その74不老倉の廃橋群2004.11.10撮影
秋田県鹿角市 



 不老倉は、"フロクラと読む。

一帯は、秋田県の北端である鹿角市の東山中に位置し、青森県二戸郡田子町や岩手県岩手郡安代町とは、奥羽山脈を隔てて接している。
17世紀に不老倉鉱山が発見され、昭和初期まで採掘が続けられた。
ほかにも、付近には多くの銅山が稼動していた時期があり、小坂・尾去沢にも並び賞される大鉱山街を形成したこともあった。
また、同地域の入り口である大湯温泉から、不老倉経由で奥羽山脈を峠越えし、青森県田子町へと抜ける来満街道は、藩政時代から盛んに利用されたが、現在の国道103号及び104号線が来満峠を経由しない北寄りルートを選択したことにより、車輌交通時代には取り残されて久しい。


現在は袋小路の不老倉地区だが、その最奥部まで一本の林道が延びている。
便宜的に不老倉林道と呼ぶが、明治時代には林道ではなく、現在でいう県道の地位にあった。
当時はまだ、来満峠を隧道で貫通する新道路の建設が調査段階にあり、先駆けて県道指定を受けていたと見られる。
結局、様々な要因でこの隧道計画は放棄されることになるが、近年再び「世紀越えトンネル」として計画の再開を期待する声が高まりつつある。

この道はまた、鉱山の膨大な往来を支えた道でもあり、寂れた林道には似つかわしくない、多くの遺構が点在する。

まだまだ調査不足ではあるが、今後のさらなる情報の集積を期待しつつ、2005年版の発見報告をダイジェストで行いたい。
来年以降も、継続して探索を続けたい地域である。




 

 では、国道103号線から分かれる鹿角市大湯から、辿っていこう。

まずは、大湯川を来満橋で渡り、支流の安久谷川の左岸に取り付く。
そこにあるのが、下折戸の集落である。





 1車線の幅しかない来満橋は、銘板によれば昭和36年の竣工となかなか古い。
また、銘板の一つにはカタカナで名が振られているが、「ライマンバシ」とは、日本語としては明らかに違和感のある音感だ。

ちなみに、不老倉鉱山(支山含む)は昭和45年に閉山しており、その途中にある中折戸・上折戸の二集落はそれまで鉱山の計らいで配電されていたが、その配電がストップすることとなり離村が進み、廃村となったらしい。




 すぐに鉱山に関連したであろう廃施設が現れた。

この先、林道沿いに所々、鉄管が露出していたが、それは最も奥の鉱山跡でも見られた。
どうやらここから終点付近までの10km余りの区間で、林道に沿ってガス、もしくは圧搾空気の送管が行われていた形跡がある。
管は、この設備に引き込まれていた。



 集落は間もなく途切れるが、すぐに未舗装となった。

特に通行規制は敷かれておらず、非常にフラットな幅広のダートが、しばらく続く。
チャリでも特に通行は大変ではないが、必然的に往復することになるので、飽き飽きしたのが本音だ。
流石に10kmの奥行きは、チャリでは長すぎる。



 淡々と林道は人工林を主体とした森の中を続くが、3kmほどで中折戸と次いで上折戸の集落跡が現れる。
まだ僅かに集落の痕跡が残っているが、殆ど耕作されている農地もなく、林道脇の墓場だけが生々しい雰囲気。

この辺りを境に、林道もややアップダウンが多くなり、安久谷川も深く山懐に切れ込み始める。
いよいよ本格的な山道の始まりだ。




 さらに進むと、立て札が路傍に立てられており、足を止めた。

そこには、「上日高の滝」と書かれており、徒歩1分ともある。
1分だったら見てやろうかと、立て札の前にチャリを置いて、右側の安久谷川の渓谷を覗き込む。

…滝はおろか、道なんて、ねーぞ。




 まあいいや、滝はそんなに興味ないし。

そう思って引き返した私は、チャリを置いた場所、ちょうど立て札の奥の茂みが、橋だったことに初めて気がついた。

なんと、現在の橋と平行するようにして、木の橋が落ちもせず架けられている。
現況は、この木橋を迂回するようにして、山側に架かっているので、現況からこの木橋の全容を見ることも出来る。
意外に頑丈で、今でも渡ることも出来た。




 これが、名称は分からぬが、とりあえず上日高橋とでもしておこうか。
その、旧橋である。

橋台は石垣、橋脚、橋桁共に木製。
典型的な、木橋である。
幅は林道規格であり、普段は森林鉄道の木橋をよく見るが、林道の廃橋で、かつ木橋というのはレアな遭遇だ。
しかも完全な形で残存しているし。

どうやら、現在の林道は入り口の来満橋と時を同じくして、昭和40年前後に一通り架け替えられている雰囲気なのである。
この先も、幾つかの橋で廃橋を目撃する幸運に恵まれたのは、そんな訳なのだろう。
鉱山時代の橋が、この橋を初めとした、これから紹介する木橋たちなのだ。



 ついでに、旧橋上から安久谷川を見下ろしてみて、上日高の滝を発見したのである。

どうやら、足元を落ちているこの滝が、それのようだ。
水量は少ないが、意外に落差があり、見ての通りだ。
なかなか旧橋上から見ると、ドキドキするほど高い。

これにて、一件落着で、先へと進む。
楽しくなってきたぜ。



 ますます険谷を成す安久谷川。
林道は、いくつもの支沢を渡りながら、上流をひたすら目指す。
藩政時代より、この奥にはいくつもの鉱山があったばかりか、主要な街道でもあったのだ。
当時の道が、林道とどの程度重なっているのかは分からないが、いずれにしても、相当の難路だったはずだ。




 起点から6km辺りが、最も険しい地形を見せる。

本流を橋で渡るのは、これで2度目だが、この無名の橋はかなり規模が大きい。
谷底から20m以上の高さを、一跨ぎにしている。
そして、私が興奮を覚えたのは、この橋の脇に、いつの物とも知れぬ、相当に崩落の進んだ橋台跡らしき石垣を見たことだ。




 安久谷川の左岸側、林道の現況のすぐ下手に、かつての道の跡と思われる林道から分かれた平場の先に、凄まじい石垣が崖にへばり付いている。

かつては全体を石垣が覆い隠していたのかも知れないが、現在は僅かしか残っていない。
対岸には、全く橋台のような痕跡は見いだせなかった。

この位置に木橋があったとしたら、さぞ壮観だったはずだ。
あの定義の橋にも負けない姿だったかも知れない。
惜しい。




 林道が左岸に移ると、一挙に沢が高度を上げて林道に接近してくる。
その追い上げの上端に位置するのが、「三界の滝」である。

大岩盤に両岸を挟まれた、連続的な瀬を、争うようにぶつかり落ちる白い流れは素晴らしい。
ガイドブックには載らない滝だが、決して落差で勝負しない滝として、私の印象に残った。




 その轟音は、三界の果てにも届きそう?!


どーお、くじさん?
なんか、この傍には他にも徒歩25分とか書いてあって、滝が案内されたりもしていたですよ。
私は、林道から外れてまで滝見には行きませんでしたが…。

あ、失礼。私信でした。



 ととと、
豪快な滝を過ぎると突如、付近の山容は一変するのである。

これには、意外性を感じた。
あれだけ狭い谷を潜り抜けてきた先に、こんな隠れ里のような広大な山林が広がってくるなんて。

だが、さらなる驚きはこのすぐ先に潜んでいた。
林道は、この先で鎌沢と分岐するのだが、この分岐点付近で、左の安久谷川の方の森を透かして見ると、驚く。

まさか、こんなものがあったなんて!




 『避難 合図場所』 と書かれた札が落ちていたりする、
ロータリーのような広い林道脇スペースの奥に、見えるのが次の写真の景色。

驚いてくれ。
(そう言われると驚きたくなくなるのが人間か。)



ドギューーーーん!!

なにやら、見たことがないほどに 
ながーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい
木橋が、見えるじゃありませんか。

見ちゃった見ちゃった。

こりゃ、行くッきゃないな。




 まず、林道から松林を50歩くらい藪漕ぎすると、この橋台の基礎が現れた。

この函がかつての橋台そのものなのだけど、中に詰まっていた土砂はすっかり下から抜けて、川の流れに浚われてしまったらしい。
函は空っぽで、人が通るにも、狭い隅っこを通るしかなくなっている。
遠目で見た以上に、この橋は、朽ちていそうな感じ。

さて、ごたいメーン。




 イカン! 腐っておる。

橋は、もう目茶苦茶。
普通に木は生えているし、こんな状況なのに、一応全ての橋脚間に一本以上の桁の名残の材木が渡されているのが、奇跡的。
橋の執念なのだろうが… 流石に

こいつぁ、わたれねーぜ。

しかたねーから、下から迫ってみよう。



 造りは至って簡素なもので、橋台の間には、コンクリの橋脚が7つ等間隔に並んでおり、これらに杉の丸太を主梁にした桁を渡しているだけである。
もともと、欄干などという安全装置はなかったに違いない。
こんな丸太橋を、鉱石を満載したダンプが往来していたのだから、昭和30年代って素敵すぎます。
確かに丸太は太いけど…。




 それにしても、長いなー。
要は安久谷川の幅の広い部分を、まともに渡ろうとしたがゆえの、この8径間の大木橋という答えだったのだろうが、現在の林道が、これといった長大橋も勾配もなく先へと進んでいるのに、何故、旧道はこんな無茶な事をしたのだろう…・。
(500m先で旧道と現道は合流します、何事もなかったかのように)

旧道を渡って調べてみたいけど、この日は時間もなく、しかも対岸の藪が「来るな!」って叫んでいるようだったので、行きませんでしたが。



 頭の中では、何本目の桁までは進めそうか考えてみたりはしたのだけど、結局チャレンジは見送った。

どう考えても、後半の数本はマジやばい。

だって、腐って痩せ細った丸太一本しか残ってなかったり普通にするし、余り高くないとは言え、一人の探索時に落ちてびしょ濡れになるのは、今後に大きく響く。

笑えないぜ。
ネタにもなりゃしねー。



 比較的まともな、此方岸の橋台付近の様子。

桁が目茶苦茶腐ってる。

この冬には、遂に何処かの径間が完全に消失してしまうような気もする。

渡っておけば良かったのかな…。

来年も行ってみて、何れは対岸の旧道区間も探索してみないとな。

なんか、小さな橋がもう一つあるようだったので。



 上流側現林道から遠望した廃橋。

なかなか絵になる姿でしょ。

みちのくの上高地みたいだな。

って、褒めすぎ?!

でも、背後のなだらかな山並みと、穏やかな川の流れ、
そこに取り残され、朽ちるに任せる巨大な木橋。
かつて鉱山が栄えたるを偲ばせるに、充分な情感じゃないか。



 暫し旧道は現林道とは安久谷川を挟んで対岸同志となる。

そこで、森越に見てしまった小さな廃橋跡。

行ってみたかったけど、かなり往来が面倒そうだったので、パス。
いずれ、旧道を通して歩いてみたいなり。




 さらに奥地へ進んでも、意外に景色は平穏なまま。
今に集落でも現れそうな感じなのに、一向に人の気配はなく、ただただ荒れ地が道の両側に続く。

今思えば、もうこの辺りもかつての鉱山敷地の一部だったのだろうな。
いくつもの廃坑道が口を開けるかつての鉱山地帯に、既に入っているのだ。

いよいよ終点まで2kmを切った辺りで、再び廃橋が寄り添う。
現道なんぞ、橋ですらなくなっているし。




 で、終点の不老倉鉱山跡。

ここには、おおよそ300年の幅を持って、無数の遺構が散在している。
写真は、もはやいつの時代のものかも分からない、山肌の石垣。

この辺は、まだまだこれからの散策で、イロイロと発見できそうではあるが、あくまでも私のターゲットは二つ。

 1.チャリで通れそうな廃林道の発見
 2.通り抜けの出来る坑道の発見

そして、この1.2の両方に置いて、今後の期待が多いに持てる地域が、この不老倉一帯なのである。
来年も、この場所から新発見をお伝え出来ることを、私自身が一番期待している。




 さらに進むと、いよいよ林道は行き止まり。

その先には四角岳(正面)の登山道や、かつては来満街道の脇街道だった不老倉越えの道があったりもする。
いずれにしても、車輌交通を許さなかった峠である。
チャリでも、越えていける気はしないな。




 カラミを積み上げた壁。

ここは、鉱山事務所のあった敷地らしい。
その背後には、小学校もあって、なんと麓の大湯にあった小学校よりも大きかったらしい。
昭和初期までは、娯楽施設を含め一通りの都市機能が揃っていたというし、数千人が暮らす都市が本当にあったのだ。

今は、付近10kmに誰一人住んでない。
残るのは、無数の鉱山墓地と、カラミの基礎や、石垣だけだ。



 で、さらに廃道間近の林道が続いており、もう引き返したい気持ちになりながらも、何となく進んでいくと、大きな沈殿地が幾重にも沢に連なっていた。
ちょうどその湖の底が、かつての集落跡だという。

鉱害防止の工事だけは、今でも付近の山中で続けられていた。
重機の唸りも、何かもの悲しい。




 どこまで続くのか分からないような廃道も、そこかしこに…。

面白い。

今日は、まだサワリだからな。
そう自分に言い聞かせ、我慢我慢。
なんせ、どこまで連れて行かされるか分からないのだ。
古い地形図では、そこいらの山中に道が張り巡らされているのだから!




 この地森沢の奥は、かつて青森県へと繋がる長大な隧道があり、坑内軌道も通っていたと言われる。

期待を胸に行ってみたが、残念ながら、片っ端から斜面は鉱害防止工事で改変され、もはや跡形もなかった。

眼前の山脈を越えれば、田子町。
田子町側からのアプローチも、今後の課題だ。

鉱山廃止後も、しばらく隧道は健在だったと言うから、悔しい。
もう数年早くきていれば…ともすれば。



 もちろん、 坑道も見つけている…。

入れるものも、きっとあるはずだ…。


以上、不老倉からお伝えしました。





不老倉レポート2004 完

2004.12.13作成
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