隧道レポート 七影隧道  導入 

公開日 2006.11.12

 その存在は、とことん不幸で、不運だった。

 関わった人々を終始振り回し続け、時に禍さえもたらした。

 まるで、地上に存在を許されぬ、呪われた宿命がそこにあるかのようだった。


 戦時中のごく短期間、最果ての津軽半島の山中に存在“しようとした”一本の隧道は、まさにそのような存在だった。


 その名は、隧道




周辺地図

 小泊磯松連絡林道(以下「連絡林道」と略)は津軽森林鉄道網の一部をなすもので、路盤には軌道が敷かれ、木材貨車を連ねたトロッコが運行していた。
おなじみ『全国森林鉄道 JTBキャンブックス』巻末資料によれば、昭和17年竣功、昭和46年廃止とある。
津軽半島の西にぴょんと突き出した小泊半島の基部を峰越で結ぶ、林鉄としては珍しいタイプの路線だ。

 そして、標題の七影隧道は、この峠越えの区間に建設された。

 しかし、結局供用の日は見なかった。

 七影隧道について語る資料はきわめて少ない。
津軽森林鉄道と言えば、日本最古最大規模の森林鉄道網として有名で、よく知られた存在だ。
だが、その最北部に属する小泊営林署管内については、七ヶ滝付近の隧道跡が辛うじて知られている程度で、七影隧道はおろか、この峰越の連絡林道線の存在でさえ、私もつい最近まで知らなかった。
 ネットの世界で、この一帯に隠された林鉄遺構に最初の光を当てたのは、「ザ・森林鉄道・軌道in青森」の管理人シェイキチ氏であろう。
その中でも、七影隧道のエピソードは強烈であり、もの凄い衝撃を私は受けた。
それは、かつての“定義の大木橋発見の報”にも劣らぬ、林鉄界の特異点の出現を思わせた。

 これより間もなく、私はこの七影隧道の辿った顛末を語ろうと思う。
七影隧道は、結局完成に至らなかった隧道であり、現地調査はほぼ無駄足と考えられる。
その意味で、山行がのレポートたり得るのか…、一抹の不安はある。
だが、それでもこのエピソードは語りたい。

 言うまでもなく、今回のレポートはシェイキチ氏の多大な協力によって可能となった。
氏には、ご自身が机上調査で集められた資料を提供していただくなど、並々ならぬご支援を頂いている。
七影隧道について、より原典的な調査は氏のサイトにまとめられているので、併せてご覧頂きたい。





 シェイキチ氏からご提供いただいた調査資料は、以下の2つである。
七影隧道の顛末については、それぞれの資料に断片的に語られており、この両者を組み合わせることで、一本の隧道が辿った数奇な運命が浮かび上がる。

 青森林友104号 (1957年5月)
   〜こんなこともあった“森の会”座談会(八)〜

 青森林友270号 (1971年3月)
   〜国有林と女シリーズ第3話 七影隧道物語〜

 前者は林鉄最盛期からやや斜陽に向かう昭和32年次の青森営林局内座談会録から。
後者は昭和46年、奇しくも七影隧道を供用せんとした連絡林道をはじめ、県内の全ての林鉄が廃止されるその年の会誌から。
物語の一部はフィクションだが、具体的なエピソードを交えているので、隧道に関する記述は真であるとされる。

 この2つの資料から読み取れる七影隧道の顛末を、以下に時系列順にまとめてみた。
なお、括弧書きの部分は私の補足である。

 小泊から山越えして磯松へ抜ける小泊林道(後に連絡林道と呼ばれるようになる)は、明治32年に青森営林局最初の林道(鉄道か否かは不明)として建設されたが、峠のために十分な利用が出来ず、同39年に最初のトンネル計画が持ち上がった。
これは設計まで進んだが、結局実現には至らなかった。
翌40年に路面の拡張と堀割を実施し、暫くはそのまま利用された。(なお、39年中に小泊林道と磯松林道がそれぞれ別々に軌道として供用されたようだ)
 大正15年に再びトンネルが設計され、小泊から機関車で一貫して運搬する計画が立てられたというが、これも結局は実現しなかった。
 二度の挫折をへて、いよいよ隧道が実現へ向けて大きな動きを見せたのは昭和17年(この年が連絡林道の竣功年とされている)のことで、村上技手という人の設計で、全長129mの隧道工事が行われた。
地質が悪かったので、全面に木製の支保工を設置したという。
そして、隧道工事は竣工式の段取りを整えるまでに至った。
竣工式では人夫一人あたり3円の酒肴が許され、局の上役を迎えての村を挙げた式典が計画された。(戦時中である)
そのために、一ヶ月も前から踊りの稽古をするほどの騒ぎだったと言うが、事件は起きる。
局長到着の4日前に突如、小泊側坑口付近が土砂崩れで埋没してしまったのだ。
粘土の崩壊で手の施しようが無く、それでも大変な騒ぎで掘り返したと言うが、間もなく今度は隧道自体が漏水で崩壊し、7人の負傷者が生じたという。

 時代ごと三度設計され、三度目にようやく竣功間近までこぎ着けた七影隧道だが、村挙げての祝賀ムードも虚し、最悪のタイミングで隧道は崩壊・埋没し、呪わしくもその名の通り、七人の負傷者(生死は不明)を生じたのである。
これだけでも十分に不幸だが、この隧道にまつわる負の宿運は、なおも人々を翻弄し続ける。

 復旧計画として、崩壊した小泊側に新たな坑口を設け、そこから全長70mの隧道を新たに掘削し、元の隧道内部に接続する工事が企てられた。
戦時下であり、請負の人夫や物資は払底し、その工事は難航を極めた。
特に地質が悪かったにもかかわらずコンクリートは使えず、ヒバ材250石の大量を投入して支保工がなされた。
そして一年半後、あと5m余りで旧隧道と接続するところまで掘削は進んでいたが、遂に土圧の猛威に屈し潰滅の呻きをみた。
 その後は昔に帰って堀割の拡張を3年がかりで実施し、はじめて機関車の運行が達成されたという。(そして廃止まで利用された)

 いかがだろう。
戦時下の無茶な復旧計画に下された、地の剛斧の裁き。
いっときも存在が許されなかった、たった129mの隧道。




  その失われた痕跡を求め、我々山行が合同調査隊一行は最果ての地へと結集した。

 時に、2006年11月4日のことである。