七ツ石の岬を回り込む海岸沿いの軌道跡は、連続2kmあまりに亘って廃道となっている。
現在地はそのちょうど中間地点の岬突端部分であるが、この直前より一行の前に現れたのは、当初予想していなかったもの凄い断崖絶壁。
海岸沿いの森林鉄道と言うだけでもレアなのに、よもやこのような光景に巡り会うとは。
昭和25年にこの軌道を利用しての運材が始まったと記録されているが、その工事は戦中にも行われていた。
そしてこの工事においても、近接する七影隧道と同様に、あるいは同じ県内の大間線でもいわれているとおり、外国人労働者をもって不足の国内労働力を賄ったといわれる。
当時、青森ヒバはその硬度が軍部に買われて航空部品(特にプロペラ)の一部として使う研究が盛んに行われていた。
その時局において本線はたかが最果ての森林鉄道にあらず、その開通に火急を争う一大軍用線だったと思われる。
岩磯から直立する岩峰。
その麓、地上から5mほどの位置に軌道跡は掘られている。
現在もそこを歩くことが可能だが、大量に堆積した瓦礫によってすでに平坦ではないうえ、一面にススキが繁っており歩行は困難だ。
一列になって進む一行。
私が指さした先を見て、くじ氏が微笑む。
そこにあったものとは!?
なんだこのコブは!
あまりに出来すぎ!
あそこだけ重力が少ないんじゃないの??
ふっしぎ〜〜。
確か、昔に読んだ妖怪図鑑のような本に(挿絵は水木しげるだったかも知れない)、南米あたりの妖怪としてこんな不思議な岩が紹介されていた記憶がある。それは、普通はあり得ないようなバランスで、尖った岩の天辺に巨石が留まっているイラストで、何がどう妖怪なのか分からないながらも印象深かった。
写真を見ればお分かりの通り、この黒いコブのような岩は、決して小さなものではない。
あなたはあそこに立つ勇気があるか?!
なんと、軌道跡の直ぐ頭上にも、そんな岩が無数に張り出しているではないか。
写真中央の50cm四方くらいの岩など、なぜ留まっていられるのかまるっきり分からない。
いま地中から掘り起こしつつあるサツマイモのようだ。
でもこうして見ると、遠目には一枚岩と思った大岩峰であったが、実は溶岩を多分に含む砂礫であることが分かる。
それにしても、頭上がスースーする。
メット被ってくんだった…。
くっふぅー…
猛烈なブッシュに地表が完全に隠され、地形がよく分からない。
海岸線に降りてしまえばだいぶ楽に前進できそうだが、行く手に現れた切り通しは是非通りたい。
4人も仲間がいても、先頭(私)の藪漕ぎのつらさは一人と変わらないぜ〜。
それでも、声掛け合えるだけ気持ち的にはだいぶマシだったが。
ワシワシと薮を掻き分け踏み分け、どうにか切り通しへと到着。
しかし、朝日に輝く美しい海岸線に視線を滑らせても、終点の小泊港はまだまだ遠い。
さし当たって、100mほど前方には現在地と同様かそれ以上の規模の切り通しが見えていた。
そこまでの道のりは、これまで以上に厳しそうだ。
ぼぅわー!!
幅の狭い軌道跡に放棄された廃レール製の構造物。
今では殆ど面影を留めないが、落石覆いとして建設されたものだという。
これまで東北の数多くの林鉄を歩いたが、林鉄がらみのロックッシェッドやスノーシェッドの現存遺構に遭遇したのは、ただ一度、秋田県の生保内手押し軌道の遊歩道化された区間でだけであった。
だが、まさか山深くではなく、海沿いの軌道跡で2度目の遭遇を果たそうとは!
ここが、如何に崩壊危険度の高い路線であったのかが窺える。
冬の日本海の凄まじさは、見たことのない人に説明することが難しい。
空の色を反映した灰赤色のうねりは猛烈な季節風によって波濤を千切り飛ばされ、吹雪と一緒くたになって岩盤へと叩き付けられる。その極寒たるや潮水でさえそのまま凍らしめる。
冬の当地は、おそらく一面の氷壁に覆われていることだろう。
そう考えると、この落石覆いをこれほどまで破壊したのは落石の間欠的な破壊力ではなく、永続的な冬の嵐、海の暴力ではなかったか。
錆び付いた表面は、指で触れるだけで脆くも剥がれ落ちた。
東北の林鉄の常として冬期間は運休されていたようだが、春の復旧・保線作業は困難を極めたに違いない。
崩れ去った落石覆いとざらついた岩盤の間に身をよじらせ通過する。
足下にはススキの藪が続き、路盤は判然としない。
少し前に磯へ下りていた細田氏と自衛官氏の弁によれば、軌道の足下は長い石垣で固められているという。
この険しさは、本国唯一?の海岸林鉄の名を殊更印象づけた。
今日、国道がわざわざ峠越えを選んでここを迂回した理由も分かる気がする。
頭上には、自然とも人為とも受け取れる洞穴が見られた。
この光景を私もくじ氏も目の当たりにしていたが、なぜかそこへ行ってみようという気にはならなかった。
今こうして写真を見ると、もしかしたら人工的な構造であったかも知れないという疑いは払拭されない。
しかし、現実問題として痩せた急斜面をあそこまでよじ登るのは大変危険であったし、この後に七影隧道の捜索を本日のメーンと考えていた我々は、時間のロスを避けたかった。
そもそも、“行く道”のないあのような断崖中腹に人工物が存在するというのは、考えにくいではないか。
私は、今も自分にそう言い聞かせている。
しかし、写真をこうして見ていると、ますますこの穴の正体が気になってくる。
まさか、先住民の住居? 何者かの隠れ家? 北方警護の監視所?? はたまた、艦砲射撃の突き刺さった跡??
様々な可能性が、私のアタマを掻き乱す。
いずれは再訪…… あるいは、どなたか確認を…。
そして、2つめの切り通しに到着。
岬の突端部に達してからは大変に歩きづらく、300mほどの道のりに15分も要している。
にもかかわらず、苦労は報われなかった。
あくまでも軌道跡に拘って辿っていきたかったが、第2の切り通しの先はこれまで以上に薮が深く、もはや軌道跡は斜面の一部となって埋没してしまっている様相だった。
最後まで軌道跡に残っていた私とくじ氏とトリ氏も、ここで磯へ下りることを選択せざるを得なかった。
だが、磯へのエスケープもまた容易ではなかった。
猛烈なツタ植物の繁茂によって隠されてはいても、軌道敷きと磯との間には高さ5mの石垣があった。
普通ならここは下れっこない。
そこで編み出された新たなる“オブ動作”は、
秘技 ツタ絡み (48手の第33番技)
この技は、自然に繁茂するツタに全体重を預けた上で、微妙に体重を移動させながらツタを選択的に剪断しつつ、それによってゆっくりと下降するという、人植一体の妙技である。加減を誤ればツタ全体が一気に千切れて体もろとも落下することになるし、力及ばねば中空に取り残され身動きが出来なくなる。
トリ氏は私やくじ氏よりも遙かに体重が軽いため、この下降で大変に難儀した。
写真は、石垣の中腹で一時身動き不能となった様子。このまま放置されればどうなったんだろう…?
5分後、ようやく全員が礫磯となった海辺に会した。
ここまでは背後に写る岩場とかじりついていたが、これからは下から軌道跡を観察しながら前進することとなる。
だが、上にいたのでは気付けない発見がまた少なくなかった。
石垣の土手っ腹が完全に抜け落ちているが、奇跡的に上端部だけが残存し、架け橋のようになっている。
山側の斜面に至るまで崩壊が進んでおり、時にはここまで波が打ち寄せる事を物語る。
その状況はおそらく現役当時も変わらなかったはずで、果たしてどのような運材風景が展開されていたのか、当時の写真を見てみたいものだ。
モルタルを頼りにギリギリ保っている石垣上端部分。
流石にこの上を歩く猛者はいない。
地学に明るくない私だが、この岩崖は火山岩だと思う。三角山というのは古い火山なのだろうか。
自分たちがついさっきまで歩いていた軌道跡は、岩盤下部の帯状になったオオイタドリやクズの群落としてのみ痕跡を留める。
磯に犬釘が刺さった木片を見つけた。
枕木であろう。
大きめの礫岩が積み重なった海岸線。
実際に歩いてみると、思っていたよりも遙かに足に来る。
これらの礫の全ては、岬の大岩盤が何万年もかけて崩壊し続けた残骸なのだろう。
更に進むと、崖の様子が一変した。
相変わらずの急傾斜ではあるが、地層の模様も鮮やかな粘土層に変わった。
その先は、小泊港の街並みが判別できるまで近付きつつある。
鮮明な地層。
その中には不思議な蛇行模様を見せる部分もある。
色からいって圧縮された泥なのか。
まるで「高校地学」の教科書のグラビアを見ているかのようだ。
これがなんなのかお分かりになる方、是非ご教授いただきたい。
奇抜な地層の姿に目を奪われたが、我々にとって重大な発見はもっと上にあった。
ォ…ォ… おおおおお!
斜面から並んで突き出している アレは!!
まさか枕木では!
ここに鉄道が通っていたという、確実な証拠。
それが、このような特異な状況で残されていようとは!
探索時はちょうど干潮だった様だが、探索していると次第に潮が満ち始めた。
枕木の断片がまるで“何かがねじ曲がっちまった世界”のように突き出している異様な光景の下、ついに我々の歩いてきた礫磯は海中に没し、滑らかな粘土質の岩盤を伝って進む事になる。
更に潮が満ちれば通行は不可能になるだろう。
予想通りこの岩場(粘土場?)は滑りやすく、通行にはたいへん神経を使った。
そんな場所でも、見上げれば遙か頭上に枕木の列…。
滑らかな粘土層から突き出した痩せた枕木は、騙し絵のような異様な雰囲気を醸し出す。
しかも、もしこの枕木が無ければ、軌道がそこを通っていた事は決して分からないだろう。
それほどに、かつての路盤は斜面と一体化し、埋もれている。
昭和46年頃までは現役だったし、その後に国道となる峠の車道が整備されるまでは地元の人たちもここを通ったのだろう。
だが、海の浸食の力は凄まじく、たった三十数年で七ツ石の半島南岸から、軌道跡をほぼ抹消していた。
軌道の痕跡はこの枕木だけではなかった。
磯に散乱する石垣の残骸。
もともとは、岬の先まで1キロ以上も延々続く、さぞ壮大な大石堤であったことだろう。
現在でも形を保っているのは半分以下で、崩れた残骸の一部がこうして海岸線に散乱しているが、その量は膨大である。
これは、施工主の刻んだ記念の文字なのか。
波に洗われる石垣の残骸に残る、「三和土建」の文字。
土地の土建屋だろうか。指で描いたような拙い文字が、何かこころに訴えかけてくる。
あるいは戦時中のものかもしれない。
またその近くには、文字とも記号とも図面とも付かぬ不思議な文様が描かれていた。
日本語でない文字かも知れないと思ったが、正体は分からない。
誰がどんな気持ちでこの刻印を残したのだろう。
いよいよ管理されている港の領域が近付いてきた。
だが、海沿いの軌道跡は最後まで道の形を失ったままだ。
枕木の列で区画されそれと分かる軌道跡には、もはや寸分の平場も無く、ススキの生い茂る急斜面となっている。
一度枕木の高さまでよじ登ってはみたが、そこからどうすることも出来なかった。
浸食され続ける海岸線に突出した無数の枕木達は、この海岸林道の最期に相応しい、象徴的な光景だった。
午前10時49分、道の駅を出発して70分近くを要し、ようやく小泊港に辿り着いた。
わずか2.2kmの軌道跡だったが、当初あくまで軌道敷きを歩こうとした事もあって、かなり時間をオーバーしてしまった。
だが、ツマラナイ順調よりも、アツイ苦難の方がウレシイのは一同皆同じ。予想を超えるアグレッシブな景観に私も大変満足した。
小泊港へ軌道跡が進入する辺りは今も貯木場となっており、大量のヒバ材が積み出されるのを待っていた。
かつてはこれらの長材も2輌のトロッコがボギー台車の代わりになって運んでいた。
今や大型トラックの一台で足りるし、おそらくはここから輸送船で京阪神へと運び出されるのだろう。
木材輸送において海上輸送の重要性だけは今も昔も変わらない。
貯木場から振り返る七ツ石の奇景。
すでに軌道跡の風化は著しく、今後遊歩道などとして復活する可能性もないだろう。
それに、いまさら二度と開発されて欲しくもない…。そんな美しい景色だ。
太平洋戦争末期、ここで国の存亡を懸けた(と当時何人かは信じていた)軌道工事が行われていた。
名も知れぬ大勢の血と汗が、ここに滴った。
もはや消え去る一方にあるその痕跡に、我々のこころは躍ったのだった。
貯木場を過ぎると、近代的な公園や埠頭が続いている。
海岸軌道はこの辺りから内陸へ折れ、町場を通って小泊林道と繋がっていたようだ。
その跡は大部分が町道として今も使われている。
一行はここで昼食後、予め先回りさせていた車に乗り込んで道の駅に置いてきた車を回収すると、一路七影隧道の捜索へと向かった。