我ながら眉唾臭いサブタイトルは軽く流して頂くとして、時代劇で有名な水戸黄門こと徳川光圀が晩年を隠棲した西山荘(せいざんそう)の近くに、建設時期、建設目的、建設者共に明らかでない1本の隧道が存在する。
この隧道があるのは、常陸太田市の市街地西側の山間にある稲木町で、地形図には隧道はおろか、そこへ繋がる道も全く描かれていないから、部外者が偶然辿りつくことはなさそうな場所だ。
私がこの存在を知ったのもネットサーフィン中の偶然であり、今となっては具体的にどこのサイトで知ったかは思い出せない。
ただ、廃道探索とか、そういうテーマのサイトではなかったと思う。
そして冒頭に登場させた西山荘は、謎の隧道から小さな丘を挟んだ北北西、おおよそ550mほど離れた場所にある。
さすがにこれだけで、隧道と光圀と結びつけるのは荒唐無稽すぎると思われるだろうが、他にもう少しだけ関係性を匂わせるエビデンスがある。
右の地図にカーソルを合わせて欲しい(スマホはタップ操作)。
実は謎の隧道は、久昌寺旧跡といわれる場所の一画にある。
久昌寺は徳川光圀が生母の菩提を弔うべく創した古寺で(維新期に移転し現在地は異なる)、光圀は晩年にその隠居地を久昌寺から目と鼻の先の地に卜(ぼく)し、西山荘を構えたのである。
光圀は隠居暮らしを始めた元禄4年(1691)から同13年に亡くなるまで、久昌寺をたびたび訪れて住職日乗との親交を深めたといわれるのだ。
そして今日、西山荘と久昌寺旧跡を結ぶ一筋の山道が現存し、隧道はその道途に口を開けている。
客観的にも、光圀の他にいったい誰がこの2つの地を足繁く行き来しただろうかと思わせるような辺鄙な場所である。
歴史浪漫を無闇にくすぐるオープニングをお読みいただいた所で、早速現地をご覧頂こう。
2014/3/12 6:03 《現在地》
時代劇の水戸黄門は、その定型形ストーリー展開を暗記する程度には見たことがある私だが、史実の徳川光圀については、これといった予備知識を持たない。
そんな私が隧道見たさに、おそらくはそれなりにマニアックな光圀ファンしか訪れなさそうな場所へやって来ている。
正面の山の向こう側にある西山荘は、観覧料を払って観るようなメジャーな観光スポットだが、こっち側は全く静かなもので、今朝はまだ誰も通って居ないだろう農道の霜をザクザクと鳴らしながら、遠くからもよく目立つ石碑(あれが久昌寺旧跡らしい)を目指して進んでいく。
とはいえ一帯は太田県立自然公園として指定されていて、里山に息づく史跡や旧跡を巡るハイキングコースがある。
久昌寺旧跡と西山荘の間も、このハイキングコースによって結ばれているのであるが、件の隧道はコースから外されているようだ。
案内板だけを便りにしていたのでは、いつまで経っても隧道には辿り着けないのだが、まずは久昌寺旧跡を目指す必要がある。
6:05 《現在地》
久昌寺遺蹟の石碑が建つ山際の高台より見渡す、稲木町宮ヶ作集落。
倹約を尊び質素を常とした老公が愛した風景とは、このようなものであったろうかと思わせる美しさだった。
もっとも、当時の久昌寺は支院13坊を数える一大伽藍であったというから、
この地の風景は全く異なるものであったのかも知れないが…。
さて、この久昌寺旧跡までは案内板によって簡単に辿り着けたのだが、ここから隧道を探す部分は、事前に詳しい情報がなかったので、私自身の捜索によった。
と言っても、案ずるより産むが易しという言葉の通りで、下草が無い時期だったことにも救われたのだろうが、いとも簡単に見つかってくれた。
皆さま自身が探す楽しみを奪って申し訳ないが、ずばり隧道の在処は、上記の石碑(久昌寺遺蹟)がある場所から真東に向かう小径を、ただ行き止まりまで歩けば足りるのである。
石碑の位置から隧道は見えない所がポイントだが、分かってしまえば迷いようもないシンプルさだ。
この軽トラのタイヤ痕がうっすらある小径を、ご老公も歩いたのだろうか? (ロケじゃないよ…笑)
50mばかり歩いた先の突き当たり。
一見すると単なる広場で行き止まりのようだが、
もちろんハンターの目は誤魔化せないのである。
つか、想像以上に土被りが少ないぜッ。
出たー!
黄門さま(と関係ある可能性が0ではない)の穴が出たッ!
って、おちゃらけは置いといて、真面目に隧道である。
素掘で長さも短いが、見事に貫通しており、立派に通りぬけられる。
洞前から振り返ると久昌寺旧跡は間近にあり、
確かにここは久昌寺と西山荘を結ぶ通路としての合理性があるようだ。
現時点では、いつ、誰が、どのような目的で拵えた隧道なのか全く不明だが、この隧道には単に素掘であるということ以外にも特徴がある。
それは、断面の扁平さである。
天井が横幅に対して妙に低平で、数値で表せば最大幅3m、最大高2mといった感じ(目測)である。
また、これはアーチを意識したのか分からないが、素堀隧道にしては妙に断面が丸い(通常、素堀隧道は四角い断面が多い)のも気になる所だ。
さらに、隧道が掘られている地山は凝灰岩で、人力でも掘削は(比較的)容易であったろう。
と同時に、この地質は意外に堅牢で隧道を長持ちさせることは、同じ地質の房総半島などに見られる明治期の素掘隧道が証明している。
そして、凝灰岩の素掘隧道は終始穏やかな風化によって断面を拡大、かつ真円形に近付けていくという特徴があり、本隧道にも洞床に大量の風化堆積物が見られる。
冗談抜きで、この風化堆積物の量は明治以前、場合によっては江戸時代の隧道である可能性をも否定しないように感じた。
妙に丸い断面形という近代以降の隧道にはあまり見られない特徴と合わせ、もしかしたら…もしかするかも…という気にさせたのは事実だ。
でも、やっぱり黄門さまとは関係ないよな(笑)。
だって、 だって、
あまりに土被りが小さいだろ!
幾ら本物の黄門さまは全国世直し行脚をするような健脚の持ち主ではなかったとしても、このくらいの低山は迂回するなり乗り越えるなり、簡単だろ!
質素倹約を美徳とした黄門さまが、ご自身で掘られたならばいざ知らず、領民に命じてこのような車両交通時代でなければほとんど何の意味もないような隧道を作らせたとは考えにくい。
ごく僅かな可能性としては、何かより大きな土木事業の試験的に、技術のトレーニングのような目的で隧道掘削をしたとかならば…だけど、さすがにこの隧道は江戸時代らしくない。
なお、レポートは省くが、ここから西山荘へ越えるための峠は、この隧道が掘られている山よりも遙かに高く、かつ道も急坂である。
6:10 《現在地》
長さ15mほどの隧道は、西から東へと下っていてる。
そして、やや崩土によって狭くなった東口から外へ出ると、
そこには丁字路がある。左は西山荘への山道。右は麓へ下る里道だ。
この後私は西山荘へ行ってみたが、自転車で10分くらいの山越え(一部押しが必要)だった。
なお、現地をマピオン地図で縮尺1/1500の最大まで拡大して見たところ、この隧道が表示されていることに気づいた。
現地で見た道形と、地図の内容は一致しており、これは正確なものと思われる。
こうして改めて地図を見ても、本当に、なぜこの場所にわざわざ隧道を掘ってあるのか理解に苦しむ。
非常に浅い土被りからも分かるように、この山の迂回は極めて容易で、隧道を掘ってまで短絡し得た距離は極めて短い(数十メートル)のである。
そんな存在意義の不鮮明さもあって、この隧道の正体は未だ分からず仕舞いである。
帰宅後には『常陸太田市史』の閲覧や、ネット上にある情報にもだいぶあたってみたが、隧道の正体はまるで不明。
このことをテーマとした研究の存在さえ見つけられなかった。
おそらく、答えを知る可能性が最も高いのは地元の住民ではないかと思うが、アプローチは出来ていない。
皆さま、何か情報をお持ちではないですか?
黄門さまも何か知っていることを教えて下さいよ!