あああ… (泣)
と、なったんだ。
つい先日(平成24年5月21日)、ここを6年ぶりに訪れてみて。
またひとつ、林鉄ならではと呼べるような光景が、貴重な痕跡が、おそらくは遺産と呼ぶべきものが、失われた。
特に延命の手が打たれた様子はなく、廃なる運命を、ただ静かに受け入れたようだった。
この橋は、大畑森林鉄道近藤川支線に架かっていた。
ご存じの方もいるだろうが、大畑林鉄は青森県下北半島を代表する林鉄のひとつで、全長約26kmの本線と数多くの支線からなる総延長80kmを越える路線網を、下北半島の北部を占める恐山山地へと伸ばしていた。その歴史は、明治44年から昭和43年までの57年間に及び、日本三大美林の1つに数えられる青森ヒバ(ヒノキアスナロ)を、我々の暮らしに供給し続けた。
このうち近藤川支線(全長1420m)は、本線20km附近で分岐して大畑川支流の近藤川沿いを遡行するルートで、昭和19年に敷設された。そしてこの支線の途中からさらに枝分かれする2線があり、それぞれ中近藤川分線(昭和25年開設、全長2040m)二階滝分線(昭和36年開設、全長1490m)といった。
これらの支線分線は、いずれも昭和37年に廃止されたと、青森営林局の資料にはある。
表題にある「近藤川支線1号橋」は、正式名が不明であるための仮称だが、右図の位置に架かっていた。
本線より分岐した近藤川支線は、即座に本橋を架して大畑川を渡り、左岸支流の近藤川へアプローチしていた。
このように“最初に架かる橋”という意味合いで「1号橋」と名付けたのだが、下を流れているのは大畑川であるから、一般的な鉄道橋の命名規則に則るならば、単に「大畑川橋梁」となるのかもしれない。
さて、前置きはこのくらいにして、現地の風景をご覧頂こう。
まずは、私に“冒頭のショック”を与えた光景。
平成24年5月21日午前7時16分現在、部分日食下の減光状態にて撮影された近藤川支線1号橋の姿だ。
この白いガードレールを持つ橋は、昭和57年竣工の銘板を持つ、「近藤川橋」。
林鉄が廃止された後に、その役割を引き継いだ林道の橋だ。
上の地形図にも、大畑川を渡る姿がしっかりと描かれている。
そして、この林道の近藤川橋のすぐ隣りに、林鉄の橋があった。
それは、特に意識していなくても、この橋を渡る誰もが気付く存在だった。
無惨に崩れ落ちた、木橋の跡。
河中にそそり立つ2本の橋脚には、間違いなく見覚えがあった。
当然である。私はこの橋を…かつて、わたっている。
2本のうちの片方の橋脚には、何とも絶妙なバランスで、橋桁の一部が残っていた。
これが、私がこの橋と出会った最初の機会であったならば…、
もしかして、この橋は比較的最近まで、もっと形を留めていたのではないか。
もう少し早く訪れていれば、架かったままの橋を見る事が出来たのではないか。
…などと、少し悔しく思っただろう。
だが、私の感想は、「あああ… (泣)」。
比較して、
1度目の遭遇の光景を、ご覧頂こう。
平成18年6月7日午後0時34分、曇り空の下。
それは思い出すにつけ、幸せで唐突な出会いだった。
細田氏が運転する「マーチ」の助手席から、それは見えたんだ。
さも、それが当然の光景であるかのように。
林鉄探索の華中の華!
架かったままの木橋だッ!
昭和37年に近藤川支線は廃止されている。
したがって、最低でも築後44年は経過した姿だった。
橋脚がコンクリート製であった事を差し引いても、
木橋の平均的な耐用年数(10〜30年)は、既に大幅に超過していた。
だが、この時点では確かに橋は架かっていたのだ。
そして林鉄を愛するが故に遠地を訪れた人を、喜ばせ…続けていた。
いま思えば、当時だってもう十分にこの橋は、
結末への徴候を見せていた…。
…のだが、
当時の私は、ひたすらに餓えていた。
架かったままの木橋というヤツに。
その結果、私は躍った。(わるにゃ
実を言うと、橋が自然に落ちるまでは、
「渡ったことを公開すべきではない」と考えていた。
それで今回、ようやく公開することにした。