飯田線の温田(ぬくた)駅と為栗(してぐり)駅の間に、かつて我科(がじな)駅があった。
開業日は昭和11(1936)年4月26日で、私鉄の三信鉄道が温田駅から満島駅(現:平岡駅)まで延伸されたその日に、為栗、遠山口(現在は廃止)の両駅と共に設置された由緒ある開業初期の駅だった。
だが、開業からわずか6年後の昭和18(1943)年8月1日に、我科駅は廃止される。
この日は、三信鉄道を含む4社の私鉄線が一斉に国有化され、豊橋〜辰野を結ぶ全長195km余りの国鉄飯田線が誕生した日である。
我科駅があった場所は、豊橋起点から100.9kmの地点で、隣接する温田駅から1.3km、為栗駅から2.4kmの距離だった。
随分と駅間の狭いことに驚きを覚えるが、私鉄由来である飯田線は元よりローカル線としては駅間距離の特に短い事で知られており、全長195.7kmに94もの駅が置かれている。そこから導き出される平均駅間距離は2.1kmで、これは東京近郊を走るJR横浜線(全長42.6km、駅数20)に近い。
ご存知の通り、飯田線沿線の人口密度は全国的にも低い水準であり、その割に駅間が短いのだから、この路線に多数の「秘境駅」が出現しているのも頷ける。
もっとも、この温田〜我科の駅間距離1.3kmというのは飯田線の水準で見ても短距離であり、東京都心にあるJR山手線(34.5km、29駅)の平均駅間距離に近い。山手線の一駅程度なら、現代人の我々でも歩いていいかなと思える。そんな立地条件が廃駅の理由になったかは、資料もなく定かで無いが、とにかく我科駅は国有化に伴って必要性を篩(ふる)われ、あえなく棄てられた。
なお、『飯田線百年ものがたり』(平成17(2005)年/新葉社)によると、昭和18(1943)年の飯田線国有化に伴い廃止された駅は我科だけではなかったようだ。
このときの廃止駅は、柿平、池場、三信上市場、早瀬、我科、開善寺前、気賀、高遠原、伊那赤坂、大田切、入舟、西町、船町と、伊那電気鉄道に属していた区間を中心に多数あった(三信鉄道区間では我科のみ)。さらに、昭和20年から25年にかけてこの廃止駅の多くが復活を果たしており、未だ廃止されたままなのは、開善寺前、伊那赤坂、入舟、それに我科という少数に過ぎない。
我科駅の所在地を地図上で見ると、右図の通りである。
三信鉄道区間の駅の多分に洩れず、当駅も天竜川に面しており、長野県泰阜(やすおか)村の最南部にある我科集落を最寄りとする。
集落内に国道や県道は通じておらず、村道だけが温田駅方面に通じる。
地図を見る限り、家数はそこそこに多く、少なくとも飯田線にはここよりも遙かに秘境的な立地の駅は沢山ある。
隣の為栗駅などがまさにそうだが、廃止はされてはいないから、駅の改廃は単純な駅の利用人数よりも、他の交通手段(道路)との代替性が重視されたように思う。
それではさっそく、ご覧頂こう!
「ボクは三信鉄道しか知らない。」 6年4ヶ月の小さな駅を。
2013/3/4 15:21 《現在地》
「ここが我科駅跡です。」といきなり現場を紹介するだけでは、さすがに味気ないと思ったので、我科という集落を面に捉えて、その中にあった駅跡を紹介する流れでいこう。
まずこのスタート地点(というか別のもっと大きな探索の途中地点だったのだが)は、我科集落の裏山に口を開けている万古(まんご)隧道前である。
この隧道は昭和28(1953)年に林道として完成したのだが、全長620mもあり、当時の林道にあるトンネルとしては全国屈指の存在だった。
潜れば秘境として知られる万古渓谷があり、万古廃村を通って為栗駅にも行くことが出来る(レポートはいずれ)のだが、今回はこの坑門に背を向け、天竜川に面した我科へ下って行こうと思う。
ちなみに、今回の探索の足は、珍しく最初から最後まで徒歩です。
鋪装された村道をひとしきり下って行くと、大きな石碑のある切り通しに出た。
我科の集落を構成する家々は、天竜川沿いの低地(標高330mくらい)から坑口前(標高430m)辺りまで、比較的に緩やかな西向き斜面の全体に点在し、蛇行しながら通じる村道沿いに点々としている。
この石碑は文政10(1827)年に建立された馬頭観世音碑で、我科と万古を結ぶ峠道が、かつては信州と遠州を遙かに結ぶ秋葉街道の一筋だったことの名残を思わせた。
そして、ちょっとした足休めのようなこの場所を抜けると、天竜川を取り囲む大きな眺望が広がった。
足元に展開するのは見事な段々畑で、その下の平坦な土地が水田になっている。
だが、さらに先にもう一段急斜面があり、飯田線が通っているのは、その下である。
青い天竜川に臨む、この典型的かつ美しい河岸段丘が、我科の全体像だ。
15:35 《現在地》
この眺望絶佳の地点で、道は二手に分かれている。
左の道が現在の村道で、ゆったりした九十九折りで下っていくが、我科駅跡への最短ルートにして、駅と同じ時代を生きていたのは、右の道である。
いわゆる旧道で、おそらく秋葉街道と呼ばれた時代からの道なのだろう。
この右の道は、尾根に沿って直線的に下っており、序盤は見晴らしが良い。
そしてこの尾根の上には、道に沿って、現役の配水場と、昔ながらの堂宇があった。
後者が少し珍しい形をしていたので、簡単に紹介しよう。
旧道から古ぼけた石段を上った所にあったのは、こんな形をしたお堂だった。
これを見ただけで“ヘキサ…”とか呟いちゃうのは、私のような重度の県道マニアくらいだと思うが、確かにヘキサの形、六角形をしたお堂である。
いわゆる「六角堂」という奴で、四角いお堂に較べれば遙かに数が少ないが、それでも全国的に点在しているものだ。
建築物としての系譜がどのようになっているのかは知らないが、私の個人的な印象として六角堂には“瀟洒”や“豪奢”というイメージがあったので、このような辺鄙な土地に名も無い風情で佇んでいるのが、面白く見えた。
それなりに貴重な建築物と思われるこの六角堂だが、戸が外されたままなので、立ち入りも可能だ。
私は入口から半身を入れて覗いただけにしたが、左右の壁一杯に三十三観音の石仏が安置されており、突然の濃密な精神世界にハッとした。
また、見上げた天井には六角堂らしい見事な組木の模様があり、これまた印象が深かった。
観光地ではない、無防備で無垢な信仰を垣間見た気がしたが、これが昭和18年以来列車が止まらなくなった我科駅の道すがらの風景である。
後日読んだ『泰阜村誌 上巻』の「仏寺」の項に、このお堂が掲載されていた。それによると正式名をそのまま「六角堂」といい、本尊は如意輪観音を祀るという。堂は回り五間の正六角堂で、京都の長法寺というお寺から分祀したそうだ。堂内の三十三体石仏観音は、往古に三河長篠で造られたものというから、おそらく秋葉街道を通じて運ばれたのだろう。
更に地道を進むと、一軒の民家の庭先を掠めたあと、尾根からやや右に逸れて下るようになる。
結構な急坂で、昔なら郵便バイクくらいは通っただろうが、四輪車はムリだ。昔は馬道だったような雰囲気がある。
集落の上下を結ぶ電信柱もこの道沿いにあり、そんなところも旧道らしいと思った。
古い人道だが廃道では無く、ちゃんと下草が払われ路面が整っているから。畑仕事の通い道なのだろう。
我科駅跡まで、あとわずか。
15:41 《現在地》
来た〜! 踏切だ−。
万古隧道からここまで約1.1km、徒歩20分の行程だった。
いずれ、この直前までやっていた探索のレポートも書くと思うが、
それとまとめて読んで頂けると、私がここで線路と再開した時の、
心底「ほっ」とした気持ちを理解して頂けることだろう。
が、今はまだその時ではないので、我科駅跡へのアプローチの説明を優先する。
まずは見よ! ↓
この屈託無き、第4種踏切ぶり!!
踏切には遮断棒はおろか、警報器さえ存在しない。
「とまれみよ」と、村娘「みよ」ちゃんを止まらせる優しさも健在だ。
踏切の反対側の道もこちらと同様に狭く、いかにも里道といった感じだが、
この小さな道と踏切が、我科駅のメインアプローチだったと考えている。
もちろん私もここへ来たのは初めてで、実際に駅跡がどのようになっているのかは、見たことが無かった。
大体このあたりだということだけは、隣駅からの距離という限られた情報から把握していたが、今から実際に探すことになる。
与えられた我科駅の所在地情報は、温田駅から1.3km地点というもの。
そして現在地の踏切は、温田駅から1.2km地点にある。
すなわち、踏切から100mほど豊橋側の地点が、駅跡擬定地ということだ!
何か、見えますか……??
!!!
石積みのホームが、ある!
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
15:43 《現在地》
おおお〜〜! すげー。
踏切から我科駅のホーム跡までは約100m離れているが、特に道路らしいものは無いので、線路沿いの敷地を歩いて近付いた。
このホーム、廃止から今年(探索時)がちょうど70年目であり、もう人の寿命くらいの時間が経過しているにも拘わらず、本当に綺麗に残っている。
河岸段丘の斜面を背負う地形で、片面一線のみのホーム。
さすがにホーム上は雑草に覆われていて、それなりの経年を感じさせるものの、現役の線路に面している部分だけは草刈りもされているようで、20年前に廃止されたんだとかいわれても、信じてしまいそうだ。
もっとも賢明な読者であれば、20年前の飯田線の電車が、こんな背の低いホームに発着していたはずが無い。これはもっと遙かに古いものだろうと言い当てるかも知れない。
確かにその通りで、現在の飯田線にある駅のホームは、これよりもだいぶ高く嵩上げされている。
そのまま線路沿いを歩いて、ホームの反対側の端まで移動した。
ホームの長さは目測3〜40m。
短いが、ローカル私鉄のホームとしては、まあ普通の長さなのかもしれない。
近年のローカル私鉄にしばしばみられる高床式プレハブ的ホームに較べれば、手間もお金もかかっていそうな重厚な構造物である。
というか、この程度の堅牢さが無かったら、70年の月日には耐えられなかっただろう。
なお、我科地区全体の線形は天竜川のゆったりした蛇行に従い、半径300mを越えるくらいの大きなカーブになっているが、駅の周辺だけは直線である。
もし駅の具体的遺構がなかったら、この直線の存在を以て「唯一の痕跡だ」とか書くつもりだったが、そうならなかった!(笑)
続いて、注意しながら線路を横断し、ホームに立った。
今は時期が良いので藪も浅く見えるが、夏場になったら地面はまるで見えないだろう。ホーム上も三和土のような感じで、完全には鋪装されていなかったのだろうか。
線路に面した縁の部分だけはコンクリートで固められているので、さすがに藪はないが。
ホーム上からは線路を挟んだ南西方向に、我科の最も低位な平坦地に建ち並ぶ家々を見下ろす事が出来た。
この駅の最も頻繁な利用者たちだったと思うが、もう実際に利用した経験を持つ人は少なくなっていることだろう。
同じホーム上から、今度は北側(温田方向)を撮影。
この方向にはわずか1.3km先に、泰阜村の代表駅として、村役場へ向かうバスも発着する温田駅があるが、途中には3本のトンネルがあり、それなりに険しい。
飯田線を構成することになった4つの私鉄は、どれも駅間距離が短めで、とりあえず沿線の集落を一つでも多くカバーして乗客を確保しようという気持ちが強く伺える。
場合によっては、鉄道敷地を有利に提供した見返りや感謝として集落に駅を設置することもあったかもしれない。国鉄よりも地域住民の感情に影響を受けやすい私鉄だったからこそ、ここが温田駅にかなり近いことは承知の上で、我科の住民のために駅を開設したのではないかと考えた。
やや不可解なのは、駅が(当時の主要道だった)踏切から100mほど離れた中途半端な場所にあることで、もっと踏切の近くに設置した方が便利だった気がしないでもないが、踏切付近は河岸段丘崖が線路に極めて接しているほか、泰阜変電所という三信鉄道開業時からある運行上の重要施設があるので(写真左に見えるのがその建物)、ここまでずらしたのだろう。
駅跡を堪能したので、出発する。
先ほどの踏切を改めて渡り、道なりに天竜川の方向へ下ると、八幡社という立派な社叢を持つ神社があった。
立派な石碑が立っている(内容は後述)が、その脇を下ってくるのが、踏切から続く秋葉街道である。
境内にはこの碑と別に、とても大きな秋葉山・頭象山碑もあり、秋葉街道沿いの特徴的景観を示していた。
また、写真右奥に見えるのが、上の写真にも写っていた泰阜変電所の建物で、飯田線の線路はその背後の段丘斜面下を巻くようにして走っている。
この八幡社の門前には、ベンチ付きの大きな広場があり、いかにも村祭りの盛況を彷彿とさせるものがある。
短命だった我科駅が、少しだけ遠方からの旅人を受け入れることがあったとしたら、そんな祭りの日だったろう。
駅の最寄り施設は変電所だが、それに次ぐのがこの八幡社であり、その次が六角堂であろう。なんとも長閑である。
秋葉街道に面する八幡社の一角に立つ、とてもよく目立つこの石碑だが、こんな事が書かれていた。
天然記念物八幡社姫茨樅 八木貞助書 昭和十二年四月
また、この石碑の内容を補足するように、左の案内板が設置されていた。
植物については専門外なので、ここに書かれている内容について解説出来ることは特に無いが、私が興味を感じたのは、ここにあった「姫バラモミ」という珍しい木が天然記念物の指定を受け、立派な記念碑を高名な植物学者である八木貞助氏の揮毫により建立した年が、我科駅開業の翌年である昭和12(1937)年だということだ。
鉄道の開業によって初めてこの地に何百年も前からあった珍しい木が中央の学者の目に止まり、或いは研究の対象になることが出来たのではないだろうか。
そのようなストーリーを連想させるには、十分な符合である。
駅は僅かな時間で無くなってしまったが、その全てを見下ろしていた大木は、平成まで寿命を全うしたものと思う。
道は最後に八幡社の境内から、石段で一気に川縁の村道まで下っていた。
この石段は、その存在してきた時間の大半を神社の石段として、あるいは秋葉街道として過ごしたのだろうが、ほんの短い時間だけは駅前通りでもあったのかと思うと、廃線ファンとしては堪らないものがある。
石段を下り、村道に出たところで、このレポート中に過ごした時間が30分を過ぎた。
最初から最後まで、何の乗り物にも乗らなかったレポートは、珍しいかも(笑)。
ちなみにこの後もしばらく歩いて、私が夕暮れの中ようやく乗り物を目にしたのは、為栗駅に待たせていた先代のワルクードだったわけだが、その話もまた今度…。
15:56 《現在地》
温田駅に通じる川縁の村道(現在の我科地区のメインストリート)から眺める我科集落の一風景が、本編の最後のシーン。
残念ながらここから線路は見えないが、それは背後の段丘斜面を横切っていて、駅もそこにあった。
我科駅のホーム跡は、飯田線の車窓からならば簡単に存在を確かめる事が出来るが、地上からアプローチするのは、今回のようにある程度場所を把握していないと難しい。
飯田線には、駅前まで自動車が入らない駅が現在でもいくつかあるが、この駅も開業当初から廃止時までそうであったのだろう。
この我科(がじな)という、少し強そうな名前を持った廃駅。
存在だけならばウィキペディアの飯田線の項でも触れられているくらいにはメジャーであるようだが、いかんせん存在した期間が短く、かつ古いために、「あった」という以上の詳しい情報には余り恵まれていないようだ。
私も机上調査をしてみたのだが、中々手間取ったので、そう感じている。
ここでは、出来るだけ我科駅の生きていた姿を皆さまがイメージ出来るよう、いくつかの資料を用いて本編の補足説明をしたいと思う。
まずは大定番の旧版地形図だが、駅廃止後のものなので、これと言った成果は無かったりする点。
これは5万分の1地形図の「満島」(旧名:和田)という図で、昭和8(1933)年測量で昭和11(1936)年発行の要部修正版のみ、年代的に我科駅を描いている可能性があるが、残念ながら私はその版を所有していない。前後の年代のものは持っているのだが…。
本編とはほとんど関係しないが、当時は飯田線に沿って天竜川の左岸に県道が通っていたことが、この図から分かる。これは現在右岸を通っている県道1号の前身にあたる府縣道飯田満島線である。この日、我科駅跡を発った後に私が為栗駅まで歩いたのも、この“屈強な廃道”だった。
次はこれまた定番の古い航空写真だが、我科附近で閲覧可能な最も古い版が、この昭和23(1948)年に米軍が撮影したものだ。
残念ながらこれも駅廃止の5年後ではあるのだが、写真だけあって、まだ名残が感じ取れる。
泰阜変電所の大きな建物や、踏切の位置から、それらしい位置に線路沿いの膨らみが見て取れるのである。これが駅跡だろう。
周辺に駅舎らしい建物が見あたらないのは、早々に撤去されたのか最初から存在しなかったのか微妙なところだと思ったが、これについては次の調査で解決した。
なお、田畑の畦と道路の区別もいまいち付かないが、集落から駅へ上る道は八幡社経由のものだけでなく、集落から最短距離でホーム南端あたりへ上る道もあったように見える。
当時は踏切もあったのだろうか?
短命だった我科駅だが、何度も書いているとおり、三信鉄道の開業当初から存在した。
そのため同鉄道の建設誌である『三信鉄道建設概要』(昭和12(1937)年/三信鉄道株式会社)の「停車場表(一)(二)」には、当駅の開業時点の施設が掲載されている。
この資料により、どのような施設を持つ駅だったのかがはっきりした。
施設に関するデータを抜き出すと、以下の通りである。
我科停留場
測線延長:0 乗降場:(木造)90呎(≒28m) 貨物積卸場延長:0 本家:0 便所:0 乗降場附属上家(待合所):2.5坪 貨物積卸場上家:0 ポイント小屋:0 車庫:0
ものの見事に、ないないづくしのショボ駅だ〜!(苦笑)
ただ、ホームが木造というのは、現地に立派な石組みのものがあることと矛盾するが、まさか開業後の短期間で作り替えたのだろうか?
航空写真で見あたらなかった駅舎も、もとより存在自体無かったようなので、改札も野晒しだったのだろう。(それがホーム周辺のどこにあったのかという疑問は残るが)
ホームを除けば、当駅唯一の施設は、ホーム上にあった2.5坪の小さな待合所だけという有り様である。
ところで、この「停車場表」に掲載された全ての駅名は、「○○停車場」か「▲▲停留場」のどちらかの表現が使われている。
一般に国鉄やJRの駅にも停車場と停留所の区別が存在し、大雑把に言って。構内にポイントが無い駅が停留所で、それ以外の駅や信号場や操車場を停車場という。
道路ファンにとって「県道○○停車場線」のような路線名はお馴染みである。
対して三信鉄道のような私鉄の場合も、昭和62(1987)年までは、地方鉄道建設規程により、国鉄(JR)同様の区分が存在したらしい。(現在は停車場のみ)
したがって、上記「停車場表」にある停車場と停留場の違いも(所と場の違いは不明だが)、構内のポイントの有無であったとみて良いだろう。
つまり、我科駅は単線の片面一線ホームのみで、一切の側線も待避線も持たない、最少にシンプルな駅だったと言う事になる。
我科駅の現役当時の写真は無いのか?
頑張って探してみたのだけれど、今のところ未発見である。
一番「惜しかった」のは、『飯田線の60年 三遠南信夢の架け橋』(平成8(1996)年/郷土出版社)に掲載されていた右の写真で、元のキャプションにあるとおり、開業翌年の昭和12(1937)年に撮影された泰阜変電所の建屋である。
現在はこの建物では無くなっているものの、全く同じ位置に泰阜変電所があるので、もしこの撮影者がカメラをこのまま右に向けてくれたら、我科駅がグギャギャギャギャーンと写っていたはず! ちくしょうめー!
我科駅敷設の経緯にも、何かエピソードがあったのだろうか?
実はあったようだ。
『泰阜村誌 下巻』の第14章に、「駅の設置運動」として、こんな話が載っていた。
村内駅の会社側の設置計画は二駅一昇降所(門島、温田、西唐笠)であった。村は地域の地勢上この三ケ所のほかに、金野、田本、我科への昇降所設置を陳情した。
金野昇降所設置のためには、隣村千代村の一部と対岸下条村のうち、阿智原、小松原よりの協力を求め、また駅舎設置の資金を寄附し、田本昇降所設置に当たっては土地の無償提供のほか、奥地や対岸大下条村方面の協力を得てそれぞれ設置が決まった。
我科には変電所の設置があって昇降所が設置された。これによって村内に二駅と四昇降所の実現をみたものである。
我科駅だけでなく、秘境駅として有名な田本そして金野などの駅も、泰阜村による三信鉄道株式会社に対する熱心な陳情活動によって実現をみたというのである。
そして、我科に運転上の重要施設である変電所があったことは、駅設置の大きな武器になったようだ。
(ここでは「昇降所」という表現が、停留場(所)の代わりに使われているようだが、他で聞いたことの無い表現である)
さらに村内各駅毎の解説もあり、我科駅については、以下のように記されている。
我科昇降所
三信鉄道の温田〜満島間の開通に伴い、我科八幡林に設置され昭和十一年四月二十六日より停留所となった。この設置にあたり村は村費二十円を補助した。我科昇降所は鉄道の変電所と住民の請願により設置を見たものであったが、昭和十八年八月一日の国有鉄道移管の際廃止となった。
この解説文により、我科駅の設置に際し、村が20円の村費を補助していることが新たに判明した。
もっとも、昭和12(1937)年の大卒初任給が70円程度だったから、これは特段大きな金額というわけではない(誤記でなければ)。
また、残念ながら国鉄移管時に廃止された理由も書かれてはいないし、本編の冒頭で述べたとおり、国有化に伴って廃止された飯田線の小駅の多くが、住民の陳情により戦後まもなく“復活”したのであるが、我科駅でもそのような陳情はなされなかったのか。また、なされても復活しなかったとしたらその理由は何なのかなど、全ての謎が解明されたわけではない。
村の民話では、伝説の白タンポポが咲くという我科は、とても朗らかな集落だ。
今は道路網の袋小路にあって、駅も無く、外から訪れる人は少ないと思うけれど、私にとっての忘れられないスポットがまた一つ天竜の流れに加わった。
そんな小探索だった。
完結。