右図は昭和28年応急修正版5万分の1地形図「船川」の一部である。
図の中央右寄りの位置で、青と赤でそれぞれ着色したラインが交差するように描かれている。
青は普通鉄道の記号であり、当時の国鉄船川線、現在はJR男鹿線として存続している鉄道である。
赤は特殊軌道の記号であり、図中には「林用ガソリン軌道」の注釈があるが、これは秋田営林局秋田営林署の森林鉄道、男鹿森林鉄道(正式名は単に男鹿林道)だが、昭和34年に廃止され現存しない。
ここに平然と二つの軌間の異なる(前者は軌間1067mm、後者は軌間762mm)鉄道が、立体交差によらず、平面交差によって交差している様が描かれている。
実はこれが非常に珍しい事象であった。
今回のレポートのきっかけを与えてくれた、林鉄に精通した人物Y氏の調べによれば、全国に僅か3箇所(内訳は、秋田営林局管内に2箇所、あと1箇所は高知か熊本だというが未確認)しかなく、林鉄と国鉄の平面交差は、数も記録も乏しく、もちろん現存もしない、我が国鉄道史上極めて希少な存在だったという。
と、ここでまず期待感を持ってお読み下さる皆さまにお詫びをしなければならないが、現地調査の成果は文字通りゼロである。
本当に何も残っていない。
右図は、現在の道路地図に見る平面交差があった辺り一帯だが、確かに男鹿林鉄跡は道としては残っている。
だが、道は(廃線跡らしく)自転車歩行者専用道路として整備されたり、普通の街路に様変わりしていたりして、林鉄跡を感じさせるものは何も無い。
起点の貯木場跡も同様で、大きなショッピングセンターが立地していて跡形も無い。
羽立駅も数年前までは国鉄様式のいいかんじの平屋駅舎だったが、今はお洒落な小屋風になったし、構内にも交換駅だった名残は薄い。
肝心要の平面交差地点も、これまた数年前までは踏切が存在していたものの、現在はその直上を国道101号の羽立バイパスが立体交差する形になり、踏切もなくなった。
ちなみに、現存していた頃に踏切を撮影した憶えがあるが、その画像も見つけられない。理由は、当時から既に林鉄平面交差時代の面影を全く失った、至って普通すぎる踏切だったので、その後踏切さえ無くなると思わず、画像をちゃんと整理しなかったのである。(←これは私のミス)
ということで、このレポートでお話しする内容には、現地調査レポートが含まれない。
だが確かにそういう物が存在したという証言があり、それが大変に面白いものである以上、ミニレポとしてではあるが、取り上げることにした。
これは秋田林鉄界の伝説である。
なお、この伝説の語り部は、盟友のミリンダ細田氏が現在支部長として活動している鉄道友の会秋田支部のOBであった人物で、Y氏とする。Y氏は秋田の森林鉄道と共に生きた人物であり、彼が記録した多くの聞き書きのメモは、二度と帰らざる秋田の林鉄黄金時代を物語る第一級史料である。
今から数年前に私とミリンダ氏はY氏宅を訪ねて、そこで貴重な情報を色々と教えていただいた。そのひとつが、この平面交差である。
これより箇条書きの部分ではY氏の情報を出来るだけ正確に書き写し、それ以外は私の感想などを含むものとする。
Y氏が「羽立貯木場国鉄線横断軌道」として記録している(正式名であるかは不明)ものは、羽立駅の西側数百メートルの地点にあり、文字通り国鉄線上を平面横断交差した。
以下の証言は、Y氏が当時この現場で林鉄の機関士などに従事した職員から聞き取ってメモしていた内容である。
ここまでの話しだけでも、この平面交差は相当に国鉄側が主導権を握った、林鉄には大変に肩身の狭いものであったことが窺える。
両方とも建前上は国の公的事業(国鉄と国有林経営)ではあったはずだが、これが鉄道局(運輸省)と営林局(農林省)の力関係にまで起因するものだったのか、単純に鉄道シーンにおいて「国鉄>林鉄」だったのか、はたまた地域的な力関係に過ぎなかったのか、なかなか興味深いところだ。
そして、そんな林鉄と国鉄の力関係を示したかのように、平面交差部分の線路の作りも一般的な鉄道同士の平面交差ポイント(写真:横須賀市内で撮影)のような上等なものでは無かったという。
この大きさも高さも全く違うレール同士の平面交差の技術的工作については、レールマニアのミリンダ細田氏が本件で最も熱く注目している部分なのだが、これ以上の詳細な記録や、他の林鉄国鉄平面交差を含めた写真を見たことがないので、実際の風景は想像の域を出ない。
さて、ここまでの内容だけでも、平面交差の特異点ぶりはだいぶ伝わったのではないかと思うが、実はY氏のメモによれば、まだ明かしていない、驚くべき…
本当に驚くべき国鉄優位の機構が、この平面交差に仕込まれていたのである!
これはマジで驚いた。 皆さんも覚悟するが良い。
さあ、行くぞ?
↓↓↓
まず、幸いにして、実際にこの待避線が使われたこと(=林鉄の強制脱線転覆事故)は無かったらしい。
とはいえ、いくら何でも強制脱線は酷いだろ……
酷すぎるだろ!(涙)
林鉄にだって、人が乗ってるんだぞ〜〜。
ここに待避線を用意するのは、まあ国鉄は林鉄を信頼できなかったのであろうから(←嫌味を言ってみる)やむを得ないとして――つうか、現実問題として男鹿林鉄の尋常でない緩やかさを考えれば、坂道での暴走などはあり得ないが――せめて脱線転覆させるのではなく、突っ込み用の砂山を置くとか、普通に減速しうるだけの直線を用意するとか出来なかったのか。
…まあ、よく考えれば、この“強制脱線待避線”(正式名は不明で、これはヨッキれんの仮称)を用意したのは、営林署側なのかも知れないが。でも、自ら脱線転覆を確実にするような施設を用意するか……?
国鉄との平面交差という特殊な事情を抜きにしても、林鉄にこうした強制脱線をはかる待避線が存在したという話しは、私は初めて耳にした。
それはY氏も同様であったそうだ。
私はやはり、この林鉄上においては類例が見られない(或いは少ない)「暴走時のための緊急待避線」というアイデアは、国鉄側によってもたらされたのではないかという気がする。
かつて国鉄の大規模な勾配線区には、しばしばキャッチサイディングと呼ばれる緊急待避線が設けられていた。
時代としては、列車のブレーキ機構が非力だった蒸気機関車時代(それも明治)のものが多かったようだが、例えば右図は明治32年の開業当時に建設され、数年経たずに撤去されたという、奥羽本線の庭坂キャッチサイディング(福島県福島市)の跡を示した旧版地形図である。
列車が坂道で暴走した場合、この巨大な半ループ線(約2.5km)に誘導し、その長大な距離と逆勾配を用いて出来るだけ安静に停止させる目論見だったのである。
また、より小規模なものでは、安全側線というものも利用されている。
こちらも列車同士の正面衝突などの最悪の事態を避けるべく、暴走状態の列車を線路外に誘導して脱線させてしまう緊急避難的な乱暴さのある施設だが、それでもさすがに転覆まで確定的に行わせるというのは聞いたことがない。
Y氏はこの施設に大変興味を持ち、特に強制脱線待避線の写真を探しておられる。
私とミリンダ細田氏も、もし写真が残っているならばぜひ見てみたいと思い、ご高齢のY氏に代わって、羽立駅周辺での聞き取り調査などを行ってきた。
その結果、確かに平面交差が存在した事や、待避線らしき物をうっすら憶えているという住人には巡り会えたが、まだ写真には辿り着けていない。
さらにミリンダ氏は羽立駅や、男鹿市立図書館、男鹿市教育委員会でも聞き取りや資料調査を行ったが、やはり成果はなかったそうだ。
右図は、間接的ではあるが一応、“平面交差が写っている写真”である。
国土地理院のサイトで見ることが出来る、昭和24年に米軍が撮影した航空写真(元画像リンク)の一部で、確かに林鉄らしきラインが、国鉄のラインと平面交差している様が見て取れるのである。(参考:現在の空中写真(googleマップ)
ただし、強制脱線待避線は見あたらない。
(昭和24年当時は存在しなかったのか、単に草や遮蔽物に隠されているだけかは分からない)
最後になるが、Y氏はここに極めて稀なる平面交差が存在した理由について、次のように語っておられた。
何ともシンプルな理由である。
逆に言えば、そうでない限りは絶対に国鉄線を林鉄が平面交差するなど許さないという、そんな国鉄側の意志が感じ取れる。
なんという傲慢だ …というのは私の勝手な憤慨だが、確かにY氏が仰るように、この男鹿森林鉄道は極めて古い歴史を有する。
秋田営林局が発行した『八十年の回顧』によると、男鹿林道(森林軌道)は、明治41〜42年に羽立港起点から男鹿国有林内まで8936m敷設という記録があり、これは県内有数の古さである。(ちなみに右図で「羽立駅連絡線」としたものは、正式名を男鹿林道羽立支線という(大正4年竣功、全長176mのミニ路線))。
廃止は昭和34年である。
当サイトでは過去にミニレポで紹介しているが、実はこの探索後に隧道を含む奥地の探索を行っており、『日本の廃道 2008年12月号』にレポートを公開済み。
対して国鉄船川線は、林鉄から遅れること8年目の大正5年に船川軽便線として羽立〜船川(現:男鹿)間が開業したのであり、この際に平面交差を生じさせている。
その後の大正11年に船川線へと改称され、昭和43年には男鹿線に再改称されて現在に至る。
平面交差の写真を探し当てるべく、秋田県立図書館にて追加の資料調査を行った結果、写真は発見に至らなかったが、平面交差の実在について、(伝聞によらない)より正確な情報を得る事に成功したので、紹介しておこう。この資料をめくっている最中、私は手に汗を握りっぱなしだった。なにせ、平面交差の写真がちゃっかり出て来そうな匂いがしていたから…。
平面交差についての記述があったのは、『船川線軽便鉄道工事概要一班』という資料で、大正5年に東部鉄道管理局秋田保線事務所が発行したものだ。
これはその名の通り、船川線建設工事の概要を、事業主体である鉄道院の機関が自ら記録したもので、内容の信憑性は随一である。
この本は、26ページの本文と、ページが振られていない数枚の図や写真からなる、本というよりは冊子に近い大きさのものであるが、このさほど多くない本文の中に、平面交差についての記述が2度も出てくる。このことは、林鉄と国鉄の平面交差が「特筆に値する」事例であったことを物語っているように思われる。
それでは、実際の記述を転載しよう。
一箇所目は、本文の3ページから始まる「線路ノ状勢」という、起点(追分停車場)から終点(船川停車場)までの線路上の構造物や車窓について解説する部分にある。
その終盤、本線内唯一の隧道である男鹿隧道を抜けるところから引用してみよう。
男鹿隧道延長八百二五呎ヲ穿チ急降シテ左方ニ湾曲シ丘脚ヲ縫ヒテ秋田県所管船川築港石材運搬用軽便軌道ヲ跨クニ木橋ヲ以テシ右折シテ西南ニ向ヒ北浦街道ヲ横キリ直ニ羽立停車場(五等甲十四哩五十七鎖八十五節二)ヲ設置ス地ハ寒風山南面ノ低地ニシテ北浦交通ノ要路ニ当リ秋田大林区署ノ貯木場及ヒ私設製材所アリ前面ハ真山、本山ノ双峰ニ鬱蒼タル老杉美林ヲ望ム双峰ヨリ大林区署所管木材運搬用軽便軌道ト停車場構内終端ニ近ク水平交叉ヲナシ夫ヨリ金川及ヒ宮ノ下川ニ木橋ヲ架シ (以下略)
国の船川築港事業がたけなわであった当時、現在も石材の産出地として知られる寒風山を起点とする県営の石材運搬軌道が存在したという情報も、この資料で初めて知った。同書の他の部分によれば、この軌道は船川線完成直後に廃止撤去され、船川線が上を跨いでいた木橋も撤去されたそうだが、その跡地の現状を含めて興味深い新情報である。
このことはさて置くとして、上記にはっきり「木材運搬用軌道との水平交叉」のことが書かれている。
平面交差ではなく、水平交叉という表現を用いているのも興味深く、今後同じ時代の同種の資料を検索する際、水平交叉をキーワードとして用いてみるのも一興だろう。
残念ながら、私たちがY氏から伺ったような、具体的な平面交差の情景は述べられていないが、それでも大正5年の船川線開業当初(正確には羽立〜船川間の延伸による全通開業)当初から平面交差が実在した事が、国鉄(これも正確には鉄道院だが)側の正式な記録に表れているのを確認出来たのは大きな収穫である。
ちなみにもう一箇所の記述箇所は、本文7ページから始まる「工事概況」という工事の技術的側面について特筆すべき項目を並べた中にあり、「羽立停車場終端ニ近ツキ秋田大林区署ノ敷設セル木材運搬用軌道ト水平交叉ヲナシ其前後ニ於テ軌道ノ附換ヲナシタリ
」とある。平面交差を行うべく先にあった軌道を移設したと分かるが、前後の地形図を比較しても軌道の位置に違いはなく、僅かな移転であったようだ。
現時点で私が知り得た情報は、ここまでである。
林鉄と国鉄の平面交差は、同じ秋田県内の扇田森林鉄道にも存在した事を確認しているが、こちらも写真などは未見である。
昭和34年以前に、国鉄船川線に乗車した事がある方は、ぜひ記憶を手繰ってみて欲しい。
何か思い出すことがあったら、すぐにご連絡ください! 前面展望映像とか写真があったら、超絶嬉しすぎるッ!!
その他、本件および本件類似物件に関する一切の情報を随時募集中。
強制脱線待避線LOVE!!!