我々、森吉合同調査隊の最終目標であるダム付け替え線全線踏破への、最大の道程標である「三号橋梁までの踏破」の瞬間が、迫っていた。
昭和43年の廃止後、軌道敷跡を遊歩道として利用した事はないとの事でした。なるほど、想像していたとおりの現実だったようだ。
ただし、平田から軌道敷跡を個人で歩いて太平湖へ歩く方は結構いたようであります。
当町企画観光課長も歩いた事があるとの事でありました。
森林軌道敷を軌道車が走っていた当時は、脱線事故等、相当数の事故があったようであります。なんと!
また、軌道敷を歩いていた方がひかれた事も何度かあったようであります。
現在、森林軌道敷跡を遊歩道として整備する計画はあります。
市町村合併の際の町づくり事業計画に盛り込む予定であります。
・鉄橋の撤去時期は平成9年である。鉄橋撤去の原因や施工方法などについては、現在調査中とのことであるが、隧道などが「林」から「町」へと移管されていた事実は、町が構想する将来の再利用について、より実現性を感じさせる。
・林鉄廃止時には、軌道敷地・隧道橋梁等工作物を森吉町に移管されている。
私が高校生の頃友人達と夏休みを利用し湯ノ岱小(中?)学校の体育館(木造で小さかった)に寝泊まりしそこいら近辺を徘徊した思い出があります。
昭和38年の事でした。
(当時)合川駅から国鉄阿仁合線で阿仁前田まで行き、その森林鉄道に乗せて貰って湯ノ岱集落まで行った覚えがあります。
そこから、索道を歩いて近くの発電所や小又峡に行った記憶があります。
断片的にしか浮かんで来ないのでヨッキれんさんの地図を見ても何処なのかは判りませんが、(やや長い)隧道を過ぎて橋を渡り、川の滑で遊んだことを覚えています。 [741より]
私達が歩いた隧道は多分200mかそんな程度の物だと思います。
まっすぐで向こうの出口が小さく見えた様でしたが、定かでは・・・。
又、一つだったか二つ連続してあったのかは覚えていません。
橋は、隧道を抜けて少しで(2−30mとか)あったと思います。
木造の橋桁で、線路の真ん中に板を敷き歩ける様に造ってありましたが、湖(今の南清水淵沢河口辺り)の上に懸かる結構長いものじゃなかったでしょうか。
森吉ダムは(当時)上がらせて貰えたので、多分その近辺で軌道跡(今は道路?)が見つかるかも知れません。
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