《周辺図(マピオン)》
平成24(2012)年6月に探索し、翌年に公開した隧道レポート「秋山郷の切明隧道(仮称)」で紹介した、中津川発電所工事用電気軌道を覚えておられるだろうか。
以前の探索では、切明隧道前後の短い区間(約2.5km)を取り上げているが、今回は表題の区間の探索を新たに行ったので紹介したい。
その前に、この軌道の沿革について、『津南町史 通史編下巻』をもとに説明しよう。
大正初期に、信濃川支流中津川の豊富な水量と落差に目を付けた信越電力株式会社が、水路式発電所である中津川第一および第二発電所の建設を計画し許可を得た。この工事にあたって、建設資材を輸送するべく、中津川沿いに軌間762mmの電気軌道が敷設された。
右の図は、町史掲載の図をもとに作成した路線全体図である。
路線は、現在の新潟県津南町の中心部にあった信濃川の陸揚港を起点に、第二第一各発電所の予定地を経由して、導水路の取水口が置かれた現在の長野県栄村切明へ至る約30kmの本線と、途中の結東原(けっとうはら)で分岐して、信越電力の親会社である東京電燈が出資する飯山鉄道(現在のJR飯山線)の終点宮野原へ至る支線からなる、総延長約47kmにもおよぶ日本屈指の規模を誇る工事用電気軌道であった。
極めて嶮岨な地形を克服すべく、全線に4箇所もの「巻揚機」(インクラインのこと)があり、索道で連絡する箇所もあったとされる。
芦ヶ崎地内を走る電気機関車(『津南町史 通史編下巻』より)
軌道の敷設工事は発電所工事に先駆けて大正10(1921)年に着工し、翌11(1922)年1月に最初の開通区間である釜落し〜反里口(そりぐち)間が落成した。それから急ピッチに奥地へと延伸され、従来は近代交通手段を全く持たなかった“秘境秋山郷”に、“電車”が入り込み、巨大な発電施設を続々と出現させていった。
起点付近の第二発電所は大正11年11月に運転を開始、穴藤(けっとう)の第一発電所も大正13(1924)年9月に運転開始し、一連の工事はわずか4年足らずで完遂された。当時としては画期的な首都圏への長距離高圧送電にも成功し、同社を躍進へ導いた。
後にこれらの発電所は東京電力の所有となり、現在は関連会社である東京電力リニューアブルパワー株式会社が運用を続けている。
工事用電気軌道だが、大正13年の工事完了後、地元の足として活用されることはなかった。
使い方次第では、秋山郷を観光地として飛躍させる黒部峡谷鉄道の役割を果たせたのかもしれないが、50km近い電気軌道が、たった4年のうちに現れ消えたのである。
……こんな軌道のストーリィを知るだけで、ワクワクどきどきが、とまらない。
こんなにも古い、しかも最長で4年しか使われていない軌道跡は、100年近く経った今日、どんな姿をしているのか。
これに回答できる経験を持っている人は、なかなかいないと思う。
確かに、切明隧道の探索でもこの軌道跡の一端を垣間見たが、あそこは少し例外的だった。
なぜなら、以前のレポートでも書いたが、あそこは昭和30年代まで道路として転用されていたので、純粋な意味での廃線跡とはいえなかった。
ならば、どこに行けば純粋な工事用軌道の廃線跡を見られるか?
2012年の探索後、いくつかの候補が私の中には生まれていた、今回探索したのは中でも有力な候補だった、反里口〜穴藤の間である。
なぜここを選んだのかについて、次の地図をご覧いただきたい。
右図は、軌道の時代からはだいぶ後の昭和26(1951)年応急修正版の地形図である。
等高線と河川と道がごちゃごちゃしていて分かりづらいので、いくつか重要な部分を着色している。
これをご覧いただきながら次の説明を読んで欲しい。
この軌道が、あくまでも工事用軌道という仮設のものであったからなのか、それとも単純に極めて短命であったからなのか、おそらく後者を理由として、歴代の地形図に一度も描かれなかったという点に、大きな特徴と探索の難しさがあった。
これまで『町史』を始めとする様々な文献にもあたってみたが、先ほど掲載した程度の大まかな地図はあっても、詳細なルートを解説した地図は見たことがなく、探索においてもある程度まで自力で軌道位置を予想して臨む必要があった。
反里口〜穴藤間については、ここに掲載した昭和26年の地形図におそらく軌道跡と思われる道(赤線でハイライト)が描かれており、他の区間よりも位置を予測しやすかったうえ、なんといっても途中の3箇所にトンネルの記号が書かれている(@〜Bの矢印の位置)ことが、興味を引いた。
しかも、一番北側のトンネルは相当に長く(500mくらいある?)、そのうえ地形図ではあまり見ない変わった表現がなされている。
この1本のトンネルを、実線の道(赤色)と破線の道(黄色)が、共用しているように描かれているのである。
地形図の凡例に照らせば、実線は軽車道、破線は徒歩道であるが、この2つの道が非常に近接しながら並走している状態は、いかにも“軽車道は軌道由来”だと教えてくれているようではないか!
そのうえ、現在の地理院地図(チェンジ後の画像)を見ると、この川沿いの道は半分ほど消滅しており、2本目と3本目のトンネルがあったらしき南側区間は特に険しい峡谷の縁に呑まれているように見える。
まさに探索のやり甲斐は十分という印象を受けたので、私はこの区間を、探索候補地として、ずっとピックアップしていた。
……が、なかなか探索へは行かなかった。
情報があまりない中で険しい地形で探索することを恐れたのもあるし、机上調査で有力な情報を得てから満を持して探索したいという狙いもあった。
本当にサボっていたわけではなく、机上調査での成果もいくらかはあった。
『新潟県の廃線鉄道』より
中津川・穴藤に残る旧発電所工事専用線のピア(津南町・昭和58年10月24日)
専用線の軌道は穴藤集落の北側で中津川を渡っていた。工事用の軌道用としては素晴らしく頑丈にできていたピア(橋脚)、河原にビクともしないで残っていた。
上記文章および右の画像は、郷土出版社が平成12(2000)年に出版した大型本『新潟県の廃線鉄道』からの引用である。
同書に「中津川の発電所工事の資材輸送電気軌道」というタイトルでこの軌道が取り上げられており、以前探索した切明隧道の坑口跡の写真と、初めて目にするこの立派な橋脚跡の写真が、上記キャプションと一緒に掲載されていたのである。
思いのほか立派な橋脚であったことと、それが(昭和58年の時点で)現存していることに驚いた。
そして意外だったのは、下線を引いた部分の既述だ。
「軌道は穴藤集落の北側で中津川を渡っていた」というのは、私が昭和26年の地形図で軌道跡との当たり付けていた軽車道(昭和26年の地形図に赤線で示したルート)にはなかった挙動なのである。
果たして、旧地形図の軽車道の正体は何なのか。
もしかしたら、知られざる支線があったということなのか。
いろいろと疑問が出て来たが、実際に現地へ赴き、この写真の橋脚を発見し、その先にも軌道跡を見出し、それを忠実に辿っていくことが出来れば、疑問の多くは解決できるであろう。
そのように考えた。
ちなみに、『新潟県の廃線鉄道』に掲載されていたこの軌道の遺構は、切明の隧道と穴藤の橋脚の2点のみで、他に遺構があるかどうかは不明であった。
したがって、昭和26年の地形図に掲載されていた3本のトンネルが本当に軌道由来であって、うち1本でも現存していれば、素晴らしい発見になるだろう。
……が、それでも私は探索へ行かなかった。
さらなる詳細な文献を探し求めつつも、次第に時間が経過してしまい、他の探索に現を抜かし、うっかりこの軌道のことを忘れたりもしていたのだが……
ズガガガガーーーン!!!
2019年11月20日、脳天直撃の落雷を食らってしまった。
ヨッキ様
いつも楽しませていただいています。popと申します。
もうご存じの案件かもしれないので情報提供になりますかどうか分かりませんが、興味を持って頂けたら幸いです。
信州秋山郷の「切明隧道」のレポートを拝見して、30〜35年ほど前、子供だったころに聞いた話を思い出しました。
この中津川第一発電所工事軌道(電車道)にはほかにもトンネルがあります。
場所は秋山郷の入り口にあたる反里口集落から西側、中津川沿いです。
当サイト読者で、地元出身者のpop氏から、突然の情報提供メールであった。
「これって、どこの話だっけ…?」
なんて最初呆けていたが、「反里口」という地名を聞いて、急に思い出してきた。
あれ? これって前に調べていたとこじゃないのか…! あ そ こ に
トンネルが、ある、だと!!
同じ工事軌道上なので当然なのかもしれませんが、このトンネルにまつわる話も切明隧道によく似ていて、このトンネルも工事が終わった後は雪中トンネルとして利用されたこと、また、怖いところでもあるとも聞きました。(切明隧道のレポートにあった怖いところの現場は、むしろこちらなのではないかと思っています。)
切明隧道のレポートを読んだ時には、子供のころに聞いたトンネルの話はこれだったのか!と感激したのですが、後から色々と思い出したり自分でも調べたりしているうちに、どうやら別物であると考えるようになりました。
私は地元を離れており、実際に見に行くこともままならずもどかしくもありましたが、最近になって例のスタンフォード大学の地形図(※)に描かれているのを見つけて、ようやく場所が特定できたことと、今年4月末に久しぶりに墓参で帰省したので、生まれて初めてオブローダーの真似事をしてみました。時期も良かったんだと思います。雪も草も無く、10分ほどで見つけることができました。北口の写真を添付いたします。
マジだったーーー!!!
探索開始から10分で見つかるところに、私が求めていたブツがあったというのか!!
ちなみに、pop氏がトンネルの位置を特定するために見たスタンフォード大学の地形図というのは、スタンフォード大学のサイトで公開されている日本の旧地形図のことで、この地点を含む「苗場山」の図は昭和6年要部修正測量版を見ることが出来る。
その内容は、今回関係する部分について、先ほど掲載した昭和26年応急修正版と全く同一である。
つまり、pop氏は私と全く情報源から軌道跡のトンネルを探しに行き、見つけ出したということになる。
ノロノロしていたせいで、自分で見つけ出す瞬間の悦びを失してしまったが、悔しい以上に、嬉しかった。
まずは、ずっと懸案だったトンネルが、現存していると確認ができたこと。そして、それを親切に教えて下さったこと。
どちらも嬉しくてたまらなかった。
羽虫はすごいし勇気はないしで、中には入れませんでした。
水蒸気が多く、風も感じられなかったので、閉塞しているのかもしれません。
太陽の角度が悪くて入り口のほんの少ししか見えませんでしたが、こんなトンネルを100年近くも前に電車(!現役のJR飯山線ですら電化されていないのに…)が走っていたと考えると、とても感慨深いものがありました。トンネルの前は軌道跡の平場がずっと残っているのも見えました。
南口については、残念ながらこの先の道路が通行止めのため確認できませんでした。
地図通りでしたら南口は500mほど先の取水施設(牛首工=うしくびこうと呼ばれています)の上あたりになるはずですが…。
私の仕事が、まだあるようだ。
このこと自体は探索者として喜ぶべきことかもしれないが、閉塞を疑わせる印象や、道路が通行止で南口へ近づけなかったという情報は、私にとっても大きな不安材料である。
しかも、探すべき対象は、このトンネルだけではない――
南口の状況はもちろんですが、気になっていることがもうひとつあります。
このトンネルの先に、トンネルが少なくとももうひとつあるのではないか、と考えています。
と言いますのも、「トンネルとトンネルがあって、その間が云々(怖いところだ)」と家族が話しているのを聞いたことがあるからです。
私の大叔父は郷土史や昔の道について造詣の深い人で、この工事軌道についても興味をもって調べていたようです。
大叔父自身は昭和の生まれのはずなので、実際に電車が走っているのは見たことはないはずですが、雪中トンネルは通ったことがあると言っていたような気がします。また、身内にも事あるごとに色々と話をしていたようで、折々に身内からも話を聞くことがありました。
大叔父ももちろんですが、私にこの「電車道」にまつわる話をしてくれた身内は、もうほとんど亡くなってしまっています。
探索にはよい季節となりましたが最近の天候は荒れ気味な気がします。どうぞくれぐれもお気をつけください。
トンネルは、複数あった可能性が高いと私も思っている。
それにしても、このトンネルを最初に見つけ出す資格というものがあったなら、私ではなくpop氏に軍配が上がったのも納得と思える行動力かつ、当事者感満載の体験をお持ちである。
そんな人物から、無償の情報を受け取る重みを、噛みしめながら……
今度こそ、探索へ行く!
日本一の豪雪地である津南町、その遅い雪解けを待ちきれないくらいに待って――
2020年5月9日、私は穴藤(けっとう)の朝を迎えた。