国道113号線はこれまでも数度紹介してきた。
例えば、宇津峠旧道や旧旧道、それに八ツ口の旧道などだ。
また、アクシデントによりレポ化できない状況にある“片洞門”は、この国道に数ある旧道の白眉といって良い名勝である。
今回紹介する小さな小さな旧道は、片洞門のすぐ西側である明沢地区の路傍に埋もれている。
短いレポだ。
気楽にご覧頂こう。
小国町の唯一の幹線と言って良い国道113号線は3桁の国道にしては良く整備されており、新潟・山形の最短ルートであることもあり、通行量も多い。
片洞門は綱取地区にあるが、この一つ東側にあるのが、明沢地区だ。
それらの中間付近に、この小さな旧橋はある。
現国道の松栗橋からは、北側に平行する旧橋の姿を発見できる。
旧橋と、前後の旧道は、合わせても僅か30mほど。
完全に見捨てられた存在である。
橋へ接近するには、徒歩ならばどちらからも可能だが、通常は西側からだ。
東側は現国道とは高さが少し異なり、通行が完全に途絶している上に、藪も濃い。
西側からなら橋上まで容易に進入できる。
しかし、橋の途中から藪となり、対岸は夏場でなくても深いブッシュである。
親柱や欄干の姿も、かなり植生に埋もれているが、頑張って探せば、いずれも健在であることが分かる。
橋の名は、松栗沢橋と記されていて、なぜか現道とは異なる。
まあ、“沢”の一字が現橋では消えているというだけの違いだが。
西側の親柱越しに現橋を望む。
ご覧の通り、新旧道は極めて近くに接しており、敢えて旧橋が落とされなかったのが不思議である。
単なる撤去資金の不足だろうか?
小国町内では、この様に残された旧橋が多数ある。
我々にとっては、夢のような探索適地だが。
さて、竣工年度を示す銘板は、ブッシュの濃い東側の親柱であり、なかなか発見に苦労した。
やっと見つけてみると、半ば蔦に隠され、錆も酷く進んでいた。
それでも、残っていただけ幸運である。
そして、意外なことに、そんなに古い橋ではなかった。
書かれた竣工年度は、昭和43年。
この程度の竣工年ならば、各地でまだまだ現役を張っているが、おそらく耐用年数を待たずに放棄されている。
これは、昭和40年代以降、この道の重要性がさらに高まったことによるのだろうか。
前後の線形の悪さと、橋自体の狭さが致命的だったと思われる。
旧橋といえども、思っていたほど古くなかった事実の前に、さらなる旧旧橋の存在が予感されたが、まさか実在するとは思わなかった。
旧橋から、さらに山側に目を遣ると、なんとなんと、この時期の藪でさえ覆い隠されそうなほど微かだが(夏場は絶対に隠されて見えないだろう)
、まだ沢に架かる橋の姿を見たのである。
まさか、本当に旧旧橋なのか!
興奮に打ち震えながら、流石に深い藪を漕いで進む。
しかし、すぐに袂へ達する。
その距離は、現橋と旧橋との距離に等しい程度でしかない。
そこにあったのは、骨だけの欄干、流出した土壌に浮いた橋桁、橋上も見境無く覆い尽くす蔦。
見るも無惨な、明らかに古そうなコンクリート橋の姿である。
欄干は、残念ながら原型をほとんど留めないほどに腐食している。
また、親柱も、ほとんどが折れて逸していた。
前後の区間も舗装された形跡が無く、完全に藪に還っている。
短い橋だが、衝撃的な廃景ではある。
そして、本当に旧旧橋である証拠が、期待以上にハッキリと示された。
なんと!
東側の親柱一柱のみ現存しており、そこには、なんか嘘くさいほどに綺麗なままの扁額が残っていたのだ。
発見の瞬間の驚きは、いうに及ばない。
そして、そこに示されていた数字を見て、思わずガッツポーズである。
「昭和5年8月竣工」
旧橋よりも、さらに40年余りも古い、これぞ古橋である。
この様子から見るに、夏場は完全に蔦や藪の底となり、接近を許さないに違いない。
そのことが逆に、この親柱一柱を守る事になったのかも知れない。
旧旧橋の名称は不明であるが、ここに新旧三代の橋を見たのである。
これだけ隣接した場所に、ほぼ同規模の橋が3代分も現存するというのは、私の知る限りはほとんど例のないことだ。
いかがだろう。