廃線レポート 池郷川口軌道と不動滝隧道 第1回

公開日 2023.03.27
探索日 2023.03.16
所在地 奈良県下北山村


私は以前、電子同人雑誌である【日本の廃道】のレギュラーメンバーとして、2005年から相当長い期間にわたって執筆を行っていたことがある。
当時、同誌の編集長であり、もちろん【オブローダー】「オブローダー」という語も、同誌の立ち上げにあたって彼と私が中心になって生み出した造語だったの第一人者でもある永冨謙(nagajis)氏とは、一緒に探索を行ったことは数えるほどしかなかったが、彼一流の筆致で描き出される主に西日本の廃道レポートは、東日本で活動していた私にとっては未知の世界がとても刺激的に見え、いずれは自分の足で歩き、この目で見たいと思う廃道がいくつもあった。

今回皆さまに紹介するのは、かつて永冨氏が“発見”して『日本の廃道』で発表した、偉大な探索の成果を追体験することを主として、わずかながら未解明と思われる部分に立ち向かおうとした私の記録である。
具体的な探索の対象は、永冨氏が「池郷川口軌道」という表題で『日本の廃道 2012年10月号(第78号)』に発表した軌道跡と、それに関連する林業の遺構だ。

もっとも、この路線名は仮称であり、正式名といえるものが別に有ったとしても、それは未だ判明していないし、私もこの部分で新たな調べを起こそうとは考えていない。ここでの体験の重要なテーマは、名前にはない。しかし、この路線名で検索してヒットする情報があるとしたら、それは永冨氏の“発見”を起点としたものである可能性が高いと思う。それほどまでに、この軌道の一次資料は少なく、永冨氏の発表が果たした役割は大きい。

《周辺地図(マピオン)》

探索の舞台は、紀伊半島の大部を占める紀伊山地の奥地、奈良県の南端に近い吉野郡下北山村を流れる池郷川(いけごうがわ、熊野川水系北山川の支流)の畔である。

池郷川で検索すると、ゴルジュというワードとセットで、沢山の“沢や”の人たちの活動記録がヒットするはず。ここは深淵ゴルジュの規模や数量においては日本屈指とされる美渓の地である。 とはいえ、岳人たちが命がけで躍動する領域はこの川の奥地であり、一方私たちオブローダーが探ろうとしているのはずっと入口に近い、右の地図に赤色の鉄道記号を描いた辺りである。
このような立地を根拠に、彼はここを池郷“川口”軌道と名付けたのではないかと思う。

見ての通り、短い軌道であり(おそらく全長700m程度)、特筆すべきシーンがあるようにも思えない地図上の姿だと思う。
そもそも、もとの地理院地図にはこの道は全く描かれていないし、古いものにさかのぼっても同様で、この軌道は一度も地形図に描かれたことがない。もし一度でも描かれていたら、こんなマイナーなはずもない。

彼がこのマイナーな軌道を“発見”した経緯についても、かいつまんで紹介しよう。
全ての始まりは、ある経緯で入手した2枚の古い絵葉書だったらしい。
その絵葉書は、「笹川商店林業部」が発行したもので、いずれも表題に「池郷山」という地名が入り、見知らぬトロ軌道が写っていた。
そこから興味を引かれ、池郷という地名をもとに調べを進めていくと、どうやら下北山の池郷川沿いには、明治末か大正時代といったかなり早い時期から、民間の製材所が設置した軌道が複数存在していたことが分かった。ここまでの内容は、『下北山村史』などに短い文章ではあるが記載があった。
笹川商店林業部についての情報は見当らなかったものの、同社が絵葉書を残した軌道も、そうした池郷川沿いの民営林用軌道の一つではなかったかと彼は考えた。

そしてここに新たな情報が加わり、探索への意欲が高まった。
永冨氏の探索仲間でベテランの沢やでもあるmasa氏が、かつて沢歩きで訪れた池郷川の林用軌道跡には長い隧道があったという記憶を、彼に話したのである。
このことで、絵葉書の軌道と同一のものであるかは不明ながら、とりあえず池郷川には確かに軌道跡が存在していて、しかも長い隧道があるという、具体的な探索を志すに十分な魅力的情報となった。

平成24(2012)年8月23日に、彼とその同行者である磯田氏が現地探索を行い、先ほどの図に描いた位置に軌道跡を見事に発見。
さらにその上流の“不動滝”の近くで、masa氏が沢登りの最中に出会ったものと同一と考えられる、全長100m超級とみられる廃隧道をも発見した。
余談だが、私は当時その探索の模様をレポートとして読んで、そこに著わされていた光景のあまりの凄まじさに目を剥いた記憶しかない。

発見された軌道跡の全体量としては、当初彼が想定していたよりもかなり短いものでしかなく、絵葉書の場面との一致についても、確たる証拠は得られなかった。(だからこの軌道は仮称のままなのである。もし絵葉書の軌道だと確定すれば、「笹川商店林用軌道」と呼ぶべきだろう)
また、確かに存在していた廃隧道(これが本当に凄まじいんだ…)との位置関係も、果たしてそれが軌道の一部を構成し得たかは大いに疑問が残るモノだった。隧道が発見された「不動滝」は、軌道跡として明確に辿ることが出来た地点よりも些か上流に離れて存在していたからである。

ともかく、現地探索によって軌道跡が発見され、隧道跡も見つかった。
素晴らしい。
だが、この話はそれで終わらなかった。
彼は、探索直後に現地の上池原集落で聞き取り調査を行い、そこで下北山最長老なる御年97才という住人から4時間にももわたって証言を引き出すことに成功。
その長老が語った内容がまた凄まじく、永冨氏は印象をこうまとめている。

軌道ではなく水路の隧道だったわけだけれども、かえって希少性の高い土木構造物だとわかり、それがいちばん「興奮した」。トロッコ軌道に隧道があるのは、いわば当たり前のことで、珍しくも何ともない。そうではなく、この場所、この谷を克服するための、ここでしか見られない創意工夫だったのだ。あの隧道は。

『日本の廃道 2012年10月号(第78号)』より

証言者が子供のころ、すなわち90年ほど前であるから大正末から昭和初期頃には、池郷川の川辺の「トチノキダイラ」という場所に製材所があり(会社名不明)、そこから池郷橋のあたりまでトロッコが通っていた。(この軌道跡を永冨氏たちは発見探索した)

池郷川の上流奥地で伐採をし、製材所まで原木を川に流して運んでいたが、不動滝をそのまま流すと、流れの曲がった部分で引っかかってしまうので、滝を迂回する「ハコドイ」を別に通して流していた。(ハコドイについては、私のレポートの本編で改めて触れる)

その「ハコドイ」の代わりに隧道が作られた。隧道に水を導き入れ、一緒に材木を流した。隧道が作られた時期を長老は覚えておられなかったが、永冨氏はいろいろな根拠を挙げて、昭和4年頃と推測した。

以上のようなことが、軌道や隧道について証言された内容だった。

永冨氏の「興奮した」が、私にもよく分かる。
確かにこれは興奮する。
ある意味で“普通の林鉄の隧道”と想像していたものが、実際はそうではなく、滝を迂回して材木を流送するために作られた“水路隧道”だったというのである。 それが、全国的に見ても貴重な“林業遺構”であることは間違いないはず。

当サイトの読者諸兄の中には、この話を聞いて、十津川村の芦廼瀬川上流にある、河中の巨石を貫く不思議な隧道のレポート(七泰の滝の下の謎の穴)を思い出した人がいるかも知れない。私がそこを探索したのは2020年であり、永冨氏の探索よりもだいぶ後だが、私は芦廼瀬川で、おそらく木材流送の為に掘られたとみられる隧道を探索している。
十津川村と下北山村は、かの有名な“酷道”425号白谷隧道で結ばれる、同じ熊野川水系の隣り合う山域である。直接的な交通の繋がりは、山が険しすぎて昔から乏しかったが、林業を主とする文化については共通点の多い地域である。

私は、2012年の彼らのレポートをひと目見た時から、いつかは自分もこの池郷川口の不動滝にある隧道を見てみたいと思っていたが、紀伊半島の奥深さは一朝一夕に北山の奥地に私を誘うことがなく、2013年の最初の紀伊半島での探索(高野山や矢ノ川峠に行った)から、10年目にしてようやく到達した。それがこのレポートだ。

私としては珍しい、他の探索者の追体験に重きを置いた内容で、大部分の先を知った状態で書くことになるが、一つだけ、新たな挑戦への野心を持って臨みたい。
それは何かというと、永冨氏たちは件の隧道の上流側の坑口を目撃することが叶わなかった。
なぜなら、隧道が閉塞していたためである。

その“閉塞”の模様がまた凄まじくて、永冨氏が(らしからぬ)下品な超ドデカフォントで「のわーっ!!!」と叫んである。
私としても、その“閉塞”を見る事もまた大きな楽しみであるのだが、そのために辿り着けなかった上流側の坑口への到達を、私の“最終目標”としたい。



いかがだろうか?

皆さまの興味は刺激されたであろうか?

敢えて、冒頭の地図1枚の他は画像を使わず文章だけで説明してみた。

だからまあ、皆さまの興味の高まりというか、期待感はたぶん、“そこそこ”なんじゃないかと思う。



……現地見たら、ぶっ飛ぶぜ、マジで……。




旧池郷橋越しに臨む、池郷川口の風景。

ここから軌道跡は始まり、約700m先で終わる。

不動滝“流材”隧道は、さらにその300mほど先に存在する。


いざ、参る!



 新発見よりも、彼が見た奥地の景色を早く見たい!


2023/3/16 15:09 《現在地》

上池原集落内にあるこの味わい深いポニートラスが、池郷川の川口(北山川との合流地点)を渡る池郷橋の旧橋だ。左岸から右岸を見ている。現在の国道425号池郷橋の隣にあり、現橋が昭和52(1977)年竣工なので、それまでメインに活躍していたのだろうが、旧橋の竣工年は現地の親柱に情報がなく、さらに机上調査でも分からなかったので不明。いずれにしても古い橋ではあろうが、今も重量制限など受けることなく立派に生活道路として働いている。
階段状に積み上げた石の塔のようなデザインをした親柱がオシャレだが、これは池郷川の上流にある景勝地「石ヤ塔」をモチーフにしたものかも知れない。

今回の探索ターゲットである池郷川口軌道と、池郷橋の関わりだが、永冨氏が聞き取りをした長老によれば、彼が幼少の頃目にしたトロッコは、「池郷川に沿って、トチノキダイラと“池郷橋のあたり”を結んでいた」という旨の証言があり、おそらく起点はこの辺りにあったと考えられる。
具体的に「ここ!」という跡地は定かではないけれど、現在の池郷橋周辺に利用されていないような空き地はほぼないので、当時のモノが残っていることも無さそうである。



旧池郷橋から池郷川の上流方向を撮影した。

透き通った川の流れが、岩がちな川幅をいっぱいに満たしていたが、景色の印象は穏やかで、これが恐ろしい深潭のゴルジュを無数に流れ下ってきた末流だというのなら、牙の全てを途中の淵に置き去りにしてきたのだろうと思えた。一人の釣り人が、堰に立って竿を垂らしており、まさに平穏を絵に描いたようだった。

軌道は、この川に沿って上流へ通じていた。
向かって左の右岸に沿って、軌道跡と目される道が存在している。
これからそちらへ向かうわけだが、その前に、この橋から見た池郷川の谷の風景には興味深い“仮説”があるので、完全に永冨氏の受け売りだが、ぜひ紹介したい。

彼が、この地の探索を行う最初のきっかけが2枚の絵葉書だったという話を最初にしたが、そのうちの1枚は、ここを写しているのではないかという仮説である。




『日本の廃道 vol.78』より

これが『日本の廃道 vol.78』から引用した、貴重な絵葉書の画像だ。

セピア色の写真の下に、「大和国吉野郡池郷山並川中土場ノ一」「笹川商店林業部」という文字が印刷されている。撮影年はわからないそうだ。

「池郷山ならびに川中土場」という表題から、これが池郷山の川中に設置された土場であることが想像できるわけだが、確認されている「池郷川口軌道」の沿線で、この景色に一致する可能性が最も高いのはここであろうと、永冨氏は書いておられる。

スイッチバックを描きながら谷底の低地に下りる道には、確かにレールが敷かれている。そして谷底は所狭しと並べられた膨大な木材に占拠されている。川の水はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
ともかく、確かにこの場所とは地形が似ている気がする。古老の証言(池郷橋の辺りが起点)とも合致する。

慎重な永冨氏であるから、証拠がないこともあって断定は避けているが、ここがまさしく絵葉書の場所だとしたら、池郷川口軌道の運用者は極めて高い確率で絵葉書の発行人である笹川商店林業部ということになろうから、路線名も笹川商店林業部軌道となるだろうか。



これより、軌道跡の探索をはじめる。

旧池郷橋の袂は十字路になっており、直進の道はすぐ行き止まり(通行止の表示あり)だ。川沿いに軌道が通っていたとすると、この十字路の左右の道がともに軌道跡ということになりそうだが、前記した絵葉書の通り、軌道の起点が池郷川の川底にあったとしたら、ここは軌道跡ではないかもしれない。

この辺の細かな真相を、ぱっと見の風景から私が判断できるとは思えない。この軌道が活躍した時期は、大正から昭和前半頃までと考えられており、全く手付かずの山の遺構ならばまだしも、人手が絶えず加わっている街中の景色から、そんな昔を読み解くのは無理がある。

チェンジ後の画像は、十字路で左を向いて撮影した。
すぐ先に現国道の池郷橋があり、その袂でこの道は国道と合流して終わっている。
特に軌道跡を窺わせるものは見あたらない。
期待薄の人里を離れ、さっさと山へ向かうとしよう。実はこの探索もスタートが遅めだ。



15:10 《現在地》

旧池郷橋前の十字路を右折すると、直ちにこの風景が目に飛び込んでくる。

分岐――、右の道の細さよ!  こいつは軌道跡っぽい!!

……まあ、このくらいの「ぽさ」の道が全て本当に軌道跡だったら、日本中“跡”だらけになってしまうだろうが、とてもそれっぽい感じを受ける小径だった。

そんな小径と比べればずいぶん広い道と見える左も、実は運材トラックがギリギリ通れる程度の1車線道路でしかない。
こちらは昭和45年に全線開通した白谷池郷林道という県営林道で、6kmほど奥の「石ヤ塔」という景勝地までは村道化されて一般車両も通行できる。池郷川上流部への唯一のアプローチルートでもあるが、決して良い道ではない。写真にも看板が見える「石ヤ塔」も、観光地というよりはロッククライマーのゲレンデとして知られているようだ。




さあ行こう!

一応舗装されてはいるが、そのせいで余計に狭さが強調されている。
軽トラのモノらしき轍が見えるが、既に両側の草地ぎりぎりの幅である。
この道が最初から現代の自動車を念頭に作られたわけではないと思わせる狭さだった。
加えて、ほとんど水平に見える勾配の緩やかさも、いかにも軌道跡っぽい。

さっきの絵葉書の左上に見えた、「ここも軌道?」と注記したラインが、この道の位置か?



この辺りの道は、一応最新の地理院地図にも軽車道として描かれている。
先の絵葉書の場所がここだとしたら、この川沿いの道から外れて谷底の土場へ下るスイッチバック線があったと思うが、それらしい形跡は発見できなかった。
さすがに時間が経過しすぎているし、紀伊半島の山や谷が災害級の出水にいたぶられるのは数十年単位だと珍しいことではないので、低水域に古い遺構を見出すのはまず無理だろう。それこそ、芦廼瀬川のあの隧道くらい巨大なものでなければ…。

前方左側に建物が見える。これは小又川水力発電所の建屋で、平成5(1993)年から稼動する珍しい下北山村営の発電所だ。従来は近隣にある村営の下北山スポーツ公園へ送電していたのであるが、令和元(2019)年からはコープエナジーなら社との契約により同社が強化改修を行い、現在は発電した全量を売電して村の収入にしているそうだ。(現地解説板

その名の通り、小又川という川の水を利用した小規模水路式発電所なのだが、小又川は池郷川の支流であり、ちょうどこの発電所の建物の脇に注いでいる。軌道跡とみられるこの道も、橋を架けて小又川口を渡っている。



軌道跡らしき道に架かる、いかにもな感じの細い橋。
親柱に銘板があり、「小又谷」に架かる「小又谷橋」ということが分かるが、竣工年の銘板はない。
だが別の資料に拠れば、この橋の竣工年は昭和41(1966)年で、路線名を村道池郷線支線1号という。村道池郷線は先ほど別れた白谷池郷林道の村道化後の現路線名なので、その支線という扱いでこちらも村道になっているらしい。

狭いけれども普通のコンクリート橋であり、竣工年からしても残念ながら軌道由来の橋ではない。




橋の上には、「お願い」と題された、こんな看板が立っている。

お 願 い
池郷川の一部は県の許可を受け下北山スポーツ公園で維持管理しています。御利用については左記へお問いあわせください。 下北山スポーツ公園 電話五−二七一一

電話番号の表記からして、実はなかなか年代物の看板なのだと思うが、看板の内容が、この場所にあって何を言いたいのか、よく分からない。
池郷川の一部を下北山スポーツ公園が維持管理をしているから利用したい場合は問い合わせろとのことだが、具体的に川のどの“一部”をさしているかが分からないのである。まあ、軌道跡とは関係ないかな……。



15:15 《現在地》

一方こちらは、小又谷橋から小又川の上流方向を撮影したものなのだが――

お! おい!!

なんか見えるぞ!

(→)
これは永冨氏の報告にはなかったと思うのだが、現在の小又谷橋の20mほど上流の右岸に、旧橋の名残らしい石組みの橋台が残っているのを発見した!

氏の探索は2012年8月なので、おそらく手前の枝葉に隠されてしまい、橋の上からは全く見えなくなっていたものと推測される。
しかも、この旧橋台らしき場所へ通じる(おそらく)旧道は、橋の両側とも現道との分岐を判別しがたい状態だった。

はっきりと橋台らしきものが見える向かって左の右岸側は、発電所の敷地が邪魔をしていて接近困難である。
残る左岸側は樹木が邪魔で橋台の存在が確認できず、そこへ至る道の入口は、まもなく述べるように、とても分かりづらかった。

古い橋台の正体が軌道由来かは分からないが、とりあえず近くへ行ってみよう。
見えている場所(右岸の橋台)へ立つのは、発電所が邪魔で難しい(川底へ下りれば可能だろうが探索の序の口であまり盛大に時間を使いたくない)ので、ここからは樹木に隠れて見えない左岸の橋台を探しがてら、左岸からアプローチしてみることに。






村道の小又谷橋を渡った先は、45度の屈折で陸に取り付いており、その奥は段々畑ならぬ段々お墓となっている。
村はずれの川べりという寂しげな場所であり、間近に迫る夕暮れの中で些か幽気を漂わせているが、今の私に神も仏もあったものか。
気になるのは、軌道跡かもしれぬ旧橋台のことである。

この橋詰、特に旧道との分岐があるようには見えない。




地形的に、分岐があるとすればここしかあるまいという場所は、墓所の塵捨場が占めている。

そこで気を決し、傍らに生い茂る枝葉にゴイゴイと腕を押し当てて侵入すると……!




そこには、旧道と思しき道の跡があった!

藪が濃いのは最初だけで、森に入ると思いのほか鮮明な道形が残っていた。
レールや枕木など、軌道由来と断定できるアイテムは何もないが、道幅や勾配の感じに違和感はない。
すぐ先に例の橋台もよく見えている。
橋台が真っ正面に来る位置まで進んでみよう。



う〜〜ん! こうして近くで見ると、ますます軌道由来っぽい外観だ。

おそらく現地調達だろう玉石を谷積みで上手く積み上げてある。
結構な高さがあるが、少しも欠けたところがないので技量は上々。
上部には橋桁を置く段差があるが、その厚みがかなり大きく、
ヒョロくない太い材を使った木橋が架かっていたことを想像させた。
仮設的な構造物ではなく、長期にわたって利用する意図があったと思う。

まあ、どんなに林鉄っぽい橋台があったとしても、レールや枕木が敷かれていない以上、
軌道跡との断定は出来ない。永冨氏なら間違いなく慎重な判断を下すだろう。
また、今の橋は昭和41年竣工らしいが、もしその直前までこの旧橋が現役だったとしたら、
その時点では間違いなく軌道の橋ではなかったとも思う。軌道の廃止はずっと以前だろうから。

なお、足元の右岸側には、どういうわけか橋台はなかった。崩れて消えたのだろうか。



15:17 《現在地》

予期せぬ発見は嬉しいけれど、今日の私は生半可程度の新発見よりも、永冨氏が報告した超絶アチーーーーー!!!!風景たちを追体験することに、より万全に時間を使いたい気持ちが強かった。
なのでいつまでも人里近くで生半可な新発見と戯れては居られない。早く奥地へ、そう遠くはないが確実に存在する奥地へ足を運びたい!

そんな気持ちで村道へ戻って進むと、墓地を通り過ぎると同時に舗装路が終わっていた。
氏のレポートでも見覚えがある、車道の終点。地理院地図に描かれた軽車道の終点でもある。
駐車スペースの向こう側に、今まで以上に狭い一筋の土道が見えている。

村はこの先の通行人として釣り人を想定しているようだが、俺も突入する。少しでも時間短縮のため、チャリのままな!



予告する。


軌道跡は残りたったの450m。

そして、

驚愕の不動滝まで残り750m!