2003/9/3 7:44 【現在地(マピオン)】
飯塚大橋のそばで「八橋(やつはし)」を見た私は、土地としての歴史を余り持たないはずの干拓地に似合わぬ意味深な橋の名に、興味を覚えた。
だが、私の問に答えてくれる人がそばにいるはずもなく、そのまま湖東農道の北上を再開した。
現在地は飯塚大橋から1.5kmほど一直線に北上した地点で、前方に3本目のトラス橋が近付いてきた。
この橋は干潟橋というが、さっきもまったく同名の橋があった。
一連の道に1本の橋(飯塚大橋)を隔てて同名の橋が2連続するなど、たいへん珍しいのではないだろうか。
○○大橋という安直な命名が多いことといい、やはり干拓地の橋に固有の名を付けることには、苦労した事が伺える。
この“2つ目の干潟橋”は井川に架かっており、当時は飯田川町と井川町の境であった(現在は潟上市と井川町の境)。
なぜここまでの例にならって「井川大橋」という名前にしなかったのか、謎が残るところである。
ちなみに、オレンジ、緑ときたトラスの色だが、今度は赤に塗られていた。
で、この橋を渡っている最中に、気づいた。
さっきの「八橋」にそっくりの橋が、この井川下流の左岸と右岸の両方にあることに。
まずは、左岸の橋を見に行くことにした。
これはもしや、“七橋”か?
地図だと、【この場所】に架かっている橋だ。
この景色だけを見ると小さな池のようだが、これも承水路であり、橋の前後は細長く干拓地の中に続いている。
また、橋の向こうに見える建物は屋根や窓が壊れており、廃墟のようだ。
建物の入口には「東部干拓 第四排水機場」との銘板が掲げられていたが、鉄の扉は施錠もされず開け放たれたままになっていた。
ガラスも割れている。
建物の内部は単純な作りで、大型の器械が多数備え付けられたコンクリ敷きの広間のほかに畳敷きの詰め所のような部屋があるだけだった。
そして肝心の器械はどれも錆び付いており、既に稼働していなかった。
しかも様々な雑多なものが所狭しと置かれており、倉庫のようになっていた。
この施設は「排水機場」であり、干拓が無事に終了したことで、その役割を終えたのだろう。
さて、肝心の(?)橋である。
この橋の名前が、さっきから気になっていた。
…行くぞ。
「八橋」の種明かしへ、重大な一歩。
郎橋。
この名前を予想できた人いるだろうか?
今まで数千という橋の名を見てきたし、そこには重複するものが多数あるが、これはおそらく日本中で一橋きりだろう。
すがたかたちは八橋と瓜二つで、建設された時期も同じ昭和39年だった。
ちなみに読みは、別の親柱の銘板によると、おとこはし。
「郎」の字には常用外で「おとこ」の読みがあるのだが、この字をわざわざ橋の名前に持ってきている時点で、「何をしようとしているのか」が、やっと分かった。
…みんなも、分かったよね?
「郎橋」と「排水機場」のセットと同じ組合せが、井川を線対称の対称軸にしてその対岸にもある。
一見するとどこにでもありそうな川と草原の風景であるが、全ては人間によって配置されたものなのだ。
…もちろん、ずっと遠くに見える山に関しては、森山という天然の山だ。
しかし、干拓の為に大量の土砂が削り出されたため、形が大きく変わってしまったという。
それ以外は、この写真に見える全ての地面が干拓地である。
さて、向こうの橋に行ってみよう。
きっとその名は……。
7:55 《現在地》
干潟橋を渡ってやってきました、今度は右岸側の橋。
なんか右の承水路にジュンサイが育ってそうだな…。
ということで、3本目。
だんだん“廃”っぽくなってきている感じもするが、残念ながらこれで最後だと思う。
…これが、私の予想した通りの名前ならば。
この橋のそばにある【排水機場】も廃墟だった。
また、右奥に見えるショベルカーも廃車だった。
水田だけが残り、それらを作るためのものは、みな棄てられていた。
わが国の過ぎ去った黄金時代を、見せつけてられている感じがした。
…もったいないよ。
ということで、銘板チェック!!
潟橋。
読みは、かたはし。
予想通りにつき、これにて一件落着。
「八橋」「郎橋」「潟橋」。
八郎潟だ!(笑)
3本の橋の名前を繋げると「八郎潟」になる。
今のところ、ここでしか見たことのない珍しい命名則である。
単純といえば単純だが、その読みが「はちはし」「ろうはし」「がたはし」ではなく、日本語としての音の美しさを考慮した「やつはし」「おとこはし」「かたはし」になっているなど、ちゃんと考えた末の命名であったと思う。
少なくとも、河川名に大橋と付けただけの橋を濫造し、挙げ句の果てに同名の橋が2つもある昭和50年代の湖東農道よりは工夫されている気がする。
まあどちらにしても、歴史のない干拓地に大量の橋が一気に出来た事による、名付けの苦労を感じさせる事に違いはないのだが。
3橋あわせて「八郎潟」があるかと思えば、そのすぐ近くには「八郎橋」というのもある(左図)。
なお、この3つの橋は干拓が完成に近付いた昭和39年の竣工で、当時は湖東農道がまだなかった。
よってこれらの橋は広大な干拓地内における幹線であり、現在とは比較にならない重要度があったと考えられる。
現に橋の幅には、若干の余裕が持たされている。
その意味において、3橋は湖東農道の旧道に属する橋と、言えないこともないだろう。
8年も引っ張ったのに、オチはダジャレかよ。 そんな失望の声も甘んじて受けよう。
でも私としては、やっと伝えられてスッキリした。
これでもう、心残りはない…(冗談でしゅ)