橋梁レポート 国道20号旧道 旧国界橋 前編

所在地 山梨県北杜市〜長野県富士見町
探索日 2010.10.02
公開日 2013.08.04


【周辺図(マピオン)】

国道20号、通称「甲州街道」を走行したことがある人は多いと思うが、山梨県と長野県の県境がどのようになっていたか覚えているだろうか?

余り印象に残っていない人が多いのではないかと想像する。
かく言う私も、ここにある県境をはっきり意識したのは、最初ではなく何度目かの通行時であった。

本邦を代表する山岳県である山梨と長野の県境でありながら、そこは意外にも穏やかな河谷地形であり、県境も峠でなく河川、すなわち橋であった。
峠のように通行に時間を要さないので、印象に残り辛かったのである。

だがその橋の名は、涙ぐましいほどの精一杯さで自らの特別な立地をアピールしていた。

国界橋 (こっかいはし)という。

それは山梨と長野の県界に遡り、甲斐と信濃の国界を示す命名であろうと想像される。
日本中にいくつもの「国界橋」があるが、甲斐と信濃の国界橋はもちろんここにしか無い。


そして地図を見ると、現在ある国界橋のすぐ上流に、典型的な旧橋と思われる橋が描かれている。
今回のテーマは、旧国界橋。
“命がけ”ではない旧橋の探訪も、たまにはよいだろう。




静かな“国境”に架する橋。


2010/10/2 11:14 《現在地》

山梨県側から国界橋へアプローチする。

現橋(新国界橋)の手前400mの位置に、大きな「国界」の文字が躍っていた。
夜はネオンに輝くであろうこのラブホテルの看板が、山梨県側で最初に出会う「国界」である。(平成25年現在は休業中との情報あり)

国界というのは既に述べた通り地名ではなく、この土地の性格を示した通称である。
ここの地名はこの探索当時(そして現在も)山梨県北杜市上教来石(きょうらいし)山口であって、少し遡れば北杜市の部分が白州町となり、更に明治まで戻れば鳳来村、近世においては上教来石村といった。
そして上教来石村の枝郷であったここ山口には、甲州道中(江戸五街道の一つで江戸と下諏訪を結ぶ重要な街道)の口留番所(国境警備の為の関所の一種)が置かれていたという。



この辺りの国道20号の流れは常に安定していて、いわゆる快走路である。
この後で長野県内に入ってしばらく行くと、それなりに山がちな地形となって屈曲も増えるのだが、この時点では県を問わずに釜無川の広い河谷をゆったり駆け抜けるので、風景的な違いも無いに等しく、県境の存在を希薄なものにしている。

この写真の橋が新国界橋である。
釜無川を斜めに横断するために結構な長さ(全長127m)があるが、自己主張のほとんど無いデザインだし、この辺りの車窓には定期的に釜無川を渡る似たような橋が現れるので、目立たない存在である。

もっとも、よく観察すれば橋の前後にはちゃんと県境を示す道路標識は存在するし、この山梨側の袂では旧国道と平面交差していて、オブローダーを惹き付けるポイントが全くないわけではない。




橋の袂で振り返ると、いま来た現国道と、教来石集落を通る旧国道が綺麗に分かれている。
国道の側に大きな県境の標識も見えている。

また、その大きな標識の右側には「セブンイレブン」が出店しており、利用した事のある人もいるだろうが、その駐車場の一角に“巨碑”のあることは、意外に知られていないようだ。


こんな事を書くと私の文学に対する無関心を露呈してしまうが、勿体ぶった巨碑の正体は“歌碑”だった。
(個人的な“道路残念ネタ”として、“道路の記念碑だと思ったら歌碑だった”というのがある…)

刻まれているのは、「目には青葉 山ほととぎす 初かつお」という、なんとも食欲をそそる句(実家の母が鰹を食卓に出す度に口にするので覚えていた)。
しかし鰹は海の味覚である。
海をもたない山梨の国境には如何にも場違いな感じを受けるが、この句を生んだ江戸時代の俳人山口素堂が教来石出身の説あるがための建碑であろう。

あ〜、鰹くいてぇ。




さて、本題へ戻ろう。

無個性と表した新国界橋であるが、袂に居並ぶ標識類の“不仲”という、あまり名誉とも思われぬ個性を有している事が判明した。

この橋の下を流れている川の名前だが、1枚の標識は「富士川」であるとし、もう1枚は「釜無川」であると言って譲らないのである。
この件の裁定はいかにすべきであろうか。
市販の地図や地形図では例外なく釜無川としている。
そして富士川というのはここから40kmも下流へ下って笛吹川と合流した後、太平洋に注ぐまでの名前であるというのが一般的な解釈だと思う。
よく見ると、2本の標識のうち前者の標柱に「国土交通省」のシールが貼られており、後者の支柱は無印ながら標識そのものに「山梨県」とある。両者の認識の違いであろうか?

更に重箱の隅を突けば、橋の名前も統一されていない。
国土交通省が設置した例の標識では「新国界橋」であるが、親柱の銘板は「国界橋」である。

こう言うのは稀にあるが、旧橋が存続しない架け替えの場合は「新」を名乗らないことが多い。
つまり深読みすれば、新橋の建造当時は旧橋を撤去するつもりであったのかも知れない。

「富士川」と「釜無川」の件であるが、「角川日本地名大辞典 山梨県」の「釜無川」の解説に、次の表記があった。
〜当河川流路は建設省では富士川とするが、本項は県河川表により、笛吹川との分流点より上流の呼称として用いた。〜
どうやら真相は、建設省→国土交通省と、県側の管理上の呼称の違いのようである。

この理屈は分かるが、万人が通行する国道上の目立つ表示物は一般的な呼称に合わせるのが良い気がするがいかがだろう、国交省さん。



“ごたく”もこのくらいにして、今度こそ本題へ。

旧道と、その奥にある旧橋へ参ろう。

地形図の通りならば、橋の脇にあるこの敷地の奥、350mほどの所に旧橋はある。
しかし地形図は道として描いているこの入口が、実際はこんな如何にも私有地(会社の敷地)のような姿をしている。
その事も、旧国界橋が目立たぬ理由であったろう。

しかし後述する“ある理由”のため、旧橋へのアプローチはこの方向からしかできない。
長野県側からでは、橋の上に立つ事が出来ない。



誰何の声を受けることなく敷地を通過すると、ようやく旧道らしい光景が現れてきた。

しかも「この先通行止」という移動式の看板まで現れ、図らずも、ここが今なお公道である可能性を露見している。

新国界橋の竣工年は銘板によると昭和41年2月であるから、旧道や旧橋は一線を退いて40年余りを経過している。
わざわざ舗装を剥がしたのでない限り、40年余り昔の国道20号は、未舗装路だったということだ。
しかし道幅は2車線に相当するくらい広く、今では聞くことも少なくなった“一級国道”という、わが国最高位公道の矜持を感じさせた。
(昭和27年指定の“一級国道”20号が、現在の“一般国道”20号となったのは、昭和40年の道路法改正による)




進むほど轍が薄れてきて、廃道を匂わせる状況になってきた。
しかしその傍らには、緑の路に似つかわしくない銀白色の電柱が先を行く。
この道が廃道になっていない理由が、この先にあるようだ。

そしてそれとは真逆に、旧道の時代を匂わせるアイテムも残っていた。
少々場違いな印象を与える、飾り付きの街灯である。(今も点灯していたら、ちょっとしたホラーな光景かも)

多くは地元企業や「交通安全母の会」みたいな地域組織の寄贈によって設けられていたこの種の街灯も、道路管理者が道路照明を設置するのが当たり前となった現在、市街地ならばいざ知らず、山間部に新設されることはほとんど無くなったと見て良いだろう。




この直後、予想外の遭遇があった。

それはニホンサル、それも一匹二匹ではなく、大群と言っても良いほどの群れである。
彼らは私の前方20mくらいの道を、川から山へ向かって次々に横断していった。
はじめはいちいち数えていたのだが、10を超えそれをやめた後の最後の方で写真の“子連れ”が現れ、私をにやけさせた。

彼らの行動範囲は知らないが、現在地からもう少し下流へ行くと、川と山の往復には国道の横断が必須となるので、この旧道は彼らがもう2度と手放したくない“支配地”であるかもしれない。 私を意識する様子も見せず悠々と歩き去る大群を見て、そんなことを思った。

※動画は無修正モンキー動画です。
 ナマで動き回るモンキーを見たい人だけクリック! →




モンキー軍団をやり過ごしたようなので、私も前進を再開。

直前にモンキーが行き過ぎた辺りに立つと、そこは少しだけ山側に道が膨らんでいて、居心地の良い涼しい日陰になっていた。
そしてこの日陰を作っているのは、路上に大きな樹冠を張り出させているブナの巨木。

この道が甲州道中(近世)、或いは甲州街道(近代)と呼ばれていた時代から、ずっと緑陰を与え続けてきたであろう巨木は、如何にも意味ありげに見えた。




否。

「意味ありげ」ではなく、

確かに“意味”があったようだ。

その幹周りに比べれば余りにも小さな、しかし古さならば負けないようにも見える一体の地蔵が、私を見守るように佇んでいた。

既に目鼻は定かでなく、如何なる文字も読み取る事は出来なかったが、その“意味”だけは分かる。
自動車の時代が訪れるまで、この緑陰には確かに“意味”があった。




なぁ、山口俳人…。

“鰹”もいいが、

あなたの故郷のこの道も、なかなか良いと思わないか?




更に進むと川が間近に感じられるようになって、今にも旧橋の現れそうな印象を受けたが、先に出て来たのは、これまた時代錯誤的な建造物だった。

曰く、「旧国界橋観測局」。

それ以上の情報は無いが、国交省が管理する無人の測候所であろうか。
源流の巨大な荒蕪地のために暴れ川として恐れられている釜無川には必要不可欠な施設と思われる。

しかし、実際に旧橋を目にするより先に「旧国界橋」の名に出会うとは、小さな予想外だった。





見えたッ!

地形図は嘘を言っていなかった。

旧国界橋は、草むした旧道奥に今なお現存!

しかも、ひと目見た瞬間に特徴的と分かる、中路、または下路のプレートガーダー橋だ!

中路や下路PG(プレートガーダー)は、鉄道用としてはよく見られるが、道路用ではレアな部類に属する。
しかも現代に新たな道路用中・下路PGが架設されたという話は聞かないので、旧橋らしい旧世代の遺産といえる。

これは思いがけず素晴らしい旧橋との遭遇かも知れない!
逸る気持ちを抑えず、漕ぎ足に目一杯力を込めた。




11:25 《現在地》

到着! 旧国界橋、山梨側橋頭!

旧国道は、橋の袂で直角に屈折するという、典型的な“悪線形”で私を迎えてくれた。
橋自体の老朽化や耐荷重不足はもちろんだが、現橋の架設位置が400m近くも移動したのは、この悪線形の打開に目的があったに違いない。
現橋は川を斜めに横切ることで前後の線形を改善しているが、旧橋は橋長を最短とすべく、河川と直交していた。

しかし予想外であったのは、ここに至ってもなお「通行止」となっていない点である。
ここまで物理的な遮蔽物を一つも設けぬまま、道は明るい橋上へ私を誘った。
まだまだ強度的な不安は無いということか。頼もしい!!




国界橋、


思わず、サドルによだれを垂らしそうになった。

「国界(こっかい)」という、如何にも厳めしいネーミングと、どこまでも長閑な風景のギャップが面白いだけでなく、
質実剛健なPGの中でも特に効率性を重視した中路構造を選んだことが、
厳つい鉄橋を平凡で優しい農村の風景に融け込ませている。この素朴さがいい!

(本橋の両側の欄干は、欄干であると同時に主桁材を兼ねている。中路PGや下路PGの特徴である)




どれだけ“素朴な風景”を橋が作り出しているかを検証すべく、風景をそのまま白黒に変換してみた。

どう? ちょっと電柱が多すぎる気はするけど、違和感ほとんど無いよね。

長野県って、田舎なんだね〜(笑)。



そしてもう一つ、橋上に立つと同時に目に飛び込んできた、本橋のとても重要な“萌え”要素。

それがこの銘板だ。

格好いい橋の名が、ここで最高に活きている。
本橋は敢えてコンクリートの親柱を設置せず、陸から直に鋼鉄の橋が始まっているが、そのために設置出来なかった銘板を橋端部に近いウェブ(主桁側面のこと)に直付けしている。
枚数も一般的な橋より少なく、山梨側は上流側にこの1枚のあるだけだ。まるで寡黙な厳父のよう。

銘板はリベットの機械的な凹凸を隠しもしない鋼鉄の表面に堅く打ち付けられ、右書きで「」(国の旧字体)「」「」。
さらに一拍置いて「昭和四年十一月竣工」と刻まれている。
その角張った字体も合せて、これぞ軍艦の船体を彷彿とさせるような厳めしさである! 惚れ申した!

(実際に石川造船所のように、軍艦を製造した造船所が鉄橋の建造を行なう場合もあった)




次回は、

落橋など全く無縁な頼もしい旧橋を、

裏側から遠景、そして背景まで、たっぷり満喫しよう!





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