隧道レポート 吉倉隧道 (横須賀市の明治隧道)

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2007.3.23および31
公開日 2007.11.19

 「吉倉隧道」および「長浦田の浦隧道」をただ「こんな隧道です」と紹介するのは容易いが、ここは敢えて遠回りをしたい。
これから少し多くの図を使って、両隧道が存在する地区の「道の変遷」を見て行く。
その流れを見ていただくことで初めて両隧道の在処だけでなく、現状について説得力のある説明が出来ると思う。

 2本の隧道の変化する姿を想像しながら、見ていただきたい。

なお、以降の地図の範囲はココである。(おまけにマピオン

明治20年

 明治20年。この年に内務省は幕藩時代からの「浦賀道」を「国道45号(東京〜横須賀鎮守府)」に指定した。しかし、この道が通る十三峠には二分の一という、国道としては日本一急な勾配があって(『明治工業史土木編』による)、馬車は通れなかった。
 ゆえに横須賀と横浜方面の往来は主に海路によっていたのだが、横須賀の民港が軍港拡幅によって使えなくなったため、横須賀近傍の逸見(へみ)から吉倉まで陸路をとり、吉倉港から海路をとる者が多かった。
しかし、この逸見〜吉倉の間には通称:七曲りという山道があり、十三峠同様に往来は容易ではなかった。

明治24年

 そこで、逸見村の有志4人が発起人となり、同志18人と共に私財を投じて、逸見〜吉倉間に隧道を掘削した。
工事は明治22年3月に起工し、24年4月に竣工している。これが吉倉隧道である。
 これによって七曲りの危険は遠ざけられたが、直前の明治22年には官設鉄道の横須賀線(JR横須賀線)が横須賀まで開業し、時代の趨勢は海路から鉄道へと転移し始める。

明治43年

 鉄道の開通によって海運は衰退、鉄道以外の陸上交通も発達が停滞する。
しかし、急峻不便な十三峠を避ける新しい国道ルートの模索は始まっており、起工者や施工主等の詳細は不明であるが、古くから脇道として利用されていた「長浦通」の最も険しい峠に、長浦田の浦隧道が明治43年竣工した。

昭和3年

 大正9年に道路法が施行され、それまでの国道45号は改めて「国道31号」に指定を受けた。そして、大正11年には横浜側から十三峠を通らない新ルートの建設が始められ、田浦〜逸見間には田浦、吾妻、長浦、吉浦、逸見の5本のトンネルが建設された。この工事が昭和3年に竣工し、遂に片側一車線の自動車が通える近代的な道路が開通したのである。

 この時点では吉倉隧道は逸見隧道の隣に、そして長浦田の浦隧道は長浦隧道の隣に存在したはずである。しかし後者は、この頃に埋められたという記録がある。

昭和20年〜現在

 太平洋戦争中の昭和17年に、軍事上極めて重要な路線とされた国道31号の一部複線化が起工。新田浦隧道に始まり、昭和19年開通の新逸見隧道まで5本のトンネルが従来のトンネルの隣に建設された。また、さらに横須賀寄りには、横須賀隧道が昭和20年に開通している。

 このとき、逸見隧道の隣に残されていた吉倉隧道を拡幅改良し、新逸見隧道と改名して開通させている。

 現在までこのルートに変更はないが、路線名が昭和27年より国道16号に変更となっているほか、新横須賀隧道が横須賀隧道の隣に平成2年に増設された。




数奇な運命を辿って… なお現役!

 吉倉隧道あらため……


2007/3/23 15:34

 これが、吉倉隧道の現在の姿である。(向かって右側の隧道)

とは言っても、現在は新逸見隧道という名前が付けられ、誰もがそう呼んでいる。
吉倉隧道はすっかり消えてしまったかのようだが、それでもちゃんと繋がりを示すものは、残っている。




 2本並んだ隧道は、向かって左が昭和3年に開通した逸見隧道で、右が昭和19年開通の新逸見隧道。
しかし、この新逸見隧道のあった場所には、元々は吉倉隧道があった。
吉倉隧道は、明治24年という早い時期に、民力だけで開通した隧道だった。

 その吉倉隧道の姿についての詳しい記録は残されていないが、素堀の細い隧道だったようだ。
また、その長さについては、新逸見隧道が教えてくれる。
新逸見隧道の長さは147mである。おそらく元の長さとそう変わるまい。

 この隧道の長さについても、新たな気づきがあった。
右下の表を見て欲しい。

新旧隧道の長さ比較
隧道名
逸見156147
吉浦217260
長浦195236
吾妻89151
田浦115119
船越75127


 国道16号に並んでいる新旧複線隧道の長さ比較である。
逸見隧道のみ旧の方が長い。

これは、本来の新旧が逆転している事実を示唆している様に思える。
もっとも、この事実だけから新逸見隧道の秘密に辿り着くことは、出来ないだろうが。




 先ほど「吉倉隧道との繋がりを示すものが残っている」と書いたが、それがこの石碑である。
両者の繋がりを示す唯一のものと言って良い。

 もう気付いている読者も多いだろうが、この隧道は以前一度レポートしているし、これらの写真も使っている。(隧道レポート『国道16号横須賀隧道群』

 しかし、
その時には、この石碑の意味が分からなかった。
何故ここにあるのかも。

 今一度、その内容を紹介する。(旧字体→新字体、●は欠落部)

公益事業之為徳莫大而謀交通運輸之便最大為往●●横
須賀至金沢方位非経十三嶺若吉倉則不可不擂海路海路
因軍港拡張変為其渡津陸路則十三嶺若吉倉而峻阪険悪俗
称之七曲白昼剽盗出没是以鈴木福松石川儀平鈴木惣右
衛門鈴木藤吉四氏深慨交通運輸之不便得同士十八人又賛
助投多財謀洞道開削明治二十二年三月起工工未央遭義
石崩頽四氏憂慮不能措然懐公益継業而不已二十四年四
月遂竣工費額倍■(草かんむりに徒の字)於予期市人感其義侠建此碑銘日
捨私奉公 維誠維忠 鑿巌洞壁 以賛天工 昔者蹇澀
今則通融 運輸貨物 行人学童 往復自在 是孰之功
 大正三年五月 東京斯文学会講師大野太衛撰并書

 概ね次のような内容である。

横須賀と金沢(横浜市金沢区)を行き来するのに、十三峠を越える以外に渡船を使っていたが、軍港拡張のために廃止されてしまった。そのために十三峠を通るか、或いは吉倉へ出てから海路をとらねばならなくなった。しかし、吉倉へは俗に七曲がりと呼ばれる夜盗も出るような険しい坂道を越えねばならなかった。交通の不便を痛感した地元の有志が私財を投じ、明治22年から隧道の開鑿を行った。明治24年に隧道は完成し、これによって交通が便利になった。


今ならば、この碑文の意味も、なぜここに碑があるのかも、はっきりと分かる。
市内有数の古隧道の在処を、この碑は伝えていたのだ。




 こんな危険な場所に、ただ独り置かれながら!





 新逸見隧道の横浜側坑口である。
こちら側の坑口には、吉倉隧道を偲ぶものは何もない…。

だが、確かにこの隧道こそは、
横須賀市で唯一、いまも国道として生き続ける明治隧道だった。





 昔人が血と汗で勝ち取った吉倉隧道は、姿も名前も変えて、どっこい生きていた。


 “新”と名の付く 旧隧道。

その秘密は、オブローダーにとって甘美な蜜の味にも等しいものであった。



参考資料
 『横須賀市史』 『道路トンネル大鑑(土木界通信社刊)』 『田浦を歩く(横須賀市(田浦地域文化振興懇話会編))』