2020/6/3 16:45 《現在地》
まるで地面の大半が水面に置き換わったようなエモい景色の真っ只中に、微かだが見覚えのある分岐地点があった。
それぞれの世代の大沢橋へと通じていた旧道と旧旧道の分岐地点だが、以前来たときには、車道と歩道(および自転車道)のように使い分けられていた。旧旧道と言えば旧道より先に廃止されていたイメージがあるだろうが、ここではそうはなっていなかった。
さて、自転車の我々はここでどちらかの道を選んで進むことになるが、とりあえず、水没を免れている右の旧旧道を選ぶのが正常な者の考え方だろう。
左の旧道も、水面下に路面の存在が見えているものの、考えていた(というか期待していた)よりも深く沈水していて、この先100mほどのところに待っている“水中の橋”こと、旧大沢橋まで歩いて辿り着けるような水深なのかが微妙だ。
少なくとも、いま身につけているただのゴム長靴では間違いなく水没する水位がある。
ギリギリ足を濡らさずに進める水中の道などというのは、考えただけでも楽しくなる状況だが、もともと水平な土地に付けられた道路ではない以上、ちょっと都合良く期待しすぎたのかも知れない。
というわけで、ここでは右の旧旧道へ進行。
全く経験がないわけではないが、わずか数メートルであっても、自転車ごと湖面に突入するのは、珍しい体験だ。
湖に突入していく旧道の路面を見送ったことは数え切れないが、その水没区域を突破して進むというのは、あまりない状況なのである。
幸い、旧旧道へ行くだけなら、ちょっと大きめの水溜まりを越えるくらいの水深と水没距離なので、乗り慣れた自転車で何の不安もなく突破出来た。
ただ、旧旧道の入口には旧道の路肩から延びてきた側溝が長く横切っていて、現役当時はちゃんと蓋がしてあったのだが、いまは4枚を除いて消失していた。
そのため、うっかり知らずに踏み込むと、側溝の深さの溝にざぶりと落ちる羽目になる。光の反射で水面下が見えにくいので注意が必要。(そもそもの話、ダム湖の汀線に近寄る行為は危険な行為であり、大抵のダムにおいて禁止されている)
(→)
ちょっと大袈裟な表現をするが、
旧旧道だった道に、“上陸”、成功。
そして、この旧旧道は低い築堤上にあったために、この日の水位においては、周囲を全て水域に囲まれた湖上島、あるいは内陸島というべき状態になっていた。
まあ、川の中州のような儚い存在かもしれないが、一定の水位になれば必ず浮上してくる点は、中州よりもいくぶん安定している。
それと、旧旧道のわりに意外に道幅があったのだということを、今回初めて知った。
これは例によって水没前の現役時代に撮影した写真だが、路上の様子が現役には見えないというツッコミは甘んじて受けるとして、上の写真とは随分と道幅が違って見える。現役当時の方が遙かに狭く見えるだろう。
そのため私も、旧旧道はサイクリングロードほどの道幅しかなかったという印象を持っていたのだが、これは部分的に間違っていたのだ。
2010年当時はダム工事がたけなわで、集落も移転後だったので、この県道を生活のために利用する人は少なく、歩行者・自転車専用道路として使われていた旧旧道の管理は、もうあまり行われなくなっていたらしい。それでこのように路上に草が侵入し、道幅を分かりにくくしていたのだが、実は意外に広かったらしい。
再び、“いま”の写真だ。
かつては濃い茂みのために、すぐ隣にある旧道はよく見えなかったが、いまはご覧の通りだ。
今度は水没のため、旧道の路面は微かな水の色の違いとして見えるだけだが、隣接して存在することは分かると思う。
そしてその旧道の路上……というか路上の湖面上……に、「進入禁止」と書かれた浮標(ブイ)がロープで繋がれていた。
「進入禁止」という文字列は廃道で見慣れているが、ブイに表示されているのを見るのは、陸上生活者の私にはあまりない体験だ。
ここにわざわざ設置してある理由だが、おそらく、旧道の存在と関係がありそうだ。
これから見て頂く、ある旧道上のアイテムの存在が、危険視されたのではないかと思う。
←これこれ。
これが何か、分かりますか?
水没した旧道の両側路肩部分にオレンジ色っぽいコンクリートの柱が立っていて、その上部わずか2〜30cmが水面上に突出している。
こんなものにうっかりボートや、この湖の観光名物である水陸両用バスが激突したら、大事故になりかねない。
もちろん、微妙な水深によっては、全く水面上に見えないのに、水面下1cmに沈んでいる状況だってありうるのだから、危険極まりないだろう。
「進入禁止」のブイが警告していたのは、この物体への衝突の危険と、一帯に浅く沈んでいる旧道に座礁する危険についてであろう。
なお、この物体の正体は、もうお分かりだと思う。 正体は――
旧大沢橋の親柱だ。
水没した道路のガードレールや橋上の高欄は、わざわざ撤去してあるのに、
橋桁とこの親柱は、撤去せずにそのまま水没させたているのは、なぜなんだろう。
隣にある旧旧大沢橋については、主径間を撤去しているのに。
状況からして、道として利用し続ける計画があったとはさすがに思えないが、
単純に水没させても実害のない橋について撤去費用を圧縮しようということ?
いずれにしても、ガードレール類の撤去は、船舶衝突防止のための措置だと思う。
すげーーー景色だ!
板のように平滑な旧橋が、水面下に架かっている。
それが、微妙な水の色の違いとして見て取れた。
そして、こうやって水平線と照らし合わせないと気づかなかったかも知れないが、
実はこの旧橋は、こちらから向こう側へと上っていく勾配を持った橋だったらしい。
なぜなら、遠くにある対岸の親柱が、全く水没せず陸上にあるのが見えるのである。
そしてこの橋上の上り勾配は、橋の手前から始まっているものだった。
したがって、旧道上の水深が最も深い地点は、橋よりも手前にあるようだ。
なので、対岸側からならば、長靴でも、ある程度までは橋を渡れるはず。
これで、この後の探索の道筋が決まった。
16:47 《現在地》
そんなことを考えているうちに、到着した。
旧々大沢橋!
(チェンジ後の画像)8年前に来たときは、鬱蒼とした森を突き破るように、谷へ飛び出していく橋が架かっていたが、残念ながらこの橋の主径間は失われている。
矢印の位置が副径間と主径間の境目で、現在はそこで断ち切られている。そして対岸側も同様である。
8年前は、本当にサイクリングロードの橋のような姿であった。
親柱や銘板もなく、独立した橋としての存在感は、大きさの割に乏しかったと思う。
だから、『橋梁史年表』などの資料や文献を知らなければ、昭和59年生まれの旧橋よりも新しい橋だと考えたに違いない。白神山地を探訪する歩行者やサイクリストへの便宜のために歩道橋として増設された橋だと。
実際は既に述べているとおり、旧々橋は昭和35(1960)年生まれで、旧橋よりも古い。
右の画像は、昭和36(1961)年に建設省東北地方建設局が発行した『目屋ダム工事報告書』に掲載されていた、架設当初の大沢橋の雄姿である。
「サイクリングロードみたいだ」という評価は、私の中で少なからず橋の価値を毀損した感じがあるので、単独で架かっていた時代の雄姿をぜひとも紹介したかった。あと、この高さもね。探索日の風景からは決して窺い知ることが出来ない高さを持った橋だったのだ。しかし、当時は立派な親柱を持っていたようだが、どこへ行ってしまったのだろう。
目屋林道の付替に伴い岩木川右支大沢に架設された大沢橋は、水没する在来橋に準じて巾員3.40m設計、荷重は9tである。橋長は70m8で中央径間は50mスパンの二ホリブアーチ、側径間は左右岸同形で10mの鉄筋コンクリート門形ラーメンである。
上記解説文に出てくる二ホ(にこう)とは、2ヒンジのことをいう。両側にヒンジを持つ(つまり2ヒンジ)のが一般的なアーチ橋の構造だ。
『目屋ダム工事報告書』を紹介したついでに、このダムに伴う付替道路の整備全般についても少し補足しておこう。
右図の通り、目屋ダムの建設に伴っては、県道、村道、林道など様々な種類の道路が、公共補償によって付け替えられた。
ダムサイト下流から川原平までは、県道弘前川原平線(昭和7年以来の県道)の付替工事が行われ、このとき完成した幅4.5mの道路が、津軽ダムによる再度の付け替えまで、拡幅を受けながら県道として使われた。
今回紹介している大沢橋は、県道終点を起点とする目屋林道の付け替えによって誕生した。幅員は付替県道と同じ4.5mとされたが、前述の通り、大沢橋については水没した橋(いまの橋を基準とすると旧旧旧大沢橋)と同じ幅3.4mで付け替えられた。
この幅の狭さと、わずか9トンという控えめな荷重性能が、昭和50年代に早くも架け替えられた原因だろう。
さらにこの目屋林道と接続して、対岸の耕地へ通じる村道も付け替えられた。
それがあの貴重な上路三絃トラス橋の川原平橋を生み出したのだった。
残念ながら、大沢橋も川原平橋も津軽ダムによって失われたが、昭和30年代としては相当に規模の大きな付替道路工事が現在の湖底で行われていたことが分かる。
気持ちいいぃぃー……
水没した世界の突端にいるみたいだ。
私とHAMAMI氏は、水没した世界の観測者として、ここに派遣されてきたのである。(中二的感想)
風が気持ちいい。湖面を渡る白神の風。
水没の経験を物語るように全体が白っぽく変色した長さ10mの副径間、その先端に立った。
この橋が単独の林道橋として威風を吹かせていた時代を私は知らないが、隣の橋が水面下に隠れている今日は、その頃の格好良さを少し取り戻しているようだ。
泳ぎの達者な者ならば、70m先にある向こう側の副径間に辿り着けるであろうが、底知れない青さを見せる湖面は、私にとっては恐怖の対象でしかない。
先ほどこの橋の誕生当時の風景を見てもらったから分かるだろうが、本来は高い橋だった。
今日の景色に置き換えれば、水が深いことが分かるだろう。この日から数えてわずか2年前にはあった“高さ”が、全て“深さ”に置き換えられている。
私には、この青い水面の底に眠っている風景を8年前に見ていた。
チェンジ後の画像がそれだ。
そこには美山湖が満水になった時だけ水没する白い河原と、白神山地から零れてくる大沢の清流があった。
そしてその流れの中に、2基の橋脚のコンクリート基礎が半ば砂利に埋れる形で立っていた。
それは、昭和10年に生まれ、昭和35年まで使われていた最初の大沢橋(旧旧旧大沢橋)の唯一の名残であった。
いまでは、幅3.4mの橋だったことくらいしか記録がないが、橋脚基礎の構造を見る限り、木橋だったのだと思う。
計らずもこの地点には3世代の大沢橋が集中していた。
4代目というべき現在の橋だけが大沢橋の名を継承しなかったので、「大沢橋は全てこの地にあった」といえるのではないだろうか。
……それにしても、このように深さがある谷に、
水面スレスレの水中で架かっている橋があるというのは、
本当にゾクゾクするシチュエーションだ……。
このあと反対側から、渡りに挑戦してやるからなぁ……。怖いけど…。
16:50 というわけで、大沢橋左岸側のからの探索は、ここまでだ。
この後は一旦現県道まで引き返し、大沢橋の右岸側を目指すぞ!!
孤独な水上の一本道を辿って、最初に旧県道へ下りた地点へ戻った。
16:53 《現在地》
最初、この写真の地点の右側の草地から旧県道へ下りてきたので、この先の旧県道は未探索である。
どうなっているのかは想像できるが、確認のため行ってみよう。
チェンジ後の画像は、少し進んだところだ。
まだちゃんと旧県道らしい路面が続いている。もちろん8年前にも通った道だ。
このまま水没のない限りずっと進んで行けそうな錯覚を受けるが……。
16:55 《現在地》
100mほどで唐突に、舗装ごと道の形がなくなってしまった。
この先は大きな丘のような草原になっているが、この丘の大半は津軽ダム建設に伴って作られた人工地形である。
現在は丘の大部分が津軽白神湖パークとして整備されているので、旧県道はもちろん、工事中に存在した広い砂利道の工事用道路も、全く跡形がない。
非常に緩やかな地形なのと草丈が高くないので、我々はかつて道があった辺りを適当に想像しながら自転車を押し歩き、やがてパーク内の園路に復帰した。
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