国道158号旧道 猿なぎ洞門 前編

公開日 2008. 9.13
探索日 2008. 9. 9



山腹大崩落による猿なぎ洞門崩壊状況 H3.10
(『峠の道路史』より転載)

平成3年10月18日、
国道の現役の洞門が巨大な土砂崩れに呑み込まれ、あっという間に破壊されるという事故が発生した。

しかも、その模様は偶然にも、対岸の集落に住む安曇村役場職員によってビデオ撮影がされていた。
真新しいコンクリートの洞門が、落雷のような轟音とともにひしゃげ、無惨に崩れ落ちて行くショッキングな映像は、当日夕方のニュース映像にも使われており、ご記憶にある方もおいでだろう。
私もおぼろげながら見た記憶がある。
現在もこの映像は土木の世界において各種の解析に用いられているという。


これは、長野県松本市と福井県福井市を結ぶ国道158号上で、関東方面から上高地へと向かう玄関口の安曇村島々地区、「猿なぎ洞門」での出来事だった。
一歩間違えれば、昭和46年に静岡県の国道150号で発生した石部洞門崩落事故や、平成8年に北海道の国道229号豊浜トンネルでの崩落事故のような大惨事になっていただろう。
かくいう私も、かつて乗鞍への家族旅行の行き帰りに何度となく通った洞門だった。


自身にとっても思い出の地である猿なぎ洞門、そして乗鞍への再訪を、私は先日、実に十数年ぶりに果たした。
かつて私がオブローダーとしての資質を醸成させる、その重要な役割を果たした国道158号に、オブローダーとなった私がいろいろと返礼をするというのが目的だった。
詳しくはこのレポートの後に続くレポートで語ることになるだろうが、国道158号こそは幼い私が一番ワクワクする道だったのだ。


十数年ぶりの再訪。
当然、猿なぎ洞門も崩落事故によって廃止されたと思っていたのだが、実際の状況を確かめるのはこれが初めてである。
地図からそれらしい場所のあたりを付けた私は、いよいよ再開の朝を迎えた。




松本市安曇 猿なぎ洞門との再開


2008/9/9 6:00 《現在地》

ここは新旧道分岐地点…  ではない。

目指す猿なぎ洞門は、直進した300mほど先にあるはずだ。
早くも、白っぽい崩壊斜面…この辺では「なぎ」という…が、見えちゃってる。
左の谷は上高地から流れてくる梓川だ。

ここではまず、【この写真】と同じアングルを目指すことにする。
撮影地は橋場集落ということであったが、そこはここから左の道を下って梓川を渡った対岸である。




右の地図を見て欲しい。

すでに問題の猿なぎ洞門は廃止され、危険区域をまるまる地中へ逃げる「三本松トンネル」が供用されている。
そして、橋場集落は、まさに崩れ落ちた猿なぎ洞門の真っ正面だ。
そこへは雑炊(ぞうし)橋という、かわった名前の橋を渡って行くことになる。



雑炊橋は昭和62年に架け替えられた片持ちの斜張橋だが、この地に架けられた橋の歴史は古い。

傍らには、この橋の沿革を刻んだ記念碑が設置されている。




 雑炊橋は旧野麦街道筋の安曇村に信州で最も早く架けられた橋と言われています。創架は平安朝、当時は両岸から「はね木」がせり出した「はね橋」という珍しい形式でした。力学的には両岸に「片持ち梁」を設け、その先端に桁を渡したものです。
 「ぞうしばし」と呼び、雑司、雑士、雑食などと書かれました。梓川越えの要所として知られ、江戸時代には松本藩が南側の橋場集落に藩の口留番所を設置、活況を呈したと言われています。
 雑炊橋の架替にまつわる神秘的な儀式は、江戸時代から近在近郷の一大イベントになりました。北は清明、南はせつの男女の人形が、両岸からさし出された巨木の先端に取り付けられ、いずれも奇麗な装束をつけて対岸に渡るというもの。
 せつというのは、南側橋場の貧家の娘、北の島々側の恋人清明を想い、橋あらば逢瀬もあらんと、三度の食事を雑炊を食べて節約し、十数年のちに貯めたお金で清明と橋を架けたという伝えが残っています。橋の名もこの伝説に由来したものです。 (石碑文を転載、句読点は筆者補足)

なんと、この幅の広い梓川(上流にダムが出来る以前はもっと水量が多かった)に、平安時代から橋が架けられていたというのだ。
ちなみに、「はね橋」形式という橋は、もはや全国的にも数えるほどしか残っていないが、日本三奇橋に数えられる甲斐(大月市)の「猿橋」が代表的だ。



ところで、この雑炊橋につながる道路の形は、いかにも不自然である。
花壇や東屋を建てたりしてカモフラージュ?しているが、この雑炊橋よりも幅広の橋が、真っ正面に架かっていたような線形ではないか。
平安時代から続いてきた橋が、まさかそんなに立派だったのか?

実はこれも、猿なぎ洞門崩壊の“遺構”のひとつなのである。




猿なぎ洞門が崩壊したのは平成3年10月18日。
その日から国道158号は全面通行止めとなったが、ここは観光的に重要なルートだと言うだけでなく、北アルプスを横断して北陸と関東を結ぶ数少ない物流路でもある。従って、迂回路の確保は非常な急務であった。
崩壊からわずか10日後の28日には、早くも「応急迂回路」(1.8km)が開通した。
この道は、梓川の水量を上流のダムで留めておける、冬期間の渇水期のみ使われた、河床の道であったという。
一応舗装もされていたとのことだが、今回その痕跡を確認することは出来なかった。

そして、翌4年4月からは右図に示した「仮設迂回路」(0.8km)が供用となり、これが平成6年3月に現道が開通するまで2年間、夏の観光バスラッシュにもよく耐えた。
上の写真の地点には、この架設路の鋼橋が架かっていたのだ。



石碑には雑炊橋の読みは「ぞうしはし」だって書いてあるのに、現在の橋の銘板には「ぞうすいはし」とあった。
それはさておき、橋を渡って橋場集落へ入る。
ちょうど写真の位置左に江戸時代までの橋場口留番所があったという。

ちなみに、集落内の通りはご覧のとおり細く、とても国道の迂回路には出来なかったのだと分かる。
しかも、旧宿場らしく鍵型のシケインもある。

2代の迂回路はともに、梓川の河川敷に人工地盤を設けて、その上を通された。
廃止後間もなく人工地盤が撤去されたため、迂回路の痕跡もすっかり消えたのだ。
集落にも静かな空気が戻っている。




橋場集落の南端まで来た。
集落内の道はここで行き止まりだが、最後にこの公園がある。

この場所こそ、猿なぎ洞門を観察する特等席だ。


おそらく、あれだけの崩壊だ。

もう、何も残っていてはくれまいが…。

一応、期待しちゃう。 









!!!



そのまま残ってるし…。


つうか、もう手の施しようもなかったんだろうな…。
一応、崩れた斜面はコンクリートの吹きつけでアフターフォローされているようだが…。




この廃洞門。
行かねばなるまい!



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いよいよ棄てられた旧道へ


6:42

現道に戻り、南へ進む。
200m足らずで、行く手に奇麗なトンネルが見えてきた。
これが、平成6年に開通した三本松トンネル(全長370m)である。
坑門には、かつてこの場所にあったという「三本松」のレリーフが飾られている。

旧道の入口は、この坑口前だ。





こ こ だ!






三本松トンネル脇から、車はおそらく通れない狭い隙間を縫って、旧道の路盤へ出た。
この旧道は、梓川に面する山腹を真っ直ぐ300mほど進んで、再び現道に合流する。
目指す猿なぎ洞門は、ほぼ中間地点にあるはずだ。

この旧道、別に立入禁止などにはなっていないが、嫌な草藪で始まった。
こう言うところは朝の早い時間には入りたくない。
朝露であっというまに下半身がグッショグショになった…。




おお。

50mほど草の海を掻き分けていくと、本来の路面が現れた。
中央にはオレンジのセンターラインも残っている。アスファルトも比較的奇麗だ。
法面の落石防止ネットも、コンクリート吹きつけも、耐用年数を過ぎてはいない。
国道といえども、管理されなくなると僅か10年かそこらでここまで草に溺れてしまうのかと驚かされる。


自転車無理です。
不本意だが、自転車はここでお留守番。

どうやら始まってしまった模様。

路上に信じられないほどの灌木が密生し、また草藪も負けじと隙間を埋めている。
さほど距離はないはずだが、厳しい展開だ。
こんなに急激に藪が深くなったのは、路上に土が積もっているからだ。
しかも、人工的に埋め戻したというのでも無さそうで、法面のネットがボロボロだ。
洞門を破壊せしめた土砂崩れの災禍の跡に、早くも片足を突っ込んだらしい。




茂ってきた〜!

視界不良のため、どこからどこまでが道なのかもよく分からなくなっている。
法面のそばが一番藪が浅いが、それでもこの写真の状況だ。
しかも、トゲトゲした草が多い。
これにはたまらずナタを振るってしまった。




むお?

写真では分かりづらいが、藪の隙間に何か大きな黒いものが見えてきた!

洞門なのか、それとも崩落した土砂の山か。


もう少しで判明する!







出た。

全国のお茶の間で公開処刑を食らった、哀れな洞門。