仙台駅から西へ26kmほど広瀬川をさかのぼった奥羽山脈のただ中に、作並温泉がある。
そこは仙台と山形を結ぶ国道48号関山街道の通路にあたり、東北地方の在住者であれば一度は通った事があるのではないかと思う程度には、交通量が多い。
もちろん、私も過去何度となく自動車、そして自転車という手段で通行してきた道である。
仙台側からこの道を辿るとき、作並温泉の温泉街に入る直前で、湯渡戸(ゆわたど)橋という、比較的大きな橋を渡る。
名前からして温泉地の玄関口に相応しい感じを受ける好ましいものであるが、この橋には現在ほぼ使われていない旧橋が存在する。
しかもそれは旧道化して久しいにも拘わらず、未だに地理院地図に描かれ続けている。(前後の道は書かれていないが)
今回紹介するのは、この湯渡戸橋の旧橋である。
私は平成17(2005)年に一度探索しており、今回は11年ぶりの再訪であったが、レポートにするのは始めてだ。
2016/5/29 5:32 《現在地》
ここは仙台市青葉区作並の湯渡戸橋北詰めで、奥が仙台市方面である。
目の前にあるのが現在使われている湯渡戸橋で、記録によると昭和28(1953)年の竣工だから、これが旧橋でも何ら不思議でないくらい年季が入っているのだが、今もバリバリ働いていて、外見的にも古びた感じをまず与えない、希有な橋である。
本橋には、直接と間接の両面から古さを滲ませやすい親柱や銘板が存在しないことも、古さを感じさせない大きな理由であり、教えられなければ昭和28(1953)年の古橋と知らずに利用している人が大半だと思う。
この湯渡戸橋の歩道から広瀬川を見下ろすと、漏れなく旧橋を発見できる。
←これが、旧湯渡戸橋だ。
現橋の僅か30mほど下流に架かっているが、川面からの高さは段違いに低い。
そのため、歩道から下を覗かねば見つける事は出来ず、車で毎日のように橋を通行していても、この旧橋の存在を知らなかった人がいるかもしれない。
この高さの違いは、現橋が橋の前後で少しの上り下りもせず、直線的に河岸段丘の面同士を結んでいるのに対して、旧橋は深い渓谷となった広瀬川のかなり低い位置にまで入り込んでから渡っていることによる。
昭和28(1953)年竣工の湯渡戸橋よりもさらに古い旧橋である。
それだけで、ほぼ戦前生まれの古物だと分かるが、地形図に未だ描かれ続けているのも頷ける程度には立派で頑丈そうな“永久橋”である。
そしてその立地は、役目を終えてからの時の長さを如実に感じさせる、ミスマッチの中にある。
旧橋の北詰めには間隔を空けず高層ビルのような温泉ホテルが屹立している。東北の都邑仙台が誇る大温泉郷、その門戸に相応しいシンボリックな出で立ちである。
較べて旧橋は、足元に跪くような立地であるが、それでも川の上というある種の聖域を有利に働かせたものか、それとも何か今も隠れた役割を持っているのか、はたまた歴史を有するシンボルブリッジへのリスペクトの故か、撤去を免れている。
川面まではおそらく30m以上、旧橋の路盤までは20mくらいの大きな高低差がある。
そのため、実際の距離以上に真下に見るような、ナイフを首筋にあてがわれたような冷たい感覚がある。
旧橋にはなぜか一切の欄干が見あたらない事も、恐怖感を増している。
欄干の無い端に近付きさえしなければ危険な要素は無いにも拘わらず、それでも怖いと思わせる重い雰囲気がある。
そしてこのシンプルな印象は、11年前も同じだったと思う。
だが、魅力がある。
コンクリートの白い路盤が、滴るような濃い緑と日が射さない朝の暗い谷の中で、浮かぶように目立っていた。
そして私を艶めかしく誘う気がするのだった。久々にいらっしゃいよ、と。
5:34 《現在地》
旧橋へと繋がる旧道の南側入口は、ここだ。
直線道路の途中に脈絡無くあり、はっきり言って、全く目立っていない。
車道上から見える分岐の存在を物語るものは、歩道の縁石にある地味な切れ込み程度である。
だが、旧橋へ行こうという目的意識を持って、少し周辺を探して歩けば、ここに行き着くであろう。
私も11年前はそうやって見つけ出したのである。
今回はもちろん、「知っていた」のだから、顔パス同然である。
歩道から見ると、このように薄らとではあるが、車道程度の幅を持った脇道が森の中へ下っている様子が見て取れる。
そして、この薄暗い脇道を、国道の旧道と疑わせる存在になっているのが、「この先 通り抜け出来ません ご協力下さい 仙台市
」と書かれた看板と、「宮城総合支所道路課
」のシールが貼られたA形バリケードである。
こいつらの存在が、これを単なる造林作業道とかではない、もっと由緒ある道として匂い立たせてしまっている。
そしてオブローダーというヤツは、こういう匂いを嗅ぎ分ける術には長けている。
にゅるんと侵入開始。
下り坂で始まる旧道は、二列の轍を浅い下草に薄らと滲ませながら、最初こそ旧橋が見えた方向へ真っ直ぐ進むが、すぐに左へカーブしていく。
そして、そのカーブの先には、現在の湯渡戸橋が待ち受けていた。
旧道は、湯渡戸橋の橋台直下で、同橋と立体交差していたのである。
橋と交差する部分は、橋台により道幅が圧迫されており、旧道が現役だった時代よりは狭くなっていると見られる。
だが、それでもなんとか普通車程度は通れる高さと幅と路盤が保存されていた。
そしてこの場所からは、緑の濃いこの時期であっても、ぎりぎり旧橋の姿が見えるのだった。
この線形を最初に見たときには、思わずポンと膝を叩きたい気持ちになった。
それくらい、狭い場所に上手い具合に道が折り畳まれて格納されているのである。
すなわち、旧道はこの先で下りながら切り返し、もう一度湯渡戸橋を潜った後に、左折して旧湯渡戸橋に掛かっているのである。
このような小さな写真だとさすがに分からないが、実際には木々の緑の隙間に、旧橋の特徴的な白い路盤が透けて見えている。
また、対岸の巨大な温泉ホテルは、木々の背丈を遙かに超えて、橋の向こうに立ちはだかっている。
ところで、湯渡戸橋の橋脚の形が個性的だ。
右側の高く出っ張っている部分は、歩道部分を支えているのであり、どうやら昭和28(1953)年の開通当初は無かった歩道を後年に増設した為らしい。
そして歩道は箱桁だが、車道部分はそれなりに古色を帯びた上路トラスになっていた。
地理院地図には描かれていない南側の旧道を図示すれば、左図のようになる。
理想的な線形でスマートに谷を一跨ぎする現道に対し、いかにも汗みずくになって谷と格闘した気配が、羊腸たる線形からも滲み出ている旧道である。
果たして、どの時代に最初に描かれた線形なのだろうか。
答えは、明治である。
現在の国道48号の通称となっている関山街道というのは、主に明治時代の関山峠を中心とする大規模な新道開削以降に名付けられたものである。
山形と仙台を結ぶこの道路の全線が開通したのは明治15(1882)年で、その時の山形県令が有名な三島通庸(みしまみちつね)でり、彼と歩調を合わせ宮城県側の工事を計画・指揮したのが、宮城県令松平正直(まつだいらまさなお)であった。
宮城県側区間の沿道にある作並温泉へ歴史上はじめて馬車や人力車が入り、その後の繁栄の基礎となったのが、このとき整備された関山街道(関山新道、作並街道とも)というわけである。
だから、いま辿っている小刻みな九十九折りを描くこの旧道は、明治15(1882)年頃に開通し、昭和28(1953)年に旧道となるまで、おおよそ70年もの長期にわたって、仙台と山形を連絡する最大の幹線道路であり続けた道路である。
もちろん、この長い期間の途中では、自動車交通という新たな需要の発生があり、各地で改築が行われたのに違いないのであるが、すくなくともこの湯渡戸橋については、本旧道以外にそれらしい道が現地に無く、歴代の旧版地形図を見ても、この一連の旧道ルートをずっと使い続けていたと考えられる。
写真は、鬱蒼とした森の地面に残る、切り返し地点のカーブである。
ここで進路を反転させて、一路、旧橋を目指す。
再度、現橋の下を潜ると(ちなみに、ここで現橋の下の乾いた斜面を使って、カーブ一つ分の行程をショートカットする事も容易い)、いよいよ目指す旧橋は目前だが、周辺の樹木が旺盛に育ちすぎていて、もう写真では非常に分かりにくい。
それでも肉眼だと、カーブして橋へと至る道はそれなりに区別が出来るし、何より「ここから橋です!」と雄弁に物語る“物体”が、はっきり目に止まるのであるが、薄暗い中で撮影した写真の限界だろう。
やむなく補助線を入れている。
ちなみに、このアングルから木々の隙間に見えているのは、全てが背景の巨大温泉ホテルだ。空が見える余地は一切無い。
5:36 《現在地》
11年ぶり(正確には10年と51週間ぶり)に再会した、旧湯渡戸橋。
ここはその南側(仙台側)橋頭である。
「ここから橋です!」と雄弁に物語る“物体”とは、右側に1本だけ残っている石造の親柱である。
銘板も取り付けられていた痕跡があるのだが、残念ながらそれは失われている。
そして、親柱の先は紛れもなく橋の上だが、まるで土橋に草木が根付いてしまったかのように、
コンクリートであるはずの床版に、豊かな緑が自生している。さすがに大きな木は生えておらず、
それらは橋の下の斜面に根付いて、橋より高く成長しているものである。
11年前の写真と比較してみると、明らかに踏み跡が薄くなっている。
また、前回はここにも置かれていたA形バリケートが無くなっていた。
しかし、橋そのものの状況は、ほとんど変化していないようだ。
橋を渡る前に、少し脇へと回って、渡るだけだと床版に遮られて見ることが出来ない、桁の構造を確認する。
最初に上から見下ろした時にも、木々の隙間に少し見えてはいたのだが、本橋の構造は見事な鋼アーチ橋である。
より詳細に見れば、上路鋼ソリッドリブアーチという形式で、これは鋼鉄の板材によって構成された上路アーチ橋であることを示している。
(アーチ部分が板材でなくトラス材になると、ブレースドリブアーチという)
鋼ソリッドリブアーチ橋自体は現在も盛んに架設されており珍しいものではないが、本橋の場合は3本あるアーチ材の鈑桁が、溶接により加工されたもので無く、リベットによって多数の鋼材から組み立てられたものである点で、明らかに古い形態を持っている。
その事に起因する外見的特徴が、アーチ材に目盛のように密な縞模様があることで、この模様は強度を保つための補剛材による。
私はそこまで詳しくないが、それでも一目で戦前の橋だと分かる程度には、古い姿をしている。
良い! と、思った。
ちょっと、惚れた。
だからこそ…
11年前はしなかった、
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谷底からの撮影を決行することにした!
道を外れて、適当な斜面を下る。
幸いにして、手掛かり足掛かりは豊富で、難しい事は無い。
そして、ほんの少し下っただけで、この迫力である。
やはり、橋を最も映えさせるアングルとは、
下からの仰瞰に他ならなかった!(定説)
単なる橋の利用者の視座から、貪欲な観察者の視座へ踏み出したことにより、本橋は一気に多くの情報量を吐き出し始めた。
まずは、床版の厚みが目に止まった。
近年の道路橋に較べれば、明らかに薄っぺらで脆弱そうに見えるのだが、こういう部分も構造の古さを物語っている。
到底、現橋のような重交通には耐え難いであろう。
次にアーチ材が地面と接する部分に目を転じれば、そこにあるのは、さすがに間近だと迫力がある巨大なヒンジ材だ。
通常、アーチ橋のアーチが岸に接するところには、このように回転可能なヒンジが存在していて、ある程度の伸縮や振動に耐える構造になっている。
稀にアーチ材の途中に第三のヒンジを持つ橋もあるが、本橋のようなオーソドックスなものを2ヒンジアーチという。
よって、本橋の構造をまとめると、「上路鋼2ヒンジソリッドリブアーチ橋」と表現され、土木学会が公開する橋梁史年表でも、本橋の形式はそう書かれている。
橋梁史年表が出て来たついでに明かすが、同資料は旧湯渡戸橋の竣工年を、昭和12(1937)年頃としている。
現地には銘板など、はっきりと竣工年が分かるものがなく、私の手元にある他の資料にも、情報は無い。
ではなぜ昭和12(1937)年という予測が立つかといえば、それは、この前年から当年にかけて関山街道全線で大規模な改築工事が行われ、それまでの軽車両交通の道から、自動車交通が可能な道へ生まれ変わったとされる時期であるからだ。
事実、関山街道に属する本橋以外の橋でも、竣工年が分かっているものの多くが、この時期に木橋から最初の永久橋へ架け替えられている。
というわけで、私も本橋は昭和12(1937)年頃の架設と考えている。そして、それが間違っていなければ、現在の橋に架け替えられるまでの実働期間は短く、僅か16年ほどであったことになる。
さらに橋台付近をつぶさに観察すると、旧橋のコンクリート製橋台のすぐ下流側に隣接し、使われていない石積みの構造物を見つけた。
これも11年前には気付かなかった発見だが、高い確率で、明治期に建造された旧旧橋の橋台だろう!
であれば、三島通庸&松平正直(ミッチー&マサ)時代の遺構ということだ。
既にここに至る短い旧道の屈曲する線形からも、明治車道の濃厚な残り香を感じ取ってはいたが、その当時の直接の遺物と思われるものの発見は、大いに私を興奮させた!
この石垣は高さ5mほどの空積みで、下流側は良く原形を留めるが、上流側は旧橋の橋台により削り取られたものか歪である。
橋梁史年表には、この明治の湯渡戸橋(旧旧橋)のデータも収録されており、それによると、竣工は明治12(1879)年8月、橋長25.4m、幅員3.6mの土橋であったそうだ。(土橋というのは、木造の橋桁に土や藁を敷いて隙間を埋め均したもので、高所が苦手な馬の通行に適した。桁の形式自体は問わないが、規模からして、恐らく木造の方杖橋であったろう)
なお、旧橋については竣工年だけで無く、橋長や幅員のデータも欠落しているが、橋台の位置からして、その長さや高さは旧旧橋よりも少し大きい程度だろう。(また、湯渡戸橋の架設は明治が最初では無く、江戸時代から全長20m幅2.7mの土橋が架かっていたようだ)
5:43
杜の都仙台の母なる川として名の知られた広瀬川だが、源流まで残り10kmを切った当地における平時の水量は、驚くほど少ないものだった。
日中でも薄暗い深い谷底を水は流れており、これだけの谷を穿ったのは、紛れもなくこの川の力であるはずだが、足元の流れはとても淑やかで白波は一つも無く、しかも水面のどこであっても自由に跋渉できる程度の浅さである。
まあ、私はその跋渉の代償として、この日の探索開始から僅か15分で一足目の靴を完全に水没させたのであるが、それはむしろ、靴が濡れてもいいから自由なアングルから橋を眺めたいと、はっちゃけてしまったことが原因である。
そんなわけで、この後しばらく私は、妖精にでもなった気分で、好き放題に水上を歩き回って、カメラを頭上に向けた。
右の写真は、直下から見上げた旧橋のアーチである。
築79年(推定)を経て尚、大きな綻びを見せず健在である。
重労働に喘いだ期間が短かった分、多くの余力を残して、長すぎる余生を過ごす羽目になったのだろう。
東日本大震災に対しても、古き2ヒンジアーチの構造は、その秘めた性能を正しく実証したようである。
それにしても、背後の巨大ビルの存在感が半端ない。
ミスマッチで美しくないとは思うが、でも一緒に撮すのは、なぜか楽しかった。
平坦な水面を少し歩き、上流に架かる現橋直下へ。
そこで真上を向いて撮影したのが、この写真だ。
向かって右側に歩道が添加されているため、少しだけ重たいシルエットになっているが、それ以外はまるで鉄道橋のようにシンプルな上路トラス橋である。
既に述べた通り、竣工年は昭和28(1953)年11月で、橋長96.7mで、幅員5.9m(車道部)という記録がある。
なお、この昭和28年という年は、関山街道が初めて国道に指定された記念すべき年である。
この道の路線名の変遷としては、大正9(1920)年に旧道路法下における宮城県道仙臺楯岡線に認定され、そのまま旧法下では府縣道のポストを貫いた。
だが、昭和27(1952)年に公布された現行道路法下では、その翌年に行われた二級国道の第一次指定において早速、二級国道110号仙台山形線に指定されたのである。さらに10年後の昭和38(1963)年には、区間はそのままで一級国道48号へ昇格し(現在まで国道110号は欠番)、同40年になって現在の名称である一般国道48号に改められた。
現橋直下から眺める旧橋。
どうやっても視界から隠れない、巨大ホテルを背景に。
橋の上に欄干が全く存在しないことが、シルエット上の最大の特徴になっている。
その実態は、このあとの橋上探索にて確かめよう。
…と、ここまでで谷底での撮影を終えていれば、靴を濡らす必要は無かったのだが、
ホテルが背景に入らない、下流側から新旧の橋を重ねて撮影しようとすると、どうしても、
普通に登山靴は濡れる事を受け入れざるを得なかった。そして、受け入れた!
赤と緑の好対照を見せる、湯渡戸新旧二橋景。
しかし、おそらくこのアングルから対比されることを想定していない二橋だけに、
現代の設計者がしばしば試みるような、形式をアーチ橋で揃えるとか、
そういう意図的な調和や対照が図られた様子はない。
そこにある赤と緑の好対照も、全く偶然の産物であり、
片方は生きた橋の更新され続けている塗装の色であり、
片方は死んだ橋の野晒され続けてきた鋼材の錆である。
この上流に作並温泉があるので、見た目ほど(水質が)水遊び向きではなさそうだが、
いぶし銀の旧橋を観賞するためだけに谷底へ下ったとしても、きっと後悔はしない。
次回後編では、この旧橋を渡る模様をお伝えしよう!
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