橋梁レポート 旧稲又川橋 後編

所在地 山梨県早川町雨畑
探索日 2009. 9.18
公開日 2009.10.23

賞味期限ぎりぎり?! アクロバティック廃橋梁



2009/9/18 《現在地》

情報提供を受けてから1ヶ月経たないうちに現地へ向かったのが功を奏したのか、私が見た写真と同じ状態で、橋は“架かっていた”

すぐにでも近付いてみたかったが、それは難しかった。

此岸はコンクリートの高い擁壁によって、河原へのアプローチを完全にロックアウトされていた。
したがって、まずは対岸へと向かう必要があった。




現在架かっている橋は、銘板によると「稲又川橋」といい、「昭和59年3月竣功」とある。
つまり、河原で喘いでいる旧橋は、昭和59年より以前に廃止された可能性が極めて高い。

ここで私が気になったのは、現在の橋の架設が稲又林鉄の廃止(車道転換)から、20年近くも後になっているということだ。




橋の袂は分岐地点になっており、左折するのが本線で、直進は稲又谷沿いの「稲又林道」である。
稲又林鉄もここを直進していたのであるが、今の林道と最後まで重なっていた訳ではなく、林鉄は途中からインクラインを介して上部軌道へ接続し、林道終点の堰堤より上流まで伸びていた。

つまり、稲又林鉄は稲又谷を渡っていなかった
(ただしこれには異論があるので、後述する)




南アの高い稜線を遠くに仰ぐ橋上の眺めは素晴らしい。
それだけ稲又谷が広く大きく発達した谷である事を意味している。

そして本橋は、稲又谷を橋脚無しのワンスパンで跨ぐ、かなり背高なワーレントラスである。
どんなのっぽな車でも車両限界に抵触することは無さそうだが、当然無駄に高いわけではなくて、剛性と長スパンとコストの難しいバランス計算から編み出されたものだろう。

現橋が橋脚を持たず、旧橋は河中に一本の橋脚を残していること。
そして、この橋のわずか50mほど上流に、比較的新しい巨大な砂防ダムが存在すること。
さらに、河床が明らかに膨大な堆積物で埋もれていること。

これらを組み合わせると、破壊された旧橋に何が起きたのかがだいたい予想できたが、まだ結論は出すまい。




今度は、側方上部から見下ろすアングル。

う〜〜ん。

何度見ても、凄いギリギリだ。

状況から言って、この橋が元の位置へと戻れる希望は全く無い。
今は架かっているけれど、いつ落ちるかを待つばかりというのは…、もしもこの橋に思い入れのある人が見たら、ひと思いに切り落としてあげたくなるに違いない。




気持ちが逸りすぎたらしく、「これから下ります」というところで写真を撮影していなかった。
普段なら絶対にとる場面なのに、不思議だ。

そして、当初考えていた以上に橋への接近は難事業だった。
橋があるのだから当然旧道があったはずなのだが、そんな常識を嘲るように何も残っていない。
そこは急斜面の密林で、頭上に現橋が見えなければどちらへ進んで良いかも分からぬほどだった。

結論から言うと、この旧橋は両岸ともに、全く道路の痕跡とは接していなかった。




現橋の直下、旧橋とほぼ同じ高さにまで降下した。

後はもうどうにでもなりそうに見えるが、実はここからがまた難儀だった。

アリ地獄のような砂利の崖と、背丈より深い潅木の密林と、そのどちらかを選ばなければ旧橋の袂へ近付くことは出来なかった。
前者は5mの落差を下手に滑り落ちるとリアルに骨折しそうな予感がしたので、チキンに地道に藪を漕いで接近した。
蜘蛛の巣がとにかく多いのも不快だった。




しかし、一歩一歩ごとに近付いている事が実感され、その興奮は少々の憂鬱を超越するものであった。

あと、もう少し!





到着!


間近に迫って最初に思ったことは、

橋が意外に巨大であった ということだ。





左右の写真を見ても、比較対象物が少ないせいで、大きさをあまり実感して貰えないかと思う。

しかし、これはどう考えても林鉄用の橋ではない。
百歩譲っても、車道と林鉄の併用橋であって、林鉄単体でこの幅を持つ必要はない。
ここに床版を乗せれば、普通に乗用車が通れる道が出来るだろうという大躯である。




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稲又林鉄は川を渡ってはいなかったのだから、この橋が林鉄用でなかったことに矛盾はない。

近くで見ないとモノの大きさは正確に測れないという、そんな教訓を私に与える盛大な“サイズ違い”だった。
そもそも、「ガーダー橋≒林鉄」という先入観が強かったがゆえの誤診でもあった。

繰り返すが、橋は昭和59年に現橋が架設される前に使われていた林道橋と断定して良い。
だが、現状の余りの変貌ぶりは、ここを自動車が通行していた過去を容易に想像させない。

少なくとも、床版が全く残っていないというのは、車道用ガーダー橋としてはこれまで一度も見たことのない“破壊相”である。
こんな風に破壊されることもあるのかという、純粋な驚きがそこにあった。

しかしさっきの【この写真】をよく見ると、桁の上面に残る引きちぎられた結合材と癒着したコンクリートの破片が確かに写っている。
車道橋から床版が引き裂かれた残骸に違いなかった。






このアングル!
これが見たかった!

みんなもきっとそうだよね?


こうしてここ(旧橋の真下)に立っているだけで、頭のテッペンがむず痒い。

この瞬間に落ちてくるなどあるわけがないが、それでも命の重しが軋んで震えた。
頭上から、目が離せなかった。




そしてこの異様な光景は、私自身をも捕らえて離さなかった。

本来バランストなものがアンバランスにあるとき、言いしれぬ不安が人を虜にしてしまう。

これも一種の“吊り橋効果”なのかも知れない。

その事は私だけの特殊な事情ではなく、廃な光景に惹かれる人がかように多いことからも裏付けされる。
特に土木構造物の大きなモノ、ビルや橋や隧道のようなものが不安定になってくると、人の意識はそこに群がる傾向があると思う。
それは本当は快感ではないはずで、本能的に危険の行く末を見守ろうというだけかも知れないが…。


私なども惹きつけられすぎて、ここまで来てしまった。






みなまで言うな。

分かっている。

バカだと。


しかし、惹きつけられた先は、当然こうなる。

橋が“架かっていた”のだから、当然こうならざるを得ない。







だが…。


足、止まる…。






…さすがにこれは、自重すべきだろ。








結局、“これだけ”(→)を“渡って”、私は引き返した。

不甲斐ないと言われればそれまでだし、物理的に橋が落ちる危険性は無いと判断していた。
外見的にはこの上もなく不安定に見えても、少なくともここ何ヶ月とこの形をキープしているのだ。
その間、風も吹いたし雨も降った。特に風が橋に与える外圧というのは大きく、車が通行するよりも大きな破壊力を持つこともざらだ。
重さ数十トンはあるだろう橋桁に、いまさら70kg弱の重しが掛かっても問題が起きるはずはなかった。

それに、右の写真の通り橋の一端は堆積物に深くめり込んでおり、橋は今もちゃんと三点で支持されているのだった。
仮に支えのない側の梁を渡っても、崩れ落ちはしないと思った。




いつになく賢しらな自重のワケは、三つある。

ひとつは、この橋を仮に先端まで渡っても、それ以上どこへも行けないという空しさがあったこと。

ついで、これは橋の上に立ってみて気付いたことだが、橋は先端へ行くほど大きく傾いており、さらに渡りうる唯一の足場である梁が相当に細く、“平均台”としての難度が高いと言うこと。
と同時に、傾斜状況下での方向転換は恐らく相当に難しいと予想できたことだ。
これは私の技量に勝る橋ではないかと判断された。

そして最後のひとつは、もうやめてやりなさいと、そういう気持ちが自然に湧いてきたことだった。





自重といえば聞こえはいいが、まあ妥協である。
期待はずれだという批判も甘んじて受ける。

ということで私は競うことを止め、もう一度橋の下に戻ってみた。
別に何かをし忘れたというわけでもなく、もっと多くのアングルからカメラを向け、そして、失われた片割れを捜索してみたりした。

しかし、半身は何処とも知れず消えていた。
おそらく、この河床の地中に埋没しているのだろう。




私は、この残骸のどこかに、橋の素性を記したプレートのようなモノが残っていないかをつぶさに調べた。
だが、残念ながら発見できなかった。
そういうモノがあるとしたら、今は地中に埋もれている岸辺の部分ではないかと思う。

ただ、それとは別に、こんなモノを見つけた。
梁の内側にペンキで描かれた、数字の“8”である。
偶然の傷ではないと思う。



橋は洪水というか、土石流のようなものに押しやられたのだろう。
未だに凹んだ所やいろいろな隙間に、川砂利が挟まっていた。
橋全体も、飴細工のようにねじれて、歪んでいた。
或いは早い段階で床版が千切れて流出したおかげで、梁自体はここに(辛うじて)止まることを許されたのかも知れない。
決して脆弱な橋であったようには見えないが、時として自然の破壊力は、肉食獣の牙のごとく人の英知を噛み砕く。

15分ほどの観察を終え、陸へ上がる。
これがまた、一難儀であった。

そして最後の仕上げとして、300mほど離れた山上にある稲又集落へと情報収集に出かけた。





情報提供者さんも言っていたとおり、集落内では廃レールが物干し竿のようにして使われていた。

そればかりか、畑作業中の老夫婦からは、

「トロッコはここ(現在の林道)を通って、長畑まで伸びていた」。
「廃止されてから林道がそこに造られた」。

と、こんな具体的な話が出て来てしまったのである。
これが思い違いとは考えにくいので、持論に反し一時期は稲又谷を林鉄(支線)も渡っていたらしい。
ただ、その当時の橋が現存する廃橋であるかは、覚えていないというつれないお答えだった。
これについては、先々代の橋があったのだと私は思う。

そして例の廃橋が今のような姿になったのは、“だいぶ前の”台風のせいだという。
ただ、これも正確に何年前であるかや、旧道化後に流出したのか現役当時に罹災して現在の橋へ切り替えられたのかは、覚えておられなかった。

これを補佐しうる史実としては、昭和57年8月に早川町全域に激甚な被害を与えた台風10号が挙げられる。
そう言えば、現橋の竣功年は昭和59年であり、関係がありそうな気がするが、住民が少なく十分な情報収集は不可能であった。
しかし、もし昭和57年以来、かれこれ30年近くも旧橋があんなアンバランスな状況のままであるとしたら驚きである。
まあ、来年も橋の状況に変化がないようなら、そう言うこともありうるかも知れない。

…いや、多分にそんな気がしてきた。
だって、上流に堰堤やら砂防ダムがたくさん出来た現在の水量では、とてもこんなに橋を押し流したり、橋台や旧道を完全に地中に埋め戻してしまったりなんてことが起こると思えないのだ。





果たしてこの眺めは「期間限定」だったのか、否か。


どうでもいいことかもしれない。 期間限定でないモノなど無いのだから。




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