最も古いものは船越隧道で、大正12年に生を受けて以来ずっと現役である。
また、15番目に開通した新浦郷隧道でさえ昭和36年竣工と決して新しくない。ただ一つ、最後に完成した新横須賀隧道のみが平成2年竣工と若いのみである。
そして現在はこの16本の隧道は全てが、上りもしくは下り線専用として利用されている。(右の写真は田浦隧道で典型的な光景)
そのことが、他の道路ではあまり見られない、この隧道群に特有な交通風景を作り出している。

 右の地図をご覧頂きたい。
また、もしお手許に道路地図帳があるならば、是非見てみて欲しい。
余り大縮尺でない道路地図の方がギツギツさが伝ると思う。地図を描く人もここには頭を悩ませた筈だ。狭い範囲に太線で描くべき国道が輻輳せざるを得ない。
道は突如街中で二股に分かれたかと思うと、狂ったように隧道を連続させている。

 実は、遠くない未来、これら隧道群が大規模な改修を受ける公算が高まっている。
そうなれば、この土木遺産級の隧道達はどうなってしまうのか。 …不安は大きい。




大都会の現役古隧道たち

横須賀の都心より出発  始めに出会うは「横須賀隧道」 


 軍港都市として発展し、戦後は米軍基地と共に歩んできた横須賀。
その海(港と基地)と山に挟まれて南北に細長い都市部の中心を国道16号が縦断している。
これと平行して半島の中央丘陵地に自動車専用道路としての有料バイパス「横浜横須賀道路」が通っているが、距離の離れた両者のアクセス性に難があり、国道16号の混雑は一向に厳しい状態を脱していない。

 写真は京急本線の汐入駅(横須賀中央駅の隣駅)付近より北方を望む。
前方のマンションが居並ぶ丘陵地帯を、これから連続の隧道で貫通していく。
見慣れぬ多車線を跨ぐ青看の帯には、なんだかドキドキした。
私がドライバーなら、この流れの速度で適切なレーンに入る自信はない…。



 首都と横須賀を結ぶ鉄道は京急本線が主役だ。
明治時代に早々と開通したJR横須賀線もあるが、軍の要請を第一に路線や駅地が決められたせいか、私鉄である京急に比べれば便利な線ではなくなっている。
町の発展も、遙かに京急の線路寄りと思える。

 今までの山行がの探索では決して出会うことの無かった、下手な三浦半島の山より高いと思われる超高層ビル。
思い思いの衣装に身と包んだ若者が闊歩する歩道。人の連なり。
夕暮れ時、いよいよ喧噪を増す路上の車列。

 自身とって未知なる道を走る興奮が私を強く刺激する!



 さて、歩道を通って国道を北上する。
普通なら「街を出て上り始めると…」となる場面も、ここでは街のまま登っていく。
古い隧道が現れそうなムードでは全くない。
それに、登りとは言ってもここは地面の上じゃない。陸橋だ。
国道は既に一本の道に纏まりきれず、二本の陸橋に分かれている。



 二手に分かれた上下線の陸橋が再び一つになる。
ここからは地面の上。
上下線の間の狭い敷地に立派な石柱の立っているのを見つけた。
そこには堅そうな文字で「横須賀陸橋 神奈川県 昭和三十七年三月」と彫られている。
いまは碑の前に近づくことも困難だが、この街にとって非常に大きな事業だったことが伺える立派な石碑だ。
大正10年版地形図では当然、陸橋も次に現れる横須賀隧道も存在しない。
当時の道はこの下の、埋め立て地と旧海崖に挟まれた狭い土地を屈曲しながら通過していた。




 陸橋のすぐ先で道は暗渠を渡る。
下には水路でもあるのかと覗いてみると、意外にも一本の線路が道路脇の法面の下へ吸い込まれるように消えていた。
土地勘のない私にはこれが何か分からず、地図を確認して初めて、JR横須賀線の横須賀隧道その坑口であることを知った。
 横須賀隧道については、今回のレポートの本筋からは離れるが色々と興味深い事実がある。
明治22年に横須賀駅まで開通していた横須賀線であったが、昭和に入ってから再び軍の要請で近接港である久里浜までの延伸が決定された。
昭和15年に測量を開始し、太平洋戦争勃発後は突貫工事となり19年6月にようやく開通したという。工事の最大の難所が横須賀隧道で、隧道間の短い明かり区間をわざわざ盛り土で地下へ隠したことで(もちろん軍事上の理由)、一本の2089mにも及ぶ隧道となった。また、無理に最短距離を採ろうとしたため既に敷かれていた京急の線路や国道との干渉が問題となり、やむなく隧道内部が低い凹形の縦断勾配を採用したという。そのため、現在まで専用のポンプ場で排水しているそうだ。(横須賀市史より)
ちなみに隧道は単線なのだが、市史には「複線の施設が完成していたものの戦争の終結によって不要となった」旨の記述がある。
…気になるな、 でも写真見る限り単線だよね?



 「これぞ都市のトンネルだぁー!」とでも言いたげに二本並んでいるのは、横須賀隧道である。
「隧道? そんな時代遅れな。“トンネル”ですけど、私。」 とか言い出しそうな姿をしているが、このうち左の隧道は紛れもなく昭和20年に建設された“隧道”である。
なお、市史には昭和20年完成とあるが、『道路トンネル大鑑』には昭和37年完成となっている。
その原因は不明であるが、現在下り線として使われている奥の隧道は一連の16隧道で最も新しく、平成2年に開通した新横須賀隧道である。
それまではこの隧道のみが片側1車線の対面通行だったため、かなりひどい渋滞が発生していたという情報を地元の方に頂いた。
また、新隧道開通に併せて元々の隧道も改修し、現在の都市的なデザインに変身したのだという。


 銘板は改修によって「トンネル」へと改められていることも覚悟したが、真新しい銘板は隧道を継承していた。

ともかく、この姿を見たときには、一連の隧道は全て改修済みなのかと落胆したが、いい意味で裏切られる事になる。



 やや右にカーブしている隧道内部。出入り口付近には屏風形の消音壁が取り付けられており、明るい照明と相まって近未来的な景観を見せている。
隧道は幅8.2mで現在にも全く通用する幅があるはずだが、思いのほか歩道は狭い。
2車線の車道が幅を利かせすぎているからだ。まあ、写真のような超大型車が次々通り抜ける幹線ゆえやむを得ないのか。これでも後の隧道を考えればよっぽどマシだった。
熱気と騒音、風洞そのものの突風に目を細めながら、自転車同士では行き違いの出来ない狭い歩道を進む。
利用者は少なくない。立ち止まっているのは憚られるし、少し急ぐ。




 隧道を抜けるとJR横須賀駅のそばへ出る。高層マンションが国道と線路の隙間の狭い敷地に突き立っている。
国道は駅へアプローチせずそのまま北上し、間もなく次の隧道が見えてくる。

 右の写真は横須賀隧道の北口。
上り線の坑門は少し延伸されているようだ。



 お洒落に舗装された歩道に馴染まないどっしりとした石標が佇んでいるのを発見。
風化して丸くなった表面には達筆な文字でこう刻まれていた。

 安針塚山へ約十一町

 大正十年二月十五日  (裏面)

安針塚山はこの道が出来る以前に利用されていた十三峠の途次にあった史跡地で、横須賀市によれば他にも同じものが二箇所に建てられているとのことである。



 道路標示にもある通り、この隧道連続地帯は片側2車線でありながら時速40キロに制限されている。
しかし、ラッシュ時を除けば守られているとは思えない。
自転車歩道通行可の標識もあり助かる。
ロードサイクルならばいざ知らず、ママチャリやMTBでこの車道には出たくない。

 目の前に道を取り囲むような高台が近づいてきた。
いよいよ本格的な隧道連続地帯が始まりだ。




 キタッ!
歴史を凝縮したかのような石積の坑門が二門!
車に満ちた4車線の道が、その坑門によって整然と二分割されている。
そして色とりどり大小様々の車達が、廃隧道だと言われてもおかしくないような年季の入った穴に出入りしている。

 ドライバーの皆さん!
 果たしてこの隧道は大丈夫なんですか〜?
 安心ですかー?


これだ!
こういう景色を期待していたんだよ!

激熱だ!



 この二つの隧道の名前は左が逸見隧道、右は新逸見隧道。
逸見は“へみ”と読む。変わった名前だが地名そのままだ。
そして私は、二つの坑門の間の僅かな緑地に記念碑が建っているのを発見。
存在自体は誰の目にも見えていたに違いないが、その碑文を読んだ人がどれだけいるだろうか。
読みたい! 読みたい!
しかし…、
この場所へ到達するためには法を犯さねばならない…。

 ところで、写真に写る高さ制限の標識に取り付けられた「右車線」とは、珍しい補助標識である。
隧道自体の内高は4.5mあるのだが、歩道が無く車道がよりアーチに接している右側車線のみ制限高が設けられているのだ。
これは新逸見隧道も、この先の一連の隧道も同様だ。



 「法を犯す?  何を大袈裟な…。」
そう思うかも知れないが、この辺りは全て歩行者横断禁止になっている。
実際に検挙されたという話は聞かないわけだが…。

 また、たとえ横断禁止でなかったとしても、深夜とか早朝でもなければここを横断するのは結構怖いぞ。
右の写真の通り、車通りがなかなか切れないのである。



 チャリを歩道に寄せ、単身潜入した中央分離帯。
目の前にはますます巨大な石積の坑門。近づいてみると凄い迫力だ。いままで、ここまで横幅の大きな石組み坑門というのを見たことがない。

 左が逸見、右が新逸見である。
それぞれ、昭和3年と昭和19年生まれ。
そして、ここからだと二本の隧道が出口まで平行しているように見えるが、実は、ここを扇の要のようにして、微妙に別の方向へ向かって開いている。(それが分かる写真[07.3.31撮影])
ここからしばらくは、上りと下りが別の道を歩むことになる。



 上り車線として利用されている逸見隧道。昭和3年から今日まで使われ続けている。
2車線プラス狭い歩道のスペースがあり、その幅員は7.2mと記録されている。(延長は156m)
アーチのみ煉瓦で他はコンクリートブロック製となっているが、煉瓦の巻き立ては厚く、通常4〜5枚のところ6枚もある。なぜか扁額はない。

 当時の技術では限界に近い大断面の隧道工事は国威の掲揚を含んだものだった。
横須賀隧道を除く、この先の7連各2本合計14本の隧道のうち、それぞれの古い方は大正11年から昭和3年までに行われた新道工事の成果で、工事はこの逸見隧道の完成で竣工となった。

 当時の路線名は国道31号で、「東京市より横須賀鎮守府所在地に達する路線」という指定を受けた相当焦臭い路線だった。
明治以来の国道は馬車さえ通れぬ十三峠で、専ら人や大荷は東京湾の通船によって往来していたという。


 一方、こちらは昭和19年に完成した新逸見隧道で、下り線として使われている。
こちらは幅が5.7m、延長は147mで、先代よりも一回り小さいサイズで建造されているのが意外だ。
確かに二本を見比べて新の方が小さいのが分かる。
これは、旧の方が対面交通を想定していたのに対して、新はあくまで複線化を前提に建設されたために規格が小さくなったという可能性もあるが、建造された時期を考えれば単に工期短縮のためかも知れない。

 しかし、黒御影石の扁額があり、「新」付きで隧道名が刻まれている。
それは突貫工事の末に作られた隧道とは思えぬ、精緻に満ちた素晴らしい石造隧道である。

 居並ぶ2本の隧道に甲乙付け難し!




 この場所で読んでいる時間はないから(パトロール中の警察に見つかりたくないし)、とりあえず写真を撮って撤収!

で、帰宅後に解読した内容は以下の通り。(旧字体→新字体、●は欠落部)

公益事業之為徳莫大而謀交通運輸之便最大為往●●横
須賀至金沢方位非経十三嶺若吉倉則不可不擂海路海路
因軍港拡張変為其渡津陸路則十三嶺若吉倉而峻阪険悪俗
称之七曲白昼剽盗出没是以鈴木福松石川儀平鈴木惣右
衛門鈴木藤吉四氏深慨交通運輸之不便得同士十八人又賛
助投多財謀洞道開削明治二十二年三月起工工未央遭義
石崩頽四氏憂慮不能措然懐公益継業而不已二十四年四
月遂竣工費額倍■(草かんむりに徒の字)於予期市人感其義侠建此碑銘日
捨私奉公 維誠維忠 鑿巌洞壁 以賛天工 昔者蹇澀
今則通融 運輸貨物 行人学童 往復自在 是孰之功
 大正三年五月 東京斯文学会講師大野太衛撰并書

 ふーっ、疲れた…。
細かなニュアンスまでは私には読み取れないが、概ねこんな内容。
「横須賀と金沢(横浜市金沢区)を行き来するのに、十三峠を越える以外に渡船を使っていたが、軍港拡張のために廃止されてしまった。そのために十三峠を通るか、或いは吉倉へ出てから海路をとらねばならなくなった。しかし、吉倉へは俗に七曲がりと呼ばれる夜盗も出るような険しい坂道を越えねばならなかった。交通の不便を痛感した地元の有志が私財を投じ、明治22年から隧道の開鑿を行った。明治24年に隧道は完成し、これによって交通が便利になった。」
大正3年に建立された顕彰碑である。また碑の下部には18名の協賛者の氏名が並んでいる。

 すなわち、この付近には複線となった16隧道とは別に、さらに古い吉倉隧道と呼ぶべきものが存在していたのだそうだ。
「!!!」である。現地でこれを読んでいれば大騒ぎで探しただろうが、帰宅後だったからあとの祭り。
後日ちゃんと再訪し、無事その隧道も発見することになる。 が、それは別の機会にする。
それにしても、逸見隧道の坑門前に曰くありげに建っている碑の内容が、別の隧道に関するものだとは意外。この一事をもってしても、吉倉隧道は無事でないのだろうと思わせる。

上記、吉倉隧道に関する記述には多くの勘違いが含まれており正確ではありません。
私が吉倉隧道を発見したと書いているのは誤りで、見付けたのは別の隧道「長浦田の浦隧道」でした。
また、ココにこの石碑があることも何ら不自然なことではないのでした。
詳しくは、隧道レポート『吉倉隧道と長浦田の浦隧道』をご覧下さい。
2007/11/20追記



 …目のエネルギーを使い果たしたので、続きは次回へ…。 







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