光明電気鉄道 阿蔵隧道と大谷隧道 後編

所在地 静岡県浜松市天竜区
探索日 2009.1.23
公開日 2009.1.30

私が今回「光明電鉄」の探索に赴いたのは、読者さんから寄せられた1本の隧道発見情報のためだった。
情報をお寄せいただいたのはTOMO氏

彼は今から15年ほど前に、光明電鉄の未成に終わった区間(二俣町〜船明間)を調べていて、1本の廃隧道。記録によれば「大谷隧道」とされているものを、道無き山中で自ら見つけ出したというのだ。

そしてそれは、その後の『鉄道廃線跡を歩くU』(以下『鉄歩』)や、ネット上の個人による探索レポートでも取り上げられていないというのだ。



「前編」で紹介したとおり、資金難から短命に終わった光明電気鉄道には、未成に終わった区間がある。
それは、二俣町二俣(現:浜松市天竜区二俣町)から光明村船明(現:天竜区船明(ふなぎら))までの、直線にして約3kmの区間である。
船明は、天竜川が重々たる山岳から平野へと解放される最初の地点にあたり、古くから林産物や鉱産物の水運基地として栄えた場所だった。
ここまで線路を延ばすことが出来れば、天竜川水運と東海道本線をバイパスする電鉄の貨物収入は飛躍的に増大し、危機的な財政状況も回復すると見込まれていた。
そもそも光明電鉄という会社名も、終点の光明村から名付けられたものに他ならなかった。

それゆえ、昭和11年に電気代未払いによる送電停止から運転休止をやむなくされる直前まで、断続的にではあるが、延伸工事が行われていたというのだ。
『鉄歩』には、この未成区間についてたった2行だが、次のように書かれている。

「未開業区間はトンネルが完成しただけで終わったという。」

どうやら、確かに隧道は完成していたらしい。




さて、15年前には確かに存在した「大谷隧道」だが、それはどこにあったのだろう。
ものは未成であっただけに、今の地図に隧道は描かれていない。
TOMO氏の情報にも、詳細な位置については触れられていなかった。さほど分かりにくい場所ではないということであったが、土地勘のまったくと言っていいほど無い私に、それを見つけ出すことが出来るだろうか。

私はじっくりと地図を眺めた。
船明は四方を天竜川と小高い山に囲まれた小さな平地で、二俣側から進入するには必ず山を越えなければならない。
そのなかでも、どこに隧道を掘ったら一番効率的に船明を目指せるかということを、自分が技師になったつもりで考えてみた。

最有力候補は、現在の国道152号が通っているルートだ。ここの鞍部が最も低いし、開業区間の終点である二俣町駅が北東向きであったこととも合致する。
後の国鉄佐久間線もここを通ろうとしていた。

次いで天竜区役所から真っ直ぐ北を目指すルートで、これが最短距離になる。
しかし、現在では市街化が進んだエリアを縦断しなければならず、資金難にあえいでいた光明電鉄がここを買収できたかという疑問が残る。

もう一つは天竜川沿いを船明へ向かうルートだが、これは峠越えがないのと、二俣町駅の方向と反対になるので早々に除外した。

しかし、意外なヒントからルートを一つに絞ることが出来た。
それは、TOMO氏が教えてくれた「大谷隧道」という名前だ。
国道152号のルートでは、大谷地区を通らないのである。
大谷を縦貫して船明へ向かうルートは、一本しかない!




 大谷隧道を探す 南口 


2009/1/23 12:49

「未開業区間ではトンネルのみが完成した」という『鉄歩』の記述を信じ、私は隧道のみをピンポイントで捜索することにした。

「隧道擬定地」へ南側から接近する。
天竜区役所の前を通って大谷地区に入ると、そこは谷間の細長い平地に今風な住宅地が続いていた。




鉄道にも優しそうな緩やかな上りを進んでいくと、あたりの風景は急速に田舎のそれに変わっていった。
どっしりとした平屋の農家と、その周りに展開される手入れの行き届いた茶畑や家庭菜園。
そんな建物の慎ましさによって際だつ背景の美林と、景色に変化の妙味を与える低山らしからぬ岩の峰。

大谷は、最大公約数の「ふるさと」を彷彿とさせるような、美しい袋小路の集落であった。

果たして、このドン詰まりに幻の隧道は存在するのだろうか。
自転車を漕ぐ私の足にも、自然と力が入った。


道はあくまでも緩やかに、一定の勾配を保ったまま谷の奥へと続いている。
遂に沿道の民家も無くなって、谷間には細い農道1本と小川、あとは茶畑だけになった。
真っ正面には、そそり立つ岩峰をご神体に戴くのような鳥居と神社が現れ、道はその手前で大きく左に迂回する。




大谷隧道がこの奥に存在するならば、そのために工事用道路は当然造られたであろうし、さらに言えば、それは未来の鉄道路盤となったかも知れないのである。

そう考えたとき、この道はその幅や勾配、カーブの作りなど、あらゆる点で鉄道の廃線跡のようだ。
…私はそう感じていた。



遂に谷間に平地が無くなった。
この先は一気に谷筋の傾斜は増し、50mほどの高低差をもって稜線へと上り詰めている。
隧道があるならば、このあたり以外には考えられない地形である。

だが、私は辺りの妙にこざっぱりとした雰囲気に、嫌な予感をもった。
15年前、TOMO氏は南北両側の坑口をその目で確認している(内部は未確認のようである)。
それらはいずれも、山中に “取り残されたように” 口を開けていたという。

しかし今日、谷奥から稜線にかけての一帯は「市民の森・ハイキングコース」と銘打たれ、多くの人手が加わった様子がある。
とても、廃隧道が口を開けていそうなムードではない…。



ハイキングコースの地図にも、廃隧道らしきものは描かれていない。
70年以上も昔に掘られた隧道がもし現存しているのならば、観光地として補修整備されていれば当然のこと、そうでなくても原型を留めるならば、何らかの「史跡」としての表示がありそうなものだ。

…それさえないというのは、「無かったこと」にされているか、そもそもこの場所ではないという可能性が高い。


とりあえず、入り口で二手に分かれている遊歩道のうち、地形図に峠越えの小道として描かれている右の道へ進路をとった。




ダメだな。こっちではない。

道は続いているものの、勾配がきつすぎる。
もし鉄道を通すならば、もっと手前から隧道になっているはずである。
一応は稜線の手前まで上ったが、目がないと判断して引き返した。

次に左の道へも行ってみたが、すぐに砂防ダムがあって、道はもの凄く急であった。
こちらも目はないと判断。

確信のないまま探すのは辛いので、すぐ手前の茶畑で農作業中の方に教えを請うことにした。




私がお話を伺ったのは、山向こうの船明で生まれたという、七十代前半くらいの優しいおばあさんであった。

大谷隧道は、確かにこの谷にあったという。
場所は、遊歩道の入り口から左に入って砂防ダムのすぐ手前の辺りだった…と、「わたしゃ船明の出だからこっちのこたよく分からんけ」と遠慮しながらお話し下さった。
だが残念なことに、遊歩道の整備をした際に隧道は埋め戻されてしまったという。

もっとも、以前から崩壊のために通り抜けは出来なかったそうで、おばあさんが子供の頃(50〜60年前か)に船明側の坑口まで行ったことがあったが、既に洞内は真っ暗だったという。お父さんからは、歩いて隧道を通り抜けたことがあると聞いているそうだ。

また、実際に鉄道工事が行われたのは隧道だけではなく、“この道”(写真の道)もそのために建設したものだと伝えられていて、船明側には近年まで明確な築堤が残っていたというのである。

おばあさん、ありがとう!!
落胆を隠すように元気に礼を言って、再び遊歩道へと舞い戻った。



おばあさんの記憶を頼りに左の道を選ぶと、30mほどで小さな小川を渡る。
これ以上行くと砂防ダムがあって、一気に上りがきつくなる。
この小川の周囲は一面の杉林だが、そこに、杉が細いエリアが直線状に続いているのを発見。
そこだけは、比較的最近に植林したようなのである。
怪しい気配を感じ取った私は、遊歩道を外れて右の林へと分け入った。





隧道は、おばあさんの言うとおり、埋め戻されていた。

現状は、坑門の上端部と、そこに繋がる掘り割りの右側擁壁の上端部のみが、辛うじて杉林の林床に段差となって残っている状況である。
これでは、場所を教えて貰わなければおそらく気付けなかっただろう。




埋没坑門の近影。
コンクリート製の坑門上部には、阿蔵隧道と同じ様な笠石の意匠が取り付けられていたようだ。
特徴的な凹凸が残っている。

夢の跡となった薄暗い林床にしばし立ち尽くし、地中に還った隧道に思いを馳せる。
昭和一桁代に建設され、その後は会社の倒産によって本来の鉄道を通すことなく、長年その骸を晒し続けたあげくに、また元の地中に還ったのである。

このフレーズは“くさい”のでしばらく口にも文にもしていなかったが、私の廃道巡りはレクイエムを捧げる気持ちで行っている。
自分が最後の通行人となって道の働きをねぎらうか、未成の場合には果たせなかった通行人を演じることでの鎮魂を意識する。




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 北口の捜索 


13:24

右の遊歩道にて峠を越え、船明側の坑口(北口)を目指す。
古道の雰囲気が残る小さな峠は、階段も交えた急な道であり、自転車にはお留守番して貰った。
ひとしきり上ると、杉の木立に鮮明な掘り割りが浮かび上がった。

おばあさんの話からは、北口もまた無事ではないような気がした。
だが、南口があのような状況であった以上、この目で確かめないわけにはいかないのである。




峠を越えると、遊歩道は九十九折りになって南側以上の急角度で下っていたが、私ははやる気持ちが抑えきれず、歩道を外れて左の深く切れ落ちた谷…隧道擬定谷…へと、急落の進路を取った。

急斜面過ぎて育てなかった枯れ杉を頼りに下る。




谷底までの高低差は、おおよそ40m。

最初はすぐに下り着くかと思ったが、思いがけず底は深かった。
しかも、進むほど傾斜が増し、いよいよ手掛かりが乏しくなってきた。
そのうえ、未だ明確な人工物の気配は感じられない…。

最悪の結果が脳裏をよぎる。




うおっ!

明らかに路盤だ!!

谷底に自然の渓流はなく、明らかに人工的と分かる直線的な平場が存在していた。
しかも、それは隧道の北口に繋がる深い掘り割りに違いなかった。

左を見るのが、 …怖い。






むぐぁー!!


坑門がある!

しかも、
開口している!!

あゎゎ やべーぞ。





最後に立ちはだかった壁。

それは、落差3m余りの壁。

古くなったコンクリートの壁である。
縁に近づくだけで、滑り落ちそうになる。
しかし迂回は困難。

飛び降りる。






あった。

残っていてくれた。

大谷隧道。


光明電鉄が、己の「光明」を懸けて、
最後まで作り続けた、全長278mの隧道だ。





70余年の年月を経て、私の前に現れた大谷隧道。
阿蔵隧道と意匠は同様であるが、その”影”の深さは比較にならない。
まさしく廃隧道の風合いそのものである。

しかし今回、おばあさんへの聞き取りによって、かつて一度は隧道が完成し、人も通っていたという事が分かった。
そして、その崩壊と閉塞が半世紀以上も前であったということもだ。
つまり、その耐用年数は20年足らずだったということになる。

いくら放置されていたとはいえ、設計に不具合があったのではないかとさえ思える短命ぶりだ。
後の佐久間線にしても、敢えて光明電鉄の旧路盤を利用しようとした形跡がない。
どうやら、この峠は隧道を維持するのには向かない地盤だったようである。




隧道は、坑口から10m足らずで天井が抜けていた。

そして、穴の向こうから押し寄せた膨大な土砂によって、隧道の背丈は鉄道隧道らしからぬ高さに切りつめられていた。
この隧道内にも、それに連なる長い掘り割りにも、もはや本来の道床は寸分も残されていないと思われる。

私は、天井の穴の隙間から、土砂の山へと抜け出した。




隧道の残り、おおよそ270mは、誰にもアクセスできない地下の密閉空間になっていた。

抜け落ちた天井は地山自体の大崩壊を誘発し(逆かも知れないが)、隧道を消し去っていたのである。

特に印象深いのが、隧道の直上に最初から隠されていただろう軽トラック大の大岩が、まるでギロチンのように隧道の”のど首”を押しつぶしていたことだ。

その禍々しい光景からは、光明電鉄にはあらかじめ呪われた定めがあったのではないかと、そう思えてくるのである。





如何に地を睨み天を呪っても、それ以上進む術などあるはずもなく、私は撤退した。

しかし、何はともあれ片口でも残っていてくれたことに感謝したい。

ちなみに、未成に終わった隧道ではあるが、やはり架線を取り付けるための金具はちゃんと存在しており、これが光明電鉄の遺跡であることを確信させてくれた。




遊歩道のごく間近に口を開けながら、いかなる案内もされず、まるで隠さたような存在になっている隧道北口。

現状では確かに、接近するだけでも土砂崩れに巻き込まれるリスクはあるものの、その類い希なる歴史性を考えれば何らかの存置が望まれる産業遺構である。
未成に終わった当時としては、地元の債権者も多かったから色々な想いもあったろうが、今日となっては決して地域の汚点などではないように思う。




坑口から50mほど真っ直ぐな掘り割りが続き、その先はさらに50mほど杉林の中を細い道の跡が続いている。
その途中で右に、峠から下ってきた遊歩道が合流してくる。
そして、一緒になって船明の平野に脱出するのである。

暗い隧道と森を抜けた先に待つ、明るい平野。

最大の難所であったろう隧道を完成させながら、そこに鉄路を敷くことが出来ないまま送電停止に終わった電鉄の無念が、この強烈なコントラストに現れているように思えた。
私は、脱出を心した。




そこに、かつてあったという原野を横断する築堤は無かった。

遠くに船明集落の家並みが小さく見えたが、手前に広がっているのは、広大な再開発用地である。
盛んにブルドーザーが行き交い、ダンプが後退のサウンドを奏でている。
遊歩道を案内する標柱も取り外され、道を分断する深い開渠が建設されつつあった。
しかも、作業服の男達が忙しそうに動き回っていて、私もこれ以上進みがたかった。

田舎だと油断していたが、光明村は、船明は、変わってしまったようだった。
もう二度と、そこを目指して名付けられた電鉄があった事なんて、思い出してももらえなさそうな気がした。

いつになく感傷的な私は、もう一度振り返っては小さく見える隧道に深々と頭を垂れてから、遊歩道の峠を元へ戻った。





 終点、船明 


私は、知っていなければ絶対に読めない地名を「無理地名」とよんでいるが、「船明」もそのひとつだ。
これで「ふなぎら」。
絶対に読めない。
船(ふね)はいいが、明(ぎら)という音はどこから出てきたのかまったく見当も付かない。
ちなみに天竜川の対岸は「日明」という地名で、「ひぎら」とは呼ばず「ひあり」という。

船明集落のどこに光明電鉄の終着駅は置かれる予定だったのか。また、実際に着工されていたのか。
残念ながら現地にそれと分かるものはなかった。
もっとも、隧道以外にはめぼしい工事はなかったという観念での捜索だったから、さほど念入りに探していない。(実は南口より先に北口へアプローチを試みていたが、再開発の工事のため隧道擬定地へ近づくことは出来なかった。当然この時点ではおばあさんからの聞き取り調査前である)




船明側から見る大谷隧道のある鞍部。
この鞍部を見たときに、私の隧道のありかに関する勘は正しかったと思った。

手前の広い空き地には、かつて光明電鉄の築堤があった(おばあさん談)らしいが、再開発によってまったく失われてしまっている。
地形図などに描かれているここを横断する軌道工事跡らしき道も、実際には存在しないものになっている。

ちなみにこの原野だが、大昔に天竜川が今より大きく蛇行していた頃の河道の跡だと思う。






二本の隧道が無事発見されたので、今回の探索はこれで終わりである。

だが、帰宅後に追加の資料が手に入ったので、多少の後補を図りたいと思う。



右図は昭和26年応急修正版の5万分の1地形図「秋葉山」である。
出発前にこれを見ることが出来れば、隧道を探す手間はだいぶ省けたことだろう。(しかしその場合はおばあさんの証言を聞くことは出来なかっただろう)
図にはずばり隧道が描かれている。
しかも、隧道の前後にはいかにも廃線跡らしい緩やかな道が描かれている!

このうち大谷側は今回辿った道に等しく、船明側は再開発で失われてしまった。
また、この道の北端が船明駅予定地だと仮定すると、それは現在の国道152号の路上と言うことになりそうだ。
そこはまさに天竜川の川岸にあたる位置だったのだ。




さらに、『静岡県鉄道興亡史 』には、未成区間の工事についてこの様な記述があった。

第四期工事の二俣・山東間はレールが敷かれ駅舎も完成したが、送電設備が未完であった。第五期工事の山東・船明間は軌道敷設の造成だけに終わっている。

ここには隧道の件はまったく出てこないが、山東(やまひがし)という途中駅があったこと。そして山東まではレールまで敷かれ、駅舎も完成していたと言うのである。もし電車でなければもう一駅分は開業できていた事だろう…。
ちなみに、後の佐久間線にも山東という駅は計画された(それは地図中の「八幡」という注釈の辺りだ)。




最後に貴重な写真を紹介しよう。

TOMO氏は15年前、発見した両側の坑口を撮影していたのである。

その写真をお借りした。
(TOMOさんありがとうございました。)




15年ほど前の、大谷隧道船明側坑口(北口)。

季節は夏だろうか。
今回見たのよりも藪が深い。
また、TOMO氏曰く泥濘が深く、これ以上は近づけなかったとのことだ。

隧道内部の状況はうかがい知れないが、やはり坑門の背は低く、既に崩壊していたのではないかと思われる。





そして、


大谷側坑口(南口)

現在は埋め戻されてしまった坑口である。

当時は、杉材が立入を阻む柵になっており、洞内には入らなかったとのことである。

こちらもずいぶん天井が近いように見えるので、内部から土砂が流出しているように想像する。


合掌…。