廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第1回

公開日 2021.07.28
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町


《周辺図(マピオン)》

平成24(2012)年6月に探索し、翌年に公開した隧道レポート「秋山郷の切明隧道(仮称)」で紹介した、中津川発電所工事用電気軌道を覚えておられるだろうか。
以前の探索では、切明隧道前後の短い区間(約2.5km)を取り上げているが、今回は表題の区間の探索を新たに行ったので紹介したい。
その前に、この軌道の沿革について、『津南町史 通史編下巻』をもとに説明しよう。

大正初期に、信濃川支流中津川の豊富な水量と落差に目を付けた信越電力株式会社が、水路式発電所である中津川第一および第二発電所の建設を計画し許可を得た。この工事にあたって、建設資材を輸送するべく、中津川沿いに軌間762mmの電気軌道が敷設された。
右の図は、町史掲載の図をもとに作成した路線全体図である。

路線は、現在の新潟県津南町の中心部にあった信濃川の陸揚港を起点に、第二第一各発電所の予定地を経由して、導水路の取水口が置かれた現在の長野県栄村切明へ至る約30kmの本線と、途中の結東原(けっとうはら)で分岐して、信越電力の親会社である東京電燈が出資する飯山鉄道(現在のJR飯山線)の終点宮野原へ至る支線からなる、総延長約47kmにもおよぶ日本屈指の規模を誇る工事用電気軌道であった。
極めて嶮岨な地形を克服すべく、全線に4箇所もの「巻揚機」(インクラインのこと)があり、索道で連絡する箇所もあったとされる。


芦ヶ崎地内を走る電気機関車(『津南町史 通史編下巻』より)

軌道の敷設工事は発電所工事に先駆けて大正10(1921)年に着工し、翌11(1922)年1月に最初の開通区間である釜落し〜反里口(そりぐち)間が落成した。それから急ピッチに奥地へと延伸され、従来は近代交通手段を全く持たなかった“秘境秋山郷”に、“電車”が入り込み、巨大な発電施設を続々と出現させていった。

起点付近の第二発電所は大正11年11月に運転を開始、穴藤(けっとう)の第一発電所も大正13(1924)年9月に運転開始し、一連の工事はわずか4年足らずで完遂された。当時としては画期的な首都圏への長距離高圧送電にも成功し、同社を躍進へ導いた。
後にこれらの発電所は東京電力の所有となり、現在は関連会社である東京電力リニューアブルパワー株式会社が運用を続けている。

工事用電気軌道だが、大正13年の工事完了後、地元の足として活用されることはなかった。
使い方次第では、秋山郷を観光地として飛躍させる黒部峡谷鉄道の役割を果たせたのかもしれないが、50km近い電気軌道が、たった4年のうちに現れ、消えたのである。


……こんな軌道のストーリィを知るだけで、ワクワクどきどきが、とまらない。
こんなにも古い、しかも最長で4年しか使われていない軌道跡は、100年近く経った今日、どんな姿をしているのか。
これに回答できる経験を持っている人は、なかなかいないと思う。

確かに、切明隧道の探索でもこの軌道跡の一端を垣間見たが、あそこは少し例外的だった。
なぜなら、以前のレポートでも書いたが、あそこは昭和30年代まで道路として転用されていたので、純粋な意味での廃線跡とはいえなかった。

ならば、どこに行けば純粋な工事用軌道の廃線跡を見られるか?
2012年の探索後、いくつかの候補が私の中には生まれていた、今回探索したのは中でも有力な候補だった、反里口〜穴藤の間である。
なぜここを選んだのかについて、次の地図をご覧いただきたい。



右図は、軌道の時代からはだいぶ後の昭和26(1951)年応急修正版の地形図である。
等高線と河川と道がごちゃごちゃしていて分かりづらいので、いくつか重要な部分を着色している。
これをご覧いただきながら次の説明を読んで欲しい。

この軌道が、あくまでも工事用軌道という仮設のものであったからなのか、それとも単純に極めて短命であったからなのか、おそらく後者を理由として、歴代の地形図に一度も描かれなかったという点に、大きな特徴と探索の難しさがあった。

これまで『町史』を始めとする様々な文献にもあたってみたが、先ほど掲載した程度の大まかな地図はあっても、詳細なルートを解説した地図は見たことがなく、探索においてもある程度まで自力で軌道位置を予想して臨む必要があった。

反里口〜穴藤間については、ここに掲載した昭和26年の地形図におそらく軌道跡と思われる道(赤線でハイライト)が描かれており、他の区間よりも位置を予測しやすかったうえ、なんといっても途中の3箇所にトンネルの記号が書かれている(@〜Bの矢印の位置)ことが、興味を引いた。

しかも、一番北側のトンネルは相当に長く(500mくらいある?)、そのうえ地形図ではあまり見ない変わった表現がなされている。
この1本のトンネルを、実線の道(赤色)と破線の道(黄色)が、共用しているように描かれているのである。

地形図の凡例に照らせば、実線は軽車道、破線は徒歩道であるが、この2つの道が非常に近接しながら並走している状態は、いかにも“軽車道は軌道由来”だと教えてくれているようではないか!

そのうえ、現在の地理院地図(チェンジ後の画像)を見ると、この川沿いの道は半分ほど消滅しており、2本目と3本目のトンネルがあったらしき南側区間は特に険しい峡谷の縁に呑まれているように見える。

まさに探索のやり甲斐は十分という印象を受けたので、私はこの区間を、探索候補地として、ずっとピックアップしていた。


……が、なかなか探索へは行かなかった。
情報があまりない中で険しい地形で探索することを恐れたのもあるし、机上調査で有力な情報を得てから満を持して探索したいという狙いもあった。
本当にサボっていたわけではなく、机上調査での成果もいくらかはあった。



『新潟県の廃線鉄道』より

中津川・穴藤に残る旧発電所工事専用線のピア(津南町・昭和58年10月24日)
専用線の軌道は穴藤集落の北側で中津川を渡っていた。工事用の軌道用としては素晴らしく頑丈にできていたピア(橋脚)、河原にビクともしないで残っていた。

『新潟県の廃線鉄道』より

上記文章および右の画像は、郷土出版社が平成12(2000)年に出版した大型本『新潟県の廃線鉄道』からの引用である。
同書に「中津川の発電所工事の資材輸送電気軌道」というタイトルでこの軌道が取り上げられており、以前探索した切明隧道の坑口跡の写真と、初めて目にするこの立派な橋脚跡の写真が、上記キャプションと一緒に掲載されていたのである。

思いのほか立派な橋脚であったことと、それが(昭和58年の時点で)現存していることに驚いた。
そして意外だったのは、下線を引いた部分の既述だ。
「軌道は穴藤集落の北側で中津川を渡っていた」というのは、私が昭和26年の地形図で軌道跡との当たり付けていた軽車道(昭和26年の地形図に赤線で示したルート)にはなかった挙動なのである。

果たして、旧地形図の軽車道の正体は何なのか。
もしかしたら、知られざる支線があったということなのか。
いろいろと疑問が出て来たが、実際に現地へ赴き、この写真の橋脚を発見し、その先にも軌道跡を見出し、それを忠実に辿っていくことが出来れば、疑問の多くは解決できるであろう。
そのように考えた。

ちなみに、『新潟県の廃線鉄道』に掲載されていたこの軌道の遺構は、切明の隧道と穴藤の橋脚の2点のみで、他に遺構があるかどうかは不明であった。
したがって、昭和26年の地形図に掲載されていた3本のトンネルが本当に軌道由来であって、うち1本でも現存していれば、素晴らしい発見になるだろう。

……が、それでも私は探索へ行かなかった。
さらなる詳細な文献を探し求めつつも、次第に時間が経過してしまい、他の探索に現を抜かし、うっかりこの軌道のことを忘れたりもしていたのだが……



ズガガガガーーーン!!!

2019年11月20日、脳天直撃の落雷を食らってしまった。



ヨッキ様
いつも楽しませていただいています。popと申します。
もうご存じの案件かもしれないので情報提供になりますかどうか分かりませんが、興味を持って頂けたら幸いです。

信州秋山郷の「切明隧道」のレポートを拝見して、30〜35年ほど前、子供だったころに聞いた話を思い出しました。
この中津川第一発電所工事軌道(電車道)にはほかにもトンネルがあります。
場所は秋山郷の入り口にあたる反里口集落から西側、中津川沿いです。

当サイト読者で、地元出身者のpopから、突然の情報提供メールであった。

「これって、どこの話だっけ…?」

なんて最初呆けていたが、「反里口」という地名を聞いて、急に思い出してきた。
あれ? これって前に調べていたとこじゃないのか…! あ そ こ に
トンネルが、ある、だと!!


同じ工事軌道上なので当然なのかもしれませんが、このトンネルにまつわる話も切明隧道によく似ていて、このトンネルも工事が終わった後は雪中トンネルとして利用されたこと、また、怖いところでもあるとも聞きました。(切明隧道のレポートにあった怖いところの現場は、むしろこちらなのではないかと思っています。)
切明隧道のレポートを読んだ時には、子供のころに聞いたトンネルの話はこれだったのか!と感激したのですが、後から色々と思い出したり自分でも調べたりしているうちに、どうやら別物であると考えるようになりました。 私は地元を離れており、実際に見に行くこともままならずもどかしくもありましたが、最近になって例のスタンフォード大学の地形図()に描かれているのを見つけて、ようやく場所が特定できたことと、今年4月末に久しぶりに墓参で帰省したので、生まれて初めてオブローダーの真似事をしてみました。時期も良かったんだと思います。雪も草も無く、10分ほどで見つけることができました。北口の写真を添付いたします。

pop氏提供画像 pop氏提供画像


マジだったーーー!!!

探索開始から10分で見つかるところに、私が求めていたブツがあったというのか!!

ちなみに、pop氏がトンネルの位置を特定するために見たスタンフォード大学の地形図というのは、スタンフォード大学のサイトで公開されている日本の旧地形図のことで、この地点を含む「苗場山」の図は昭和6年要部修正測量版を見ることが出来る。
その内容は、今回関係する部分について、先ほど掲載した昭和26年応急修正版と全く同一である。
つまり、pop氏は私と全く情報源から軌道跡のトンネルを探しに行き、見つけ出したということになる。

ノロノロしていたせいで、自分で見つけ出す瞬間の悦びを失してしまったが、悔しい以上に、嬉しかった。
まずは、ずっと懸案だったトンネルが、現存していると確認ができたこと。そして、それを親切に教えて下さったこと。
どちらも嬉しくてたまらなかった。


羽虫はすごいし勇気はないしで、中には入れませんでした。
水蒸気が多く、風も感じられなかったので、閉塞しているのかもしれません。


太陽の角度が悪くて入り口のほんの少ししか見えませんでしたが、こんなトンネルを100年近くも前に電車(!現役のJR飯山線ですら電化されていないのに…)が走っていたと考えると、とても感慨深いものがありました。トンネルの前は軌道跡の平場がずっと残っているのも見えました。

南口については、残念ながらこの先の道路が通行止めのため確認できませんでした。
地図通りでしたら南口は500mほど先の取水施設(牛首工=うしくびこうと呼ばれています)の上あたりになるはずですが…。

私の仕事が、まだあるようだ。

このこと自体は探索者として喜ぶべきことかもしれないが、閉塞を疑わせる印象や、道路が通行止で南口へ近づけなかったという情報は、私にとっても大きな不安材料である。
しかも、探すべき対象は、このトンネルだけではない――


南口の状況はもちろんですが、気になっていることがもうひとつあります。
このトンネルの先に、トンネルが少なくとももうひとつあるのではないか、と考えています。
と言いますのも、「トンネルとトンネルがあって、その間が云々(怖いところだ)」と家族が話しているのを聞いたことがあるからです。

私の大叔父は郷土史や昔の道について造詣の深い人で、この工事軌道についても興味をもって調べていたようです。
大叔父自身は昭和の生まれのはずなので、実際に電車が走っているのは見たことはないはずですが、雪中トンネルは通ったことがあると言っていたような気がします。また、身内にも事あるごとに色々と話をしていたようで、折々に身内からも話を聞くことがありました。
大叔父ももちろんですが、私にこの「電車道」にまつわる話をしてくれた身内は、もうほとんど亡くなってしまっています。

探索にはよい季節となりましたが最近の天候は荒れ気味な気がします。どうぞくれぐれもお気をつけください。


トンネルは、複数あった可能性が高いと私も思っている。

それにしても、このトンネルを最初に見つけ出す資格というものがあったなら、私ではなくpop氏に軍配が上がったのも納得と思える行動力かつ、当事者感満載の体験をお持ちである。

そんな人物から、無償の情報を受け取る重みを、噛みしめながら……

今度こそ、探索へ行く!

日本一の豪雪地である津南町、その遅い雪解けを待ちきれないくらいに待って――



2020年5月9日、私は穴藤(けっとう)の朝を迎えた。



 始まりの地、穴藤に不安を覚える


2020/5/9 4:35 《現在地》

おはようございます。
まだ薄暗く、街灯が点いたままの時間であるが、ぼちぼち活動を開始する。
私は前夜半に秋田からここに車で着き、車内で仮眠を取っていた。
薄ら明るくなってきたので、自転車を下ろして跨がった。

車を降りると目の前には、眠たい目を醒まさせるような鮮やかな赤い吊橋。
その名も穴藤橋という。
道の名は町道見玉穴藤線といい、中津川を挟んで両岸に相対する見玉と穴藤の集落を結んでいる。
橋の向こうに見える数軒の民家の集まりが、穴藤集落だ。

集落と、工事用軌道跡の石造橋脚およびpop氏が報告して下さった隧道などの位置関係は、《現在地》の地図を見て欲しい。
出発直後ではあるが、この穴藤の地こそは、工事用軌道の遺構に囲まれた、今回の探索における核心地といえる。

とりあえず、いま見える範囲に残雪がないことに、最低限の安堵した気持ちになった。
だが、完全に安心するには早いことを、間もなく私は思い知ることに……。



「ペコペコペコペコペコペコ……」なんていう頼りない音が鳴りこそしないが、なんと穴藤橋は現代に生きる木製床板吊り橋であった。
橋頭に2トンの最大重量制限標識掲げられているのも頷ける構造だ。

長さは地図読みで約100mあり、構造的にはいかにも古そうな印象だが、「橋梁史年表」によれば、竣工は昭和44(1969)年11月26日とのことである。
橋を渡った先にある中津川第一発電所は大正13(1924)年の竣工であるから、当時から橋自体は架かっていたはず。現在の橋は2代目か。

自転車に跨がって、橋の中ほどに着いた。
そこで立ち止まった。
この時、私は既に、とんでもなく嫌な予感に苛まれていた。
いきなりだが、今日の探索は、失敗に終わるかもしれない………。 

なぜなら、決行のタイミングを――




見誤った可能性、

なんだこの水量の多さ!


… … … …。


… … なんだと言われれば、これは上越山脈の雪解け水なんだろう。
麓の雪は、見ての通り既にないのだが、源流部の雪代を考えたら、少し早く来すぎたか…。
しばらく天気がよかったので、よもやこれほどの水量とは思わなかっただが……。



まあ、探索中に中津川を徒渉するような羽目にならなければ、大丈夫かも知れないが……。
行動の自由度を大幅に制限されることが明確になってしまったのは、かなり不安な立ち上がりだ。

なお、いま見ているのは下流方向で、ちょうど正面の崩れた崖が露出している辺りには、
昭和26年地形図の“軽車道”の“3本目の隧道”が描かれているのであるが、
隧道が崩れて通り抜けられなかったりすると、面倒なことになりそうな予感が…。
とりあえず、ここからだと見えないので、なんとも言えないが……。



まあ、いささか気落ちはしたが、失敗が確約されたわけではない。

気を取り直して、所定の探索を進めよう。 この時点で計画に変更はない!



こちらは反対側、上流の眺め。

右に見切れているのは穴藤集落の外れの民家。
左中央ドカンと居座っている巨大な建物が、中津川第一発電所である。
軌道はこの発電所を建設する目的で敷設されたのだ。当然、いま見ている視界の中には、
軌道跡地も含まれているはずだが、事前情報もなく唐突に判別できる感じはない。

ただ、ここではっきり言えることが一つはある。




俺は今日、汗にまみれる!

なぜなら、

ここにあったインクラインの踏破も予定しているから。


今日はこの探索が終わり次第、穴藤(けっとう)〜結東原(けっとうばら)間インクラインに挑む計画だ。

これは本編の内容ではないのだが、ここにあったインクラインは本工事用軌道中最大規模のものであり、

ご覧の発電用落水路(完成当時日本第2位の落差)に等しい、落差400m超のものであった。

というかさ、この傾斜にインクラインがあったとか、汗ではなくて、にまみれるんじゃないか……。

果たして俺は今日を無事に終えられるのか、いささか不安を感じる、穴藤の朝であった。(なんて朝だ!!)



気を取り直して(×2)、地図を見ながらこれからの探索プランを伝える。

いま私は穴藤にいるが、車をここにデポして、自転車で反里口を目指す。

反里口からは徒歩に切り替えて軌道跡の探索を行い、穴藤まで踏破する。

なので、私は今から穴藤を離れて、国道405号経由で反里口へ向かう。




 探索準備回送 穴藤→見玉→反里口


4:48 《現在地》

穴藤橋に背を向けて、中津川右岸の道を見玉へ向かって漕ぎ始めた。
穴藤は谷底、見玉は河岸段丘上なので、この行程は落差50mの上り坂だ。
その上り始めてすぐの辺りで、穴藤橋以上に下流をよく見渡せるところがあった。

……なんとも凄い、対岸の絶壁だ。

あれを“屏風岩”と呼ばずに、どこに“屏風岩”などあるかというような眺めだが、地形図にはなんの地名も書かれていない、ただの崖の記号の連なりである。
で、実際には地元でなんと呼ばれているかといえば、“石落し”だそうだ。
風流さのカケラもないのが、ガチで険しい地獄然としていて好き。確かに石も落ちるだろうよ。

地図から読み取れるその落差は、てっぺんから川の縁までだと200mを越える。
垂直に露出している岩場の部分だけでも100mくらいはあるので、とにかく凄まじい。
しかし救われるのは、軌道跡は右岸にあったとみられ、あの崖には近づかずに済みそうだということだ。



“軽車道の第3隧道”(もちろん仮称)の擬定地がよく見えたので、望遠で覗いたのがこの写真。

めっちゃ崩れていて、ヤバそうだ。

隧道で通り抜けるのでなければ、この岸を川に溺れず踏破するのは無理かも知れない。

でも今は近づかないことにする。計画通り、反里口を目指す。




5:01 《現在地》

急坂道をノロノロ上って、明るい台地上に出たところが、見玉集落。
時間的にも、地形的にも、明るさを感じられるようになった。
ここには多くの家屋があり、立派な国道が貫通している。

見玉(みだま)という一風変わった綺麗な音は、ここにある見玉不動尊に由来していて、御霊(みたま)という言葉から転じたものらしい。
江戸時代まで、右岸は見玉、左岸は穴藤よりも上流を秋山郷と呼んだそうで、平家の伝説を秘めた秘境の玄関にあたるのが、ここ見玉であった。




見玉より振り返る、落差400mの第一発電所落水路。
あのてっぺんの高さと、発電所の取水口がある切明の谷底が、ほぼ同じ高さである。
それすなわち、秋山郷という土地における集落の垂直分布範囲に等しい。

落水路の巨大な鉄管がとても目立っているが、古い工事写真を見る限り、工事用軌道のインクラインは、鉄管とは並走していなかったはず。
ラインが見えればと思ったが、う〜〜ん……、見えないのかな。




5:15 《現在地》

見玉不動尊より50mほど高い位置に、反里口へ越える無名の峠がある。
歴史的には、秋山郷の入口にあたる草津街道の峠である。
しかし頂上付近まで開墾されており、影のない明るい場所だ。

写真は峠の頂上から、やはり振り返って撮影した。
右奥には依然として第一発電所の鉄管が、正面奥には中津川源流の高峰が見える。
奥の山、やっぱり雪まみれじゃないか……。
そりゃあ、中津川の水も多かろう。



峠から、反里口への下りにかかる。
穴藤から上ってきた分を、これから下る。

下りの途中、ヘアピンカーブの見通しが良いところがあり、写真を撮った。
このカーブにはミニ旧道があり、通りがかりに探索した。
ここを下ればすぐに反里口集落だが、その頭越しに津南の中心市街地まで見渡せた。
反里口から津南の街まではほぼ平坦で、既に秘境ではない。




5:35 《現在地》

出発から1時間、約5km走って反里口集落に到着。
これはまた振り返って撮影した写真で、正面奥の鞍部を越えて下ってきた。
反里口は、穴藤と比べれば別世界に明るい、平地の人里の顔をしている。

工事用電気軌道は、この集落内のどこかを通り抜けていたと思われるので、痕跡を探し出したい。


いよいよ今回のテーマである工事用軌道の探索を始めるが、集落内については参考になる事前情報は全くない。
pop氏の隧道を探しに行くのは当然としても、この反里口集落内で軌道跡を発見し、それを隧道まで辿っていくのがベスト解だろう。

(→)次の行動を決めるために、地図を見直す。

上の写真の場所に今いるのだが、ここは昭和26年地形図に書かれている“徒歩道”(黄線)の入口である。
この道を辿っていくと、集落の外れで“軌道跡とみられる軽車道”(赤線)と並走するようになる……と思う。

じゃあ、この道を行こうかな?

どうしようかな?



5:39 《現在地》《現在地(昭和26年地形図)》

少し悩んで、結局この場所へ移動してきた。

ここは、昭和26年地形図の軽車道が、草津街道(現在の国道)から右に分岐する地点である。
左奥に見えるのが反里口集落で、その下流側の外れの辺りだ。
右にある巨大な谷はもちろん中津川で、“石落し”の崖が屏風みたいに連なっているのが見通せる。

現在もこの場所には、国道から右に分かれて、中津川の谷へ下りていく砂利道があった。
地図を見る限り、これがかつて軌道跡だった、昭和26年地形図の軽車道だと思う。

……思うのだけど……。

…ちょっと……、この入口の感じは、軌道跡っぽくはないかも。



軌道跡にしては、急坂に過ぎるよな…。

しかし、pop氏が隧道を見つけたという尾根は、ここからよく見えた。

正直、この余りにも広大な谷の中で、地形の特徴から軌道跡を探し出すのは難しいと察した。
その雲を掴むような作業に時間を使うよりは、pop氏が見つけた隧道をとりあえず確保してから、
そこを基点に、前後の軌道跡を辿るのが効率的であろう。

……というわけなので、これから隧道を探しに“尾根”へ向かう!