廃線レポート 栗駒山地獄釜の硫黄鉱山軌道 前編

公開日 2018.7.11
探索日 2018.6.24
所在地 岩手県一関市〜秋田県東成瀬村


栗駒山の山中で、木のレールが発見されたらしい。

【栗駒山の位置(マピオン)】

栗駒山は、奥羽山脈の中央付近にある海抜1628mの火山で、広大な山域は秋田・岩手・宮城の三県に跨がっている。
私は平成18(2006)年まで秋田県に住んでいたので、この山のことはそれなりに知っているつもりだったが、木製レールがあるなんて話は全く知らなかったから驚いた。



『全国鉱山鉄道』(JTBキャンブックス)より転載。

気になる情報の内容に進む前に、木製レールについて少し説明したい。
レールを知らない人はいないと思うが、その素材としては何をイメージするだろうか。当然、鉄だろう。だからこそ、車輪を誘導する部材にレールを用いる輸送機関を「鉄道」と総称するのだ。
だが、鉄の入手や加工がままならなかった時代には、より入手や加工に易い木材を用いてレールを作っていたのである。

レール上に車両(トロッコ)を走らせた現代の鉄道の原点と呼べる輸送機関は、西暦1350年頃のドイツの鉱山やオーストリアの鉱山で用いられており、レールは木製だった。
保線ウィキの「木製レール」のページには、木製レールを復元した展示物の写真が掲載されている。写真を見れば、確かに鉄道の原点が木製レールのトロッコにあるという印象を多くの人が持つだろう。(そもそも、日本語の「鉄道」も英語では「Railway」であり、そこには「鉄」との関わりを感じさせない)

しかし、木材には耐久力の弱さという、重量物を繰り返し運搬するうえでは致命的な弱点がある。
そこで、木製レールの上面に鉄板を貼ることで丈夫にすることが発明された(摩擦係数の低下にも役立っただろう)。これを鉄板レールという。
右図の「B」の段階がそれにあたる。
やはり、保線ウィキの「鉄板レール」のページに写真が掲載されているのでご覧いただきたい。かなり現代の鉄道に近づいているように見えるだろう。

わが国における最初の鉄道もまた、木製レールと鉱山の組み合わせであったから、文字通りに先達の轍(レール)を踏んでいた。
それは、幕末にイギリス人技師の発案で建設を開始し、明治2(1869)年に開通した、茅沼(かやぬま)炭鉱(北海道)の鉱山鉄道である。(参考:wiki「茅沼炭鉱軌道」)(同じ頃、生野銀山(兵庫県)でも木製レールのトロッコが用いられていたともいう)
本邦における旅客鉄道のスタートは、よく知られているとおり明治5(1872)年の新橋〜横浜間の開業にあるが、それより3年早く北海道に鉄道が存在していたのである。
この茅沼炭鉱軌道では鉄板レール(木製レールに鉄板を打ち付けたもの)が用いられており(明治14年に鉄製レールに交換)、通称「木道」と呼ばれていたそうだ。鉄道ならぬ木道もあったのである。

以上、木製レールと、その改良品である鉄板レールについての基本的説明終わり。



栗駒山の山中で、鉄道黎明期を彷彿とさせる木製のレールが発見されたという衝撃的な情報を私が得た場所は、ツイッターである。

えぬ氏(@roadexplorerの2013(平成25)年11月3日のツイート(→)に、衝撃的な風景がッ!

マジで木製レール(鉄板レール)が敷かれてるっぽい…! これは、大変だ……。

えぬ氏のツイートから、その3日前に書かれた千葉達朗氏(@arukazanのツイートに行き着いた。

私が確認できた中では、このツイートが今回の発見の第一報である。マジで凄い発見!!

かくいう私も、栗駒山の山中に硫黄鉱山の跡地が存在することは知っていた。
それどころか、平成17(2005)年6月に仲間と探索をしたことがあった。
右の写真はそのときに撮影したものなのだが、地形をよく見て欲しい。えぬ氏の写真の背景とそっくりでしょう?

この場所は「地獄釜」と呼ばれている景勝地の一つで、爆裂火口の跡地といわれている。
そして明治時代に硫黄の採掘が行わた場所でもあり、今もその跡が残っているのである。
平成17(2005)年の探索では、えぬ氏が木製レールを撮影した辺りまで私も立ち入っているが、レールを見つけた記憶はない。
つまり千葉氏のツイート通り、「最近の大雨で出来た溝の底」に埋もれていたレールが偶然出土したのだと考えられる。


唐突だが、ここで皆様には少し残念なお知らせがある。
この案件、林鉄をはじめとするトロッコ大好きオブローダーの私としては、すぐに確かめに行くべきだったのに違いないのだが、私がこの情報をキャッチしたのは2017(平成29)年である。
先人お二人のツイートから4年も経ってからだった。

果たして、現状はどうなっているのか。
おそらく偶然の産物として地上に出現した木製レールは、今もその貴重な姿を留めているのであろうか。
ネット上にも近況の報告はなさそうだ。
情報を知ってから半年あまりが経った2018(平成30)年6月24日、消雪を待ってようやく現地を訪れることができた。




奥羽山脈の頂上で、鉄道の原点的風景を見た?!


2018/6/24 6:21

ここは須川温泉の駐車場だ。国道342号は、この地で奥羽山脈を越える。
海抜1120mという東北地方の国道における有数の高所だが、県境である峠のてっぺんは広い駐車場になっていて、そこからほんの少し秋田県側や岩手県側に下った位置に、須川温泉を利用する二つの山小屋風温泉施設がある。年の半分は国道共々雪に閉ざされる、半年限りの世界である。

駐車場に立って南を見れば、のっそりとした山容の栗駒山(1626m)が全天を背負っている。また反対に目を向ければ(チェンジ後の画像)、ここより高い場所がほとんどない秋田県の広い空が広がっている。ここが雲上の地であることがよく分かる風景だ。

須川温泉は栗駒山の8合目にあるといわれる。
それだけの高所、加えて奥羽山脈の核心部という極めて深山めいた場所(最寄りの人里から20kmは離れている)に、この温泉場は立地している。
そんな僻地が、今回の木製レール探しの現場である。



正直、このような場所に温泉があるのはまだしもとして、鉱山があったということが私には驚きだ。
今日でこそ国道が通じていて夏場は自動車でも辿り着けるが、それは昭和30年代以降の話であり、硫黄鉱山が稼行していたといわれるのは明治時代の中頃だ。遙かに古い。
私はその古さの証拠になりうるものを2005年の探索で目にしていた。
今回新たに判明した木製レールの存在は、その古さをさらに確信へと近づける証拠品になる可能性が高い。

古くから“ヤマ”とも称された鉱山は、しばしば信じがたいような山奥にあって、今日の我々を驚かせるが、この地もその一例であろう。

ここで改めて、木製レールの発見地とみられる“地獄釜”の場所を地図上で確かめておこう。(→)
須川温泉から栗駒山の山頂へ至る約4kmのよく踏まれた登山道(須川登山道)があるが、地獄釜はそのメインルートからは少し外れた海抜1150m付近にある爆裂火口跡の窪地だ。
須川温泉からはわずか500mほどの至近であるから、訪れることは容易い。



6:35

今回の探索は私とHAMAMI氏の2人で行った。
2005年の探索メンバーにも彼は入っていて、共に13年ぶり2度目の地獄釜訪問である。
駐車場でひとしきり荷物を整えてから、草露の輝く登山道へ歩みを進めた。

須川温泉には栗駒山の登山口が隣接して2箇所あって少しややこしいが、我々は国道の南側にある駐車場にある登山口を選んだ。もう1箇所の登山口は須川温泉の建物の脇にあり、そちらの方がよく目立つし利用されている。どちらから入っても地獄釜へ行けるが、私たちが通ったルートの方が近いはず。

石畳が整備されていてとても歩き易い道を行くこと100m足らずで、最初の分岐地点に行き着く。



6:37 《現在地》

「栗駒山県境登山口」と書かれた道標がある最初の分岐地点。我々が入ってきた登山口の正式名らしい。確かに登山口は県境線上にあり、駐車場は秋田県だが登山道は岩手県という微妙な立地だった。

この分岐は右折する。
道標によれば「栗駒山頂賽の河原経由4.2km」の表示がある方だ。
直進の道には「栗駒山頂名残ヶ原経由3.7km」とあり、二つの道はいずれ名残ヶ原で一つになるのだが、地獄釜へ行くには右折する必要がある。

これは山頂へ向う上では明確な迂回コースなので利用者も少ないらしく、さっそく石畳がなくなって登山道らしい岩浮きの地道が始まった。



分岐からやや急な坂道をまた100mばかり登ると、周囲の灌木がさらに低くなり、同時に前方に大きな空間が見えてくる。

その先に聳え立つ屏風のような尾根は、草一つ生えていない完全な不毛。

印象的なこの光景こそ、忘れもしない、そう――

地獄釜。

(この直後、全天球カメラを車に忘れてきたことに気付いた私が走って取りに戻ったので10分消費)



6:50 《現在地》

最初の分岐から200mも進む頃には、登山道の周囲はすっかり荒涼の景色に支配された。
そして右前方に“謎の石垣”が近づいてくると、そこが道標地点「旧噴火口」である。

ここでも道が分岐しており、直進が賽の河原経由で名残ヶ原(および山頂)へと通じる登山道、左は今回の目的地たる地獄釜内部へ通じる行き止まりの道だ。
もっとも、左の道は地形図にも現地案内図にも書かれておらず、ただ踏み跡が見分けられるだけである。
我々もここが分岐地点だったという13年前の記憶をすっかり喪失していて、一度は直進し50mほど急坂を登ったところで違和感に気付いて戻ってくる羽目になった。(7分消費)

写真でも大きな存在感を見せている石垣だが、これも硫黄鉱山の施設跡だと推測される。
ここから先、鉱山跡の廃墟感を感じさせるものが矢継ぎ早に現われる(はずな)ので、注目して欲しい。



分岐地点から左を向くとこのような景色である。

背後に見える白茶けた尾根は、間違いなくえぬ氏の写真と同じ場所だ。
やはり木製レールの在処は、この先の地獄釜なのである!
まだ見ぬ木製レールとの邂逅なるか?!
私は走り出したいような興奮を抑えるのに苦労した。

まずは、地獄釜の全貌を見渡す展望台のようになっている目前の丘上を目指す。




6:58 《現在地》

丘に近づくと、いかにも火山噴出物らしい白い地面に、赤茶色い小物体がたくさん散らばっていることに気付く。

その正体は、煉瓦である。

この山中に、古(いにしえ)の建築物が存在していた、何よりの証し。
13年前の訪問も、この煉瓦の存在を聞きつけたことによる。
以前と変わらず100どころではない相当の数の煉瓦が散乱していた。
煉瓦の中には低く組積されているものも見受けられるが、以前とは配置に違いがあり、登山者が戯れに移動させたのだろう。逆に前はあった、煉瓦で書かれた「須川」という文字はなくなっていた。


丘の北側に隣接する、煉瓦の密度が最も濃い場所。

ここに建造物があったのは間違いないと思うが、あまりに風化が進んでいて、全くもとの形を想像しえない。
硫黄鉱山の遺物であるという証拠もないといえばないのだが、煉瓦という産業色の濃いものを、自動車道の開通以前にこのような僻地へ大量に持ち込んでいることを思えば、単なる物見遊山の施設ではない可能性が高い。
高所の風雪に耐えるように特に頑丈に作られた鉱業所の事務所か、何かを焼成する窯か、火薬倉庫か、いずれにしても明治時代にあった硫黄鉱山の残骸だと私は考えている。

にしても、何があればこんなにも風化するのだろう。
単に煉瓦がばらばらになっているだけでなく、粉砕している煉瓦が多いことも不思議だ。
何か爆破的な現象に晒されたのではないかと思える姿なのだが、原因が分からない。
気象庁のサイトによると、栗駒山では昭和19年に小規模な水蒸気爆発が起きており、その現場はここから約1.3km南東にある昭和湖ということなのだが…。



この鉱山の詳細を調べようとしたことがあるのだが、いろいろと分からないことが多い。頼りになる『新岩手県鉱山誌』や『秋田県鉱山誌』にも、この鉱山のことは出ていなかった。
ただ、『角川日本地名辞典秋田県』の栗駒山の解説文に、「剣岳の北の、八幡・極楽野と呼ばれる所に、多数の硫質噴気孔があり、硫黄が堆積。藩政期には、これを採掘、明治30年頃、三井組が鉱業所を設けて、大規模に採掘し、硫黄鉱床からは、美しい東天紅の鶏冠石も産出した」とあるなど、明治期に硫黄鉱山があったことは、いくつかの文献で明らかになっている。

なお、ここにある煉瓦の大半には、同一の刻印がなされている。
この刻印はとても目立つものであり、煉瓦の出所を示す最強のヒントなのだが、残念なことに、それがどの製造所を示すのかが分からないのである。




また、ここには通常の煉瓦とは異なる建材も多く見られる。

この写真で私が踏んでいるものもそれで、風合いからして煉瓦というより鉱滓を原料に作った゚石(からみいし)のようにも見えるが、刻印はなく正体不明である。
これは石畳のように一部の地面に敷かれていた。




この写真に写っているような薄くて大きな煉瓦もあった。
この表面には、「NTK34」と読める刻印がなされており、おそらく耐火煉瓦ではないかと思われるが、刻印の意味するところは不明である。

以上見てきたような様々な種類の煉瓦が、30m四方の丘状地に散乱している。
煉瓦といえば、明治の鉄道登場の風景を代表する建材であり、それゆえ我々交通史を愛する者にとって、文明開化を象徴するアイテムではないだろうか。
それが非文明世界の核心とも思えるような奥羽山脈の絶巓に散乱する光景は、強烈なギャップを感じさせていて、惹きつけられる。

そのうえ、今回はなんとこの先に、明治の鉄道登場の風景をそのまま遺存させている疑いのある木製レールの軌道跡が発見されたというのであるから、出来すぎていて怖いくらいだ。

いよいよ、地獄釜の内部へ進もう。




“煉瓦の丘”から見下ろす地獄釜。

爆裂火口跡らしい半円形窪地で、最も低い位置に小さな火口湖のような水溜まりがあったはずだが、まだ見えない。
ここから底まではごく緩やかな下り坂になっていて、150mくらい離れているだろうか。
いかにも噴気孔がありそうな雰囲気だが、熱気も匂いも感じない。(もっとも、googleマップの過去のイメージによれば、
地獄釜の一部は積雪が少なく地肌が露出する状況になっており、地熱が皆無ではないことが分かる)

栗駒山中には硫化水素ガスの濃度が濃いことを理由に立入禁止の看板を立てている場所が今もあるが、ここにはそれもない。
また、13年前にはここに「地獄釜」と書かれた立て札があったが、なくなっていた。



丘から約50m前進。

まだレール現われず。

ただし、歩行している低地には水が流れた痕らしき溝が現れ始めた。

千葉氏のツイートに「溝の底」というキーワードがあった。発見の状況に一致してきている。



7:01 《現在地》

丘から約100m前進。

まだレール現われず。

ただし、歩行している低地の溝は、一層鮮明に深くなり、いよいよ“釜”の底に近づいている。

13年前の写真と比較すると、溝の有無は明らかである。

溝の底に、全視神経を集中させて進む――




あっ!

この不毛地には不似合いな木材の気配が、

並んでいる気がする! 枕木か!?




あったけど

あったけどっ!!



失われかけている。


でも、あったっ!

木製レール、見られたッ!