二ッ小屋隧道は明治14年に開通した、万世大路に三つあった隧道の一つである。
このうち、最も米沢側の苅安隧道は昭和改築時に開削され、峠の栗子隧道は国道として昭和41年まで改築使用されたが、旧化して程なく大落盤により閉塞し現在に至る。
万世大路時代の隧道で、唯一通り抜けが可能なのが、この二ッ小屋隧道である。
その延長は、387m。
当初は素堀りであったが、昭和9〜11年の大改築工事を経て、車道規格の隧道となっている。
廃止されて40年近くを経ているが、現役末期には内壁の覆工や路面舗装などの2次改修も施されたようで、内部だけを見れば、現代的なトンネルの様相を呈している。
その剥離崩落等の綻びは、年代相応と言えるが。
この二ッ小屋隧道が掘られた場所は、福島市街から小川に沿って奥羽山脈の一座である葡萄沢山を目指してきた万世大路が、この稜線はひとつの隧道では潜りきれるものでないと見るや、おもむろに北西に進路を変え、主トンネルである栗子隧道(栗子山直下)を目指して高度を稼ぎつつ、摺上水系烏川と同 滑谷沢の二つの沢を横断するその序盤、一つめの峰越に位置する。
小川と烏川との間に壁をなす稜線は、二ッ小屋隧道坑口の50mほど上部にあって、特に福島側は急峻な地形を示している。
明治に拓かれた道でありながら、初めから隧道を経由しており、正式にはこの稜線を越える道は使われていない。
だが、昭和の隧道改築時には、工事中の隧道を迂回して物資の輸送をする必要が生じ、この急峻な稜線を越える作業路が利用されたという記録もある。
僅か387mの隧道を迂回する峰越作業路。
おそらく、昭和9〜11年だけに利用された道であるが、果たしてその現況は?
これはもうひとつの、万世工事用道路である。
私とくじ氏は、万世工事用軌道の探索を終えた後、僅かだが自由に出来る時間があった。
その時、目の前には、くじ氏にとっては初めて、私にとっては2度目となる、二ッ小屋隧道(もっとも、この日の早朝にも車で通り抜けてはいたが)が、口を開けていた。
この、極めて貴重かつ歴史的価値の大きな二ッ小屋隧道だが、この隧道を迂回する作業道については、これまでその消息を辿ったレポがなかった。
おもむろに、我々は米沢側の坑門へと続く、長い擁壁をよじ登り、その上部に続く斜面へと踏み込んだのである。
私とくじ氏の、危険なランドエクスプロールの開始である!
昭和11年に完成した本隧道の改築は、それまで馬車がようやく通れる素堀り隧道を、昭和41年まで国道13号線としての役目を全うさせるほどに、見違えさせた。
まるで、隧道坑門建築の教本のような、極めて丁寧かつ、精緻なデザインに、見る者全てが感嘆の声を上げる。
さらなる奥地で、本道の主隧道として、やはり役目を全うした栗子隧道以上に、デザイン的には凝っている。
それが、何を意味しているのかは、資料に乏しく分からない。
あくまでも想像に過ぎないが、この二ッ小屋隧道は、福島市街部にも比較的近く、なにより、工事用軌道の終点という位置づけであったことが、潤沢な資材の提供を受けられる源となったのかも知れない。
一方で、山僻の極みである栗子隧道へは、計画はあったものの結局工事用軌道の延伸もなく、工事用資材の提供も困難を極めたと言われる。
なお、写真にはアーチを描く坑門の内側に、さらにコンクリのアーチ状の構造が見えるが、まさしくこの分が、後補のコンクリ巻き立て補強と思われる。
栗子隧道方向から、二ッ小屋隧道へと吸い込まれていく、最新の自動車。
坑門へと繋がる擁壁の巨大さ、特に幅の広さが際だつ。
もっとも、隧道はこの幅よりも二回りも狭く、大型車同志の離合は困難であったと思われる。
いわば、この幅の広い部分は、待避所としての役割も果たすべくして用意されていたのだろう。
かつて国道。
しかも、国の根幹をなす1級国道だったのである。
この、未舗装路が。
なお、二ッ小屋隧道の、この米沢側坑口付近には、ネット上ではよく知られたる不思議がある。
それは、雪解けの時期や雨天時などに、天井を突き破って豪快に洞床に降り注ぐ、一条の滝の存在である。
かつて、私が初めてこの地を訪れた5月も、残雪の目立つ時期で、
大層豪快に滝は落ちていた。
洞内から、この滝の落ち口を見上げると、なんと空が見える。
坑口からは、10mほど福島側の地点であり、普通に考えれば、そこには既に厚い地被りがありそうなのだが…。
ネット上で、この謎に明確な答えを出したのは、万世大路探索の第一人者である『
山形の廃道』サイト管理人氏である。
今回、我々も坑門上部へと立ったわけだが、そこには確かに、奇妙な窪地が広がっていた。
そして、その窪地の一角には…なにやら、穴が。
窪地は、これから我々が超えんとしている鞍部から切れ込んで、坑口のある地点へと落ち込んでいる小さな沢に対し、まるで砂防ダムのように存在している。
実際、水が堪っている痕跡はないが、この沢水が増える時期には、窪地の一角にある写真の穴にも水が進入し、その水がそのまま洞床に降り注いで滝となる模様である。
驚いたことに穴は、手を伸ばせば本当に洞内の空気を掴めるほどに、天井に接していたのである。
あるはずのコンクリートの内壁は、殆ど存在しない。
通常、トンネルの巻き立て厚は35cm程度以上だが、どう見積もっても、この部分の巻き立ては、20cm程度だ。
地被りが極端に少ない部分とはいえ、実際に隧道はこのような損傷を受けているわけで、現代の基準から見たら欠陥工事なのは明らかだ。
この日は、殆ど沢には水が流れていないにもかかわらず、やはりいくらかの水が穴へと吸い込まれていた。
カメラを穴に突っ込むと、内部には広い空洞が認められる。
紛れもなく、これが二ッ小屋隧道そのものである。
風化したコンクリは、さらに水流の浸食により、年々崩壊の度を強めてるとも言われる。
竣工から70年、廃止から40年を経て、いよいよ万世大路最後の隧道も、寿命を全うせんとしているのか。
実際、この窪みに立っている事自体、不安があった。
いつ、天井ごと洞床へ落ちるか分かったものでないのである。
もう一枚、他では見られない変な写真をご覧頂こう。
この写真は、天井の穴から、先ほどの写真で写っていた車が駆け抜けていくのを追って撮影したもの。
奥に見えるテールランプがその自動車のものであり、濡れた床に反射しているのも見える。
変わったアングルから、トンネル内を走る車というのを見たい方は、是非お越し下さい。
くれぐれも、陥没には気をつけて!
写真は、少し稜線へ向けて隧道直上を登り始めてから振り返って撮影したもの。
奥左の路面は旧国道で、右へ続く堰堤のような部分が、二ッ小屋隧道の坑門である。
微かにだが、足元には平場が続いており、これが初めて確認される作業道の跡と思われた。
晩秋の下草が極端に少ない状況下では、僅かな凹凸から明確に、道路痕跡を見いだすことが出来る。
だが、ここでは詳細を省くが、集団行動の一部の時間の探索であり、我々二人に許された探索時間は極めて短かった。
正確に作業道路をトレースすることは諦め、目視でも明確に存在している鞍部を直接目指すことにした。
小走りにも近いペースで、私とくじ氏は、ぐんぐん沢伝いの斜面を登っていく。
その天辺が、目指す鞍部に違いない。
高低差は僅か50mほどだが、急な斜面は足に堪える。
やはり、僅かではあるが、何らかの道の痕跡が、九十九折りで斜面にへばり付いている。
勾配的にも、幅的にも、この作業道路は自動車が通れるものではなかっただろう。
実際に、歩きで連絡していた描写が、工事記録などにも触れられている。
九十九折りを無視した直線登りで一挙に高度を稼ぎ、鞍部を目前にした我々。
作業道らしき痕跡もまた、確実に鞍部へと迫っている。
鞍部付近は、一面のブナの林であり、浅い笹藪に地表は覆われている。
この光景は、かつてここを人夫達が重い資材を背に越えた頃と、変わっていなそうである。
遂に、峠を越えることが出来る予感に、胸が躍る。
西日が降り注ぐ逆光の峠。
鞍部は天然の巨大な切通のようであるが、全く人工的に地形に手が加えられた痕跡はなく、やはりこの峠が正式に道として利用された前歴はないことを感じさせる。
南側斜面に近づくにつれ、地表を覆う笹藪は深く堅くなる。
鞍部には、ブナに混じって、巨大な松も根を下ろしていた。
この作業路では、一人の人夫が壮絶な感電事故で絶命した記録が、残されている。
これもまた『
山形の廃道』サイトに詳しいが、深い積雪で架空されていた高圧電線が地表に近づいている最中、資材を担いで通行していた人夫がこれに触れ、絶命したのである。
この他にも、昭和の大改築では、あわせて4名が命を落とし、197名が負傷したと記録されている。
幾多の屍の上に成り立っていた道もまた、屍のうちとなりて久しい。
鞍部より福島側の下りは、どこへと降りて良いか分かり難い。
作業路の痕跡も曖昧で、まもなく見失ってしまった。
ただ、下部に行くほどなだらかになる、広大なシダの森が遙か先まで続いているばかりだ。
鞍部より、概ね南へと向かえば、まず間違いなく万世大路へはぶつかるはずだが、仲間達が待つ福島側坑口への最短ルートを求め、慎重かつ大胆に、斜面を走り下る。
からだ一つで稜線を越える快感が、たまらない。
規模の小さな峠だが、地形的にはっきりしており、充分な充実感があった。
そしてまもなく、次第になだらかになる斜面の一画に、荒々しい岩場が露出しているのに出会う。
まさにこここそが、福島側坑口である。
隧道は、斜面に驚くほど巨大な傷跡を残していた。
二ッ小屋隧道福島側坑口上部。
足元は、崩れやすい瓦礫が積み重なっており、そこに羊歯植物が繁茂している。
仲間達は、既にこちらの坑門で待っていたが、そう待たせることもなく、私とくじ氏は彼らの元へと辿り着いた。
隧道内を歩いて3分ほどの所を、峠越えだと12・3分と言ったところか。
作業路は、微かに痕跡は残っているが、全容は不明のままである。
坑門直上から、扁額越しに地上を見下ろす。
米沢側ほどではないが、やはり坑門付近は水が溜まっている。
隧道内部はコンクリ舗装されているのであるが、洞外は未舗装である。
この継ぎ目の部分の、よく見るとまるで石橋のように石が並べられている場所が、私は好きである。
歴史を感じさせるのである。
最後に、坑門上の懸崖。
この麓にも、小さな窪地があり、まさか明治時代の隧道坑口部かと色めきだったが、残念ながらその様な痕跡は見つけられなかったし、工事記録などによれば、現在の坑口が、そのまま明治の隧道を拡幅したものらしい。
もうひとつの、万世工事用道路。
完全解明には遠いが、一応の峠越えに成功した。
想像していたよりは、容易に跨げる峠である。
くじ氏と一緒だと、自然にペースが上がるのだが、なかなか楽しかった。