ミニレポート <第81回> 秋田内陸鉄道 比立内駅 
公開日 2005.7.26 


 黄昏の 途中駅。
 2005.7.23 PM16:00



 全長94.2kmの秋田内陸線は、全国屈指の長さを誇る第三セクターの私鉄である。
秋田県の内陸部を観光の街 角館から北秋経済の古顔である鷹巣まで敷かれた鉄路は、全長5700m近い十二段トンネルをはじめ、大小のトンネルや橋梁が配される、山岳路線である。
県内でも利用者の少ない鉄道の筆頭であり、廃止の話題は随分昔から出ている。
しかし、沿線町村の足並みも揃っておらず、廃止にせよ存続にせよ、もうしばらく結論が出ることはなさそうに見える。

 内陸線は平成元年に全通したばかりの比較的新しい鉄道であるが、その計画自体は大正時代にまで遡る。
もともとは、国鉄の鷹角線として計画されたが、先に着工された鷹巣側を阿仁合線と呼んでいた。
阿仁合線は昭和38年に比立内まで伸び、角館線も昭和45年に松葉まで完成したが、残り29kmの十二段峠区間の工事は、なかなか進展しなかった。
そして、国鉄整理を受け一度は全線が廃止されかけたが、ギリギリで秋田内陸線として再出発、悲願の工事も再開された。
その全線が開通したのは、たった一つの峠を挟むようになってから19年を経た、平成元年だった。





 ここ比立内駅は26年もの間、望まない終着駅として北秋田市(旧阿仁町)の山間集落に置かれ続けていた。
現在は、設定された全てのダイヤにとって、ただの途中駅となっている。

 地元に住んだ経験のある細田氏の案内で、私自身十数年ぶりに、この駅を訪れてみた。
そこには、かつてのターミナルとしての面影はなく、無人の小さな駅舎と、広大な空き地が広がっていた。
真夏の日差しも、険しい山並みに四方を囲まれたこの地では、一足早く黄昏色に染まる。
ヒグラシの声が、誰もいないホームに、赤錆びた鉄路に、響いている。





 もぬけの殻となった待合室と、改札。
かつてはJAの販売所を併設していたが、シャッターが下ろされていた。
色あせた風景写真や、埃にまみれた巨大なクマの木彫り(比立内にはクマ牧場という観光名勝がある)、そしてお馴染み「乗って残そうスローガン」のポスターなどが、殺風景な空間を、さらに虚無なものに変えている。

 駅前には自動販売機が二台。
11年前、やはり真夏の炎天下の元、チャリ馬鹿トリオでキャンプサイクリング中にホリプロ氏が五百円玉を投入し、そのまま飲まれてしまったという曰く付きの自販機だ。しかし、当時はまだ、駅に人がいたことを思い出す。




 私の目を引いたのは、駅の母屋から本線上を30mほど阿仁合側に進んだ場所にある、一つの廃屋だった。
コンクリートブロック製だが、屋根があらかた抜け落ち、扉も失われていた。
その内部には、なにやら雑多なものが見えている。

お宝の匂いを、感じた。



 小屋は物置だったようで、長年風雪に晒されるうちに荒廃し、もはや顧みられなくなって久しいようだ。
小部屋が4つ、線路に面して扉を失った入り口を向けているが、それぞれの床には、本線と直交する向きに本線のレールのギリギリまで、同じ幅の小さめのレールが敷かれているではないか。
 不思議に思った私に、細田氏の答えは明快。
ここにトロッコのような軽作業車が置かれており、必要とあらば人力で持ち上げ、本線レール上に設置して利用したのではないかとのこと。
なるほど、そんな使い方もあるのか…。

 4つある部屋を、一つずつ拝見させてもらう。





 落ちてしまった天井の板材が散乱しているが、様々な器具が、置かれていた。
特に多いのは、標識の類だ。
各所の踏切にかつて設置されていただろう道路標識や、線路用の標識、距離標や勾配標などが、置かれていた。
もう、使われることもないようで、錆び、朽ちるに任されている。




 くぉっ! これはッ!

 テッチャンナラミンナシッテイル、タブレット閉塞器と言うヤツです。

恥ずかしながら、細田氏(鉄道友の会会員です)の助言によって、私はこれが何なのかを知ったわけですが、調べてみると、確かにこれは間違いなく、タブレット閉塞器である。

タブレット閉塞の仕組みについては、こちらのリンクを参照していただくとして、この比立内駅でいつまでタブレット閉塞が利用されていたのだろうか?
仕組み上、途中駅には2基、終着駅には1基が置かれていた筈で、この倉庫にあるのは、全駅分ではなさそうだ。
しかし、10基以上は確認された。
その中には、もうどの駅で利用されていたものなのかが分からないほどに朽ちているものもあったが。

 <お願い>
 当駅に保管されている貴重な物品は、荒廃しているとはいえ、財産です。
無断で立ち入っている私が言うのも何ですが、絶対に持ち出したりされないように、お願いいたします。
このレポートがもとで問題が発生した場合には、今後はレポートの匿名性を高めねばならなくなります。
リアルなレポートを存続したいので、読者の皆様の良識を信じます。
2005.7.27 読者数名の盗難危惧情報をうけ追記。




 かつて、単線の線区では広く使われていたタブレット閉塞方式だが、近代化と共に、機械化された自動閉塞方式が主流となり、もう県内のJR線では、花輪線でのみ利用され続けていると聞く。
県内で最後までSLが活躍していた阿仁合線では、一昔前までおとぎ話のような鉄道風景が広がっていたのだろうか。

 貴重な器具であるが、屋根の抜けてしまった倉庫の中に、事実上雨ざらしとなって放置されている。
これはもう、3セクである秋田内陸縦貫鉄道社では財産として加味していないかのような扱いだが、会社ぐるみでネットオークションなどに出品すれば、そこそこの稼ぎになりそうだが、如何だろうか?




 タブレット閉塞器の一部品である電鈴。

爪ではじくと、透き通る音色が広がった。

小さな銘板が付いており、そこには「新津検修センター」の文字が。





 屋根は抜け落ち、ランプが所在なさ気にぶら下がっている。

毎日列車が通り抜ける傍に、かつて終着駅だった時代の忘れ形見が、取り残されている。

見上げた空は、西から黄昏色にかわりはじめていた。



 隣の部屋も同様に天井が抜け、瓦礫の山となっているが、隅っこの方には立て札や、距離標、勾配標などが寄せられていた。
距離標には、かすれた文字で「36」と記されていた。
起点である鷹巣から数えると、阿仁合駅が33km地点付近、この比立内は46kmあたりにある。
何らかの理由で距離標が不要となったか、いずれ取り外された箇所があるのだろう。




 また別の部屋には、最近はとんと見かけることが少なくなった道路標識が捨てられていた。
これは、「自動車(軽車両は除く)進入禁止」の標識で、おそらくは路盤の弱い踏切などで使われていたのだろう。
たまたま裏返しになっていた為に色褪せは少ないが、金属の腐食が限界まで進んでおり、手で持つだけで端が砕けてしまった。
いずれ再利用するつもりで保管していたのかも知れないが、もう二度と使えないだろう。

 我々は、一頻り探索すると、列車が来る前に線路上から撤収した。






 もうひとつ、この比立内駅には失われた鉄路があるという。

細田氏が案内してくれたのは、現在の駅から100mほど国道105号線沿いを南に進んだ、場所。
ここには、かつてSLの進行方向を変えるための転車台があり、SL廃止後もしばらくは草むらに埋もれて存在していたそうだ。
幼少の頃の細田氏は、友達と一緒に探険したことがあったという。

 駅から転車台までの100mほどは、当時終着駅の先に敷かれたレールであり、いまはある峠越えの真新しいレールは存在しなかった。
その途中には、たった一箇所だけ手動式の踏切があったと言うが、それはこの写真の位置だ。
以前は、奥の駅の方からレールが手前の道の方に伸びており、横切るアスファルトは踏切道だった。




 アスファルトが敷かれ、駐車場となった転車台跡地。
小さな体育館程度の広さがあり、国道に面している。

 なお、この比立内はかつての終着駅であると同時に、さらに古くは二つの鉄道の始発駅でもあった。
昭和初期から30年代頃まで、この比立内から南側の小岱倉沢沿いと、東側の打当川沿いに、それぞれ森林軌道が敷設されていた。
特に、小岱倉沢森林軌道は、この転車台の位置が起点のように当時の地形図には描かれているが、宅地化した一帯からその痕跡を得ることは出来なかった。

 



 山間の小村 比立内は、かつて鉄道とは縁の深い土地だった。

今日では、一日数本のローカル列車が通り過ぎるだけ。
そして、廃止の話まで持ち上がっている有様。
この転車台跡地のすぐ傍には、賑わいを見せる「道の駅 阿仁」が、無数のマイカーを昼夜問わず擁している。


 失われた鉄路や、置き去りにされた備品達に、思わず敬礼。

 そんな、真夏のひとときであった。



2005.7.26 作成
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