飯田線旧線 中部天竜〜大嵐間 (序)

公開日 2009.6.18
探索日 2009.1.24

※このレポートは、「道路レポ 静岡県道288号大嵐佐久間線 (序)」の続きです。

JR飯田線は愛知県の豊橋(東海道線)と長野県の辰野(中央線)を結ぶ、全長195kmに及ぶ全線電化のローカル線である。
沿線には赤石山脈などの急峻な山岳地帯にあることや不良地質が多かったため、建設には大変な苦労が払われたのであるが、当初は全線が私鉄として建設されていた事はご存じだろうか。

今回紹介する旧線は「私鉄時代」に建設されたものなので、少々長くなるがその歴史を説明したい。

現在の飯田線の母体となったのは、南から豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の4つの私鉄である。
このうち一番古く全通したのは豊川鉄道(豊橋〜大海)で、明治33年にまでさかのぼる。
次いで豊川鉄道の傍系会社である鳳来寺鉄道が、大正12年に三河川合までを延伸開業させた。
北側については伊那電気鉄道(当初は伊那電車軌道)が明治42年から伊那谷地方の産業路線として辰野から線路を延ばしはじめ、中心都市の飯田までを開通させたのは大正12年である。(終点の天竜峡までは昭和2年開通)

大正12年当時の南北終端となった三河川合と飯田の間は、直線でも60km近い隔たりがあったが、両者の間には古くからの輸送路がまた存在していた。
それは、天竜川である。
天竜峡から佐久間にかけての天竜川は特に鋭く深い峡谷を流れており、これに沿う道は山径が辛うじてあるだけで車道は全く存在しなかったところなのであるが、人の行き来には渡船や通船が、木材などの産物輸送には筏流しや管流し(くだながし)などが近世以来盛んに行われていたのであった。
よって、南北の盲腸線を天竜川沿いに結合させて一本の輸送路にしようという機運は、全く自然に醸成されたものであった。
また、当時早くも天竜川を堰き止めて発電所を建設する動きが民間を中心に出始めており、工事用鉄道としても天竜川に沿った路線は必要になる見通しだった。

そうしたことから、大正11年頃には複数の沿線町村が「三信鉄道」(“三”河川合〜“信”濃国の天竜峡)の既成同盟会を組織している。


民間主導による活発な鉄道建設の動きを当然政府も無視していたわけではない。政府の了解が無ければ新しい鉄道が生まれないのは今も昔も同じである。

天竜川流域は、幕府御料林として名高い天竜杉の産地であり、また久根鉱山を初めとする数多くの金属鉱山があり、さらに天竜川やその支流の豊富な水量は膨大な電力を生み出すものと期待されていたから、沿線人口こそ少ないものの「未開の沃野」たる素質は十分と考えられていた。

大正11年に政府がまとめた改正鉄道敷設法別表にある「予定線」の中に、後の飯田線を含む路線計画が盛り込まれている(右図)。

それらは一般に遠美線と遠信線と呼ばれ、沿線地域にとってその開通は待ち望まれたが、予算不足などから容易に着手されず、特にその中間地点にあたる佐久間一帯では、「国鉄を待っていたらいつになるか分からない」という情勢であった。
それゆえ民間主導による「三信鉄道」の建設は、政府の条件付き了解(国鉄線としても使える規格で建設せよ)を得て進められたのである。

三信鉄道は昭和2年に会社設立となり、同4年に北端の天竜峡〜門島間の建設が始められた、そして間もなく南側からも着工した。
工事は全体67kmを9工区に分け、南北それぞれ2工区ずつを同時に施行するという方法で工事期間の短縮を図ったが、佐久間〜門島間には並行する運搬路が無かったことから、佐久間から大嵐(おおぞれ)付近まで長さ15kmに及ぶ長大な索道を建設して物資輸送を行った。また、やむを得ず舟運を利用することもあったが、重量物の運搬には危険が大きく敬遠された。
付近に人家が全くない場所での工事も多く、大雨などで天竜川がひとたび増水すると現場は完全に孤立して飢餓に瀕することさえあったという。


現在は水没している白神駅付近の線路。橋や隧道が連続している。
 『静岡県鉄道興亡史』より転載
“あばれ天竜”の波濤が岩を噛む地形的な困難は凄まじく、北海道での困難な鉄道工事で手腕を買われていたアイヌ人測量士川村カ子ト(かわむらかねと)率いる手練れのアイヌ人工夫たちが工事に携わった。
また、多くの朝鮮人たちも日本人工夫に混じって危険な現場に駆り出された。
一帯の著しく風化した地盤は落盤事故を多発させ、最終的に7000人いた工夫のうち54人が亡くなっている。
(落石多発は開通後も続き、保安設備が整備されるまで飯田線内で年あたり2000件もの落石事故が発生していた)
また多くは触れないが、資金の払底も極限状態に近く、工事が中断されることも度々であったという。

しかし地域の大意に支えられた執念の工事は、やがて数多くの橋や隧道を未踏の深山に現出せしめていった。
全線67kmに架けられた橋は97本、掘られた隧道は実に171本という膨大な数に上った(延長に占める構造物比52%)。
昭和11年までに南側は大嵐まで、北側は小和田(こわだ)までが開通していたが、着工から8年目となる翌12年8月に最後の大嵐〜小和田間(3.1km)が開通し、中央線と東海道線が伊那谷を経由して一本に結ばれた。

開通後は当初の目論見通り佐久間、伊那地域の大動脈として活躍を始めたのであるが、間もなく太平洋戦争が始まり、昭和18年には国策によって国鉄に買収された。そして「飯田線」と名づけられた。
なお買収費は戦争国債によって支払われたが、戦時中は換金することが難しく、戦後は激しいインフレとなったため、この鉄道に夢をかけた人々の手元にほとんどお金は残らなかったといわれている。




ここまでは全体の流れについて見てきたが、いよいよ本題。
佐久間ダム周辺の路線付け替えについてだ。

前にも少し書いたとおり、佐久間周辺の天竜川を堰き止めて発電を行おうという構想は古く(明治)からあり、「日本の電力王」と呼ばれた福澤桃介が木曽川の電源開発で成功してのち晩年に天竜川中流部(長野県内)に着手した。彼が死去したあとも計画は進み、最初の天竜川本流ダムとして泰阜(やすおか)ダム(堤高50m)が昭和10年に完成。次いで13年にはさらに大規模な平岡ダム(堤高62.5m)の建設が開始された。
これら矢作電力による2ダムは三信鉄道の沿線であり、建設資材の運搬などに路線は最大限に効力を発揮した。

この前後にも同様の計画が多数生まれ、特に深い峡谷が連続している佐久間〜富山間においては、3ダム並立や2ダム並立の計画などが日本発送電(戦時統合による)によって検討されたが、戦争の激化と共に実現には至らなかった。
だが、万古以来の滔々たる天竜は、いまだ出来たばかりの鉄路と共に晩年を迎えつつあったのだ。

昭和26年、天竜川水系は日本発送電から中部電力の管轄となり、まずは戦争で中断されていた平岡ダムを完成させた。
しかし、復興の意気は電気を際限なく欲した。
同27年に「電源開発促進法」施行によって発足した特殊法人「電源開発株式会社」は、戦前に計画された佐久間周辺のダム計画を見直し、3ダム、2ダムではなく、1ダムこそが最も効率的であるとの結論に達した。
そして現在の佐久間ダム地点と上流平岡ダム直下の間の流長33km、138mの標高差を高さ150mという大ダムで受け止めるという計画が生み出された。
このダム高150mは当時世界第10位、もちろん日本1位であった。

昭和27年、本邦における大ダム開発の試金石ともなった佐久間ダム計画が正式に決定した。
しかし、第一の問題は水没補償である。
極めて山深い地域ゆえ水没家屋は(ダムの規模の割に)多くないが、愛知県富山村は村唯一の低平地を失うととなり関連町村では最大の影響を受けた。
また、三信鉄道が完成したのちも、木材の搬出には低コストに済む天竜川の筏流しが盛んに行われていたから、この事業者との間での補償問題も生じた。
さらにダム堤自体が静岡県と愛知県とに跨るが、上流部は長野県に属し、このように3県に跨るダム開発は例が無いことから補償の足並みが揃いにくい問題があった。
それでも工事を急ぐ国側としては「大盤振る舞い」と言っても良い好条件で補償交渉を進めたので、昭和29年の交渉開始から1年間での早期妥結に至った。

これと並行してダム本体工事は昭和28年に始められた。
当初は世紀の大事業として10年はかかると見られていたが、海外からの新技術を豊富に投入するなど国を挙げて建設を進めた結果、僅か3年後の31年には完成、湛水・発電を開始するに至った。

この日本最大のダム計画によって、三信鉄道として完成して20年も経っていなかった国鉄飯田線は、佐久間〜大嵐間の13kmにも及ぶ区間を放棄せざるを得なくなった。
しかし、当然のことながら国鉄としては、国策であるダム工事に関する路線の付け替えには粛々と従うのみである。
この路線付け替えは昭和27年に計画立案され、同年末から工事に着手。同30年11月に予定よりも幾分早く完成し、約17kmへ長大化した新路線を一番列車が通った。

この路線付け替えについては当初から、佐久間と並ぶ人口稠密地であった水窪(みさくぼ)を経由するルートが有力視され、また歓迎もされたのであるが、実は愛知県側を迂回する「大入(おおにゅう)線」も比較検討されたという。
大入線の沿線にはこれといった集落はなく、距離もいたずらに長くなるという謎の比較線(工費も高い)だったが、これは愛知県にも花を持たせるという半ば形式的なものであった。
しかし、最終的には愛知県側も水窪ルートを承認し、現状のルートに決定されたのである。
この水窪線の工事についても、未成隧道を含む様々な案件が生じているが、本稿から逸脱するのでここでは触れない。




  …ふぅ。

幻の「おおにゅう線」よろしく、いたずらに文字数の多い前説になってきた。
そろそろ結したいとおもう。


 で、どこか残ってるの?


ぶっちゃけ、私の興味はそこに尽きるのである。




ずばり何らかの遺構の現存が期待されるのは、ダム下流の 1.中部天竜駅付近 と、新線合流地点である 2.大嵐付近 のみである。

前述の通り、佐久間湖の満水位は138mもあり、13.7kmある旧線の9割以上はこれよりも低いのである。
しかし、当然ダム水位には変動があるので、少しでも水位が低い時期を狙って探索することでより多くの成果を得られる期待があった。
とはいえこれは、ある程度の運も絡んでくる要素である。

この旧線跡を採り上げている『鉄道廃線跡を歩く 6』によれば、県道288号大嵐佐久間線の「夏焼隧道」は旧線の鉄道隧道を再利用したものであるというし、その下流に連続する隧道群も、渇水期には湖面すれすれに見えるらしい。

だが同書を含め、ネット上に多数ある訪問記録においても、「夏焼隧道」や「対岸水面すれすれの隧道群」という絵は出てきても、この水面すれすれの旧線路盤を“歩いた”ものはほとんど無い。


その理由は簡単で、
旧線に沿う左岸側の県道288号が、道路崩壊のため通年通行止めであるためだ。


しかし、今回の私は県道288号の踏破を目指す。

これはチャンスだ。


「湖面すれすれの隧道群」をこの足で辿る、またとないチャンス!



20年にも満たない期間とはいえ、道無き山河に燦然と輝いた文明の通路。
その痕跡を群青の水面に探し歩くことは、県道288号踏破における最重要なサブミッションとなった。




参考文献:『鉄道廃線跡を歩く〈6〉』 『静岡県鉄道興亡史』 『日本鉄道旅行地図帳 7号 東海
『三信鉄道建設概要』 『飯田線中部天竜大嵐間線路付替工事誌』 ほか



この旅は、佐久間駅から始まる。