2014/10/28 11:11 《現在地》
良い感じの旧道だ〜。
思わず自転車を漕ぐ足の力を抜いて、この場に寝っ転がってしまいたくなった。今回の探索は、稲核橋の旧橋を訪ねるという目的だが、そこへ通じる唯一の道である旧国道が、予想以上に良い印象。
先ほどまでいた現国道の稲核橋は、銘板に昭和40(1965)年の竣工とあった。ということは、この道が旧道になってから既に半世紀近い年月が流れている。
これは今まで探索してきた国道158号の一連の旧道の中では、最も早い時期に旧道化した区間だ。
ガードレールを持たない未舗装道路は、昭和28(1953)年に「二級国道158号福井松本線」として初めて国道に指定された当時の姿だと思う。
昭和40年頃までは、まだまだ日本中に、こうした“酷道”の姿をした国道が沢山あったのだろう。
しかしその次に現れた景色は、少しばかり、私の予測の外にあった。
このまま渓谷の風景が続くのかと思いきや、突如として自然とは異質の白さを宿した“なまこ壁”の建物が、道の上手にぽつんと現れたのだ。
斜面を登って確かめてみると、それは確かに一棟の土蔵であった。
かなりの年を経ていることが見た目に分かる建物で、今は使われていないようだが、この道をずっと見てきたに違いない。
こうした古い土蔵は、いわゆる“古都”といわれるような地方都市ばかりでなく各地の集落にも残っているが、鋪装された道路や現代的な家屋の隣にあると、どうしても居心地が悪そうに見えてしまう。
このような未舗装道路の傍らにあってこそ、似つかわしい。
現在、この周辺は集落という印象を受けないが、現国道に面して僅かに人家があり、おそらく洞門の名前になっていた明ヶ平(みょうがだいら)とは、この南向きの明るい緩斜面に付けられた地名なのだろう。土蔵の存在からしても、昔はもう少し大きな集落だった可能性が高い。
11:13 《現在地》
渓谷の自然美、古蔵のわびさびと来て、その次に現れたのは、アーチの機能美に満ちた現道の稲核橋の姿だった。
旧道の古ぼけた景色の中に、まるで強引に割り込んできたような巨大な現代の橋に、思わず息を呑んだ。
さっき見下ろした場所から、今度は逆に見上げている。
現道が道路構造令を越えた急坂で“頑張った”分の高低差が、目の前にある。15から20mくらいは離れているだろう。
旧道はここまで僅か400m足らずであり、退屈する間は全く無かったが、本題はあくまでもこの先。
現橋が現れたということは、目指す旧橋も目前である。
道端の本来は崖だったはずの場所に陣取る、アーチを支えるコンクリートの巨大な橋台。(←ダジャレじゃ無いよ)
それがいかにも上って欲しそうな絶妙な高さと斜度で横たわっていた。
最初はお目当てに向けて素通りしようと思ったが、私が好きなのは旧や廃ばかりではなく交通土木全般だ。
故にこれだけの据え膳を差し向けられては、素通りし難かった。
気付けば自転車を路上に転がして、よじ登っていた。
(→)これが案の定、大迫力の眺めだった。
これだけ大きなアーチ橋をこのアングルで眺める機会は多くない。
それをしようとすると骨の折れる橋が多いので、車も乗り込める旧道(ここまで封鎖は無かった)から直接というのは、希少なシチュエーションだ。
旧道から現橋をこれ見よがしに見せつけられたせいで、以下のような思索にも至った。
おおよそ半世紀前、建設が進んで徐々に姿を見せる頭上の新橋を、当時の通行人はどんな気持ちで眺めたのだろう。
発展する未来に対する喜びや興奮は、まずあっただろう。
その影で、長年利用して来た“この道”の余命を予感した人はいたと思うが、積極的に惜しもうという人は、まだ珍しかったかも知れない。
半世紀前の多くの日本人にとって、交通路の改良は今以上に身近で切実な願いであっただろう。
ここまで無闇に荒れ果てた廃道ではなく、おそらくは現役当時に近い状態で温存された旧道を通ってきたからこそ、この道で遠くまで旅をすることのリアルな大変さを感じていた。
酷道や廃道を“楽しめる”現代というのは、少なくとも交通に関しては、大変に幸せな時代なのだろう。
アーチ橋台での思索、終わり。
さあ、現れたぞ! 今回主役の再登場だ!
旧稲核橋のアーチ橋の印象を一言で表すならば、「ごつごつ」。
現橋がカーブした長い鋼材に支えられたアーチ橋で、見た目も「つるーん」としているのに対し、旧橋は同じ鋼材を素材にしたアーチ橋でありながら、どこを観察してもアーチの“曲線”は存在しない。
旧橋はトラス状に組まれた直線の鋼材の集合体であり、その下弦材を格子で少しずつ曲げながら接続しているために、全体のシルエットがアーチ型になっているのである。
前者をソリッドリブアーチ、後者をトラスドアーチ(またはブレストリブアーチ)という。
鋼材を正確な直線と正確な曲線で作り出すのは、後者の方が遙かに技術的に高度である。
このようなことからも、同じ鋼鉄製のアーチ橋である両橋の建造時期に大きな隔たりを感じる事が出来る。
旧橋が戦前の橋であることは、外見的印象からして、ほぼ間違いないだろう。
この写真は、ちょっとした労作のつもりだ。
何に苦労したかって、そのような意図の元に築造されたわけでは無いとはいえ、結果的に旧橋の尊厳を奪うことに繋がった稲核ダムの堤体が出来るだけフレームインしないようにした。
梓川の渓谷を堂々と横断する橋の勇姿にこそ主役になってもらいたいという、多分に余計なお世話で独りよがりな写真造りに苦労したのである。
路傍の樹木に頑張ってもらって、背後の空を埋め尽くすダムを何とか隠そうとしたのであるが、これが存外に難しく、幾らか都合の悪い部分をトリミングした歪な写真になった事には、この際目を瞑って欲しい。
とりあえず、深い渓谷を渡る鋼鉄の古アーチがそこにあることは伝わるだろう。(←それだけかよ〜 苦笑)
なお、この依怙贔屓には、ダム好きの方の気分を害する意図は無い。敢えてそこにあるものを隠してまで、昔の姿を彷彿とさせる写真を見たかったという程度の意図である。
(そもそも、私はダムに批判的な立場では無い。先人たちが労を奮った土木構造物は、私の中では基本的に全て正義。思考停止シンプルな考えだ)
11:15 《現在地》
到着しました!
ここが、旧稲核橋の袂である。
特にワルイコトをせず、危険も冒さず現道から気軽に訪れられるので、珍しくオススメ出来る行程だ。
なお、上から見た時に勘付いてはいたが、ここに分岐がある。
旧道は左折だが、直進はダム直下へ続いている。この鋪装された道は高いフェンスゲートで閉鎖されているが、稲核ダムの管理用通路の一つなのだろう。
この地点まで地形図にも記載の無い旧道の轍が維持されていたのも、この通路に存在意義があるからか。
その“意義”の中に、旧橋の観賞や訪問というのもいくらかは含まれているといいなーと思う。