その36 | 東能代駅近くの謎の廃鉄道橋 | 2003.11.5撮影 秋田県能代市 機織 |
今回はまた、皆様からの情報提供をお願いしたいと思います。
見つけたのは、謎の鉄道橋なんです。
もっとも、謎といっても、今度の物件はしっかりと地形図にも載っていたし、存在自体は疑う余地は無いんです。
では、その地形図をちょっとご覧頂いちゃいましょう。
これは、大正元年測量・昭和14年修正版の5万分の一地形図の一部分です。
写真の範囲は、奥羽本線の東能代駅駅の一帯ですが、いかがでしょうか。
見慣れない鉄路が、一本、描かれてますのに、お気づきになりましたか?
それは、東能代駅のすぐ東より北に分岐し、全体がS字を描くようにして蛇行、わずか2kmほどで米代川に阻まれて終点となっています。
奥羽本線の支線のようでありますが、沿線には駅どころか、人家ひとつ無い様子ではありませんか。
貨物扱い専用の支線だったにしても、余りにも辺鄙な場所に何ゆえこのような線路が敷かれていたのでしょう…。
なぞは、尽きません。
では、実際に現地へ足を運んで見ましょう…。
11月5日午前6時過ぎ、能代市鰄淵(かいらげふち)の米代川河川敷。
鰄淵は東能代駅付近では機織(はたおり:東能代駅の旧名でもある)に次ぐ市街部であるが、米代川の堤防に近い2kmほどは空き地が広がっており、人気は無い。
普通なら市街地の河川敷でこの時間といえば、犬の散歩やらジョギングの人々が多く出没しそうな物だが、妙に寂しい。
写真は堤防上の道に立ち、上流方向を眺める。
左の二本の立て札には、時空の歪みを感じさせられたが、その話はまたいずれ…。
同じ場所に立って、今度は川下の内陸側を撮影。
広大な空き地は一応区画整理を受けているようで、道路網があったりする様だが、人家は一軒もなく、当然ながら人の姿はゼロ。
東能代駅が一応奥羽本線内では能代市の中心駅であるが、駅からほんの2km足らずでこんな有様なのだ。
五能線の能代駅こそが、能代市の中心にふさわしい駅だといえる。
話が脱線した。
古い地形図に描かれていた支線の終点は、この更地のどこかに違いないようであるが、すっかりと土地は整理され、廃線跡の痕跡は一切見つけられない。
だが諦めずに、ここから東能代駅へと、廃線跡に近いと思われる道を通って向かってみる。
ある程度内陸に入り駅まで500mほどになると、やっと工場群が現れる。
これは能代工業団地であり、東洋一の木都と謳われた名残か、秋田県人なら知らぬものはいないだろう「アキモク」など、木材加工に関連する工場が多い。
空き地が目立つのは、どこの「工業団地」もおんなじ様なものである。
ちなみに、この1車線の道路こそ廃線跡を流用した物と思われるが、その痕跡は無い。
そもそも元の地形図を見ても、この支線には、今回紹介する橋を除いて、特に構造物のような物は見受けられない。
そして、もはやここに他の痕跡を見つけることは難しいという印象を受けた。
アキモクの工場の脇を抜けると、廃線跡の道路は米代川の支流である檜山川に突き当たる。
道は少し迂回し古びた橋で駅裏へと抜けるのだが、そこに直進するように問題の橋はある。
その入り口は草に覆われ、またレールを転用したフェンスによって封鎖されていた。
しかし、一目見て興奮で目が真っ赤に充血した(ちょっと大げさ、でもマジ興奮した!)!
なぜならば。
なななんと、そのプレートガーター橋には、現役そのままの二条のレールが残されているではないか!!
これに興奮しなくて、何に興奮すればいいんだ。
これこそが、これこそが、廃線跡の探険の面白さなのだ!!
おもわず、私のような廃線探求の若輩者ですら熱く語ってしまうほどに、その衝撃はすさまじい物があった。
なんせ、直前までは「なーーんだ、やっぱ、なんものこってねぇーなー。」などと、諦めていたのだから。
橋の前後にはこのようなバリケードが設けられていた。
しかし、もっとこの橋を近くで見たい私には、こんな物は無意味である。
いや、見たいだけではない。
私は、この橋を、なんとしてでも、渡りたいのだ!
チャリを袂に捨て、単身バリを乗り越える。
幸い、この時間人目は感じられなかった。
アキモクの煙突は白い煙を盛んに吐き出していたが。
いかにも無骨な上路プレートガーター橋は、淀んだ檜山川とその狭い川原に3本のコンクリート製の橋脚を下ろしている。
橋の長さは正味40mほどか。
枕木にレール、それと保線夫がかつて通ったであろう中央の板敷きが、ほぼ完全な形で現存している。
板敷きは腐って弱くなっており踏み抜きの危険性が高いので、私はレール付近の枕木を伝い、対岸を目指した。
幸い無風で、また高さも大して無いので恐怖感は薄い。
あるいは興奮の方が勝っていたというべきか。
本線と同じ幅のレールが二本、しっかりと枕木に固定されている。
板敷き同様枕木も腐食が進んでおり、歩くだけでペコペコと軽い音を立てるものもあったが、まだ辛うじてこの橋は鉄道を通わせることも出来そうな気がする。
ありえないことだが。
橋の真ん中付近から振り返ってみる。
袂のバリの先には1mもレールはなく、さらに先はアスファルトの車道に飲み込まれ、そのままアキモクの工場敷地を掠めるようにして、廃線跡の車道が河川敷を目指して続いている。
現役当時、この橋をどのような目的を持った、どのような車輌が走行していたのか分らないが、確実に運転手はいた筈で、彼の見た景色は如何様なものだったろうか。
想像するだけで、また興奮する。
対岸が近づいてきた。
こちら側はだいぶ川原の木が生長しており、橋を遮るように枝を伸ばしている。
夏場は通行が苦しくなっていそうだ。
やはりバリが設置されており、その先には雑木林が待ち受けているようだ。
駅裏側に近い橋上に、なんと勾配標と思われるものが残されていた。
著しく腐食が進んでおり、この状態のままあと幾冬乗り越えられるか不安である。
しかし、廃線跡の景色としては、この沿線ではこれこそが白眉といえるものではないだろうか?
愛読の書であった『鉄道廃線後を歩く(JTBキャンブックス)シリーズ』は惜しまれつつも10巻で完結を迎えたが、その延べ3000ページ以上をもってしてもなお、そこに紹介しきれなかったこのような好物件が残っていた。
それは、全国の広さを考えれば当たり前のことなのかもしれないが、今は単純に嬉しい。
続刊が無いのは残念であるが、秋田の廃線跡だけでも自分達の足で解明したいと、私は意欲に燃えた。
故・宮脇氏の魂は、全国の廃線マニアの心だけでなく、一人の“山チャリスト”にもほんの少しだが、息づいている。
ここでこんなことを言うのも場違いだとは思うが、同シリーズを通して私は、宮脇氏の探究心や廃なるものへの愛情に対して、尊敬と共に親近感を覚えた。
渡りきった廃橋。
20mほど雑木林を潜り抜けると、2車線の車道に出る。
その奥に見えているのは、JR東能代駅の広い構内である。
ここにも、目立たないが確かに廃線の痕跡があった。
それは、路上に残された、奇妙な皹である。
アスファルトによって覆い隠されてはいるが、そこには確かに消しても消えないレールの痕跡。
ここには踏切が設けられていたのだろうか。
この支線がいつ頃まで現役であったのか分らないのでなんともいえないが、廃止後に道を通すならレールは当然撤去されるはずだろうし。
さらによく観察すると、レールの一部が皹から露出していた。
振り返り再び橋のほうを見る。
踏み切りから雑木林を抜け橋へと続く郊外の支線は、一体どのような目的で建設され、また放棄されたのであろうか?
当時の沿線には工場も民家もなく、ただ河川敷きにアクセスするための路線に見える。
思うにこれは、昭和年30年代終り頃まで米代川で盛んに行われていた筏流し(上流で切り出した材木を川の流れで河口の集散地に運ぶこと)の終着地へのアクセス線であったのではないだろうか。
米代川は能代市を貫流し河口に至っているが、その内で陸揚げが行われていたのは、主に「檜山運河の水門」という。
この場所は、ちょっとまだ確認が取れていないのだが、先ほど渡ったのは檜山川であり、距離は離れていないと思われる。
そう思って先ほどの地形図を見ると、終点のすぐ上流の川原に「船着場」の記号が描かれているのを発見。
これも、何か関係があるのだろうか?
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2003.11.10作成