廃線レポート  
森吉林鉄 第W次探索 その8
2004.5.14

 
我々、森吉合同調査隊の最終目標であるダム付け替え線全線踏破への、最大の道程標である「三号橋梁までの踏破」の瞬間が、迫っていた。


 5号隧道 続々出てくる新商品!
2004.5.4 11:10

 

 極狭の横穴からの生還を笑顔で迎えられた私の下半身は、大変なことになっていた。
なんと、本日探索前に麓のコンビニで購入した合羽のズボンが、ものの見事に裂け、それこそ足から1mくらい引き摺っていたのだ。
こいつは許せん! 実名公開だ。
サンクスの合羽のズボンが、私の森吉探索の最中、僅か購入から5時間で裂けて、使い物にならなくなったのだ!!

…などとむなしく叫んでみても、どう考えてもオーバースペックな使い方をしていたのは私。
スマン、合羽!
スマン、サンクス。

写真は、洞床で発見された「MOWSONの新商品?!」謎の、余りにも謎すぎる風化具合の空き缶詰めである。


 “穴のほっとステーション”MOWSON、商品番号6番

こいつは未だにおつまみの定番として、良くお目に掛かる「でん六豆」である。

でん六株式会社のサイトによれば、昭和28年に新発売となったでん六豆は爆発的な人気により、昭和37年には社名も「でん六」と改められたらしい。
そんなでん六社は、調べるまで知らなかったのだが、東北は山形市に本社を置く会社だったのである。
しかも、全国販売の足がかりとなる東京支社が開設されたのは、昭和43年と、まさに森吉林鉄の廃止と重なる。

ひっそりと舞台を降りた森吉林鉄と引き替えに、全国へと輝かしい一歩を踏み出したでん六豆が、森吉林鉄は核心の5号隧道内に残っていたことは、出来すぎた偶然である。

っていうか、おれ、煽りすぎ?


 いやいや、まだでん六で引っ張るぞ。

パッケージの裏には、ナイスな歌詞が。
これからは、君もでん六豆を食べるときの擬音として『ソリソリ』を使って欲しい!

それは置いておいても、この写真の少し下に、確かに我々は読み取ることが出来た。
今まで、どの商品からもスッカリと消えていた、製造日のプリントを一部。


製造日は、 「43.10.●●(読み取れず)」 だった。
ずばり、林鉄廃止年に一致する。
これには、軽く陶酔した。
一同感嘆。


“穴のほっとステーション”MOWSON、商品番号7番

 新日本電気製の単一電池である。
一カ所にまとまって幾つか落ちていたものの、余りにも腐食著しく、さすがに触れるのも躊躇われた。
全部単一であった。
古い探索者がここで、懐中電灯の電池が切れ、交換して棄てたのだろうか。
これは、軌道廃止後軌道が遊歩道として利用された期間があったとしても、既に照明設備などは使えなくなっていた事を示唆する。



 そのうちから一つ、比較的状況の良いものを撮影してみた。
見たこともないパッケージである。
しかし、サイズなどは現在もよく見る単一で間違いない。
自衛官氏の職場では、今も見られるという話だが…マジですか?
パッケージの小さな文字を拾ってみると、メーカーは「new nippon electric company」とある。
メジャーな「NEC(日本電気)」と似ているが、微妙に違う。
そのまま和訳して「新日本電気」で調べると、出てきましたよ。

やはり、日本電気関連の企業であったようで、昭和28年に「新日本電気」の名で、日本電気の照明部門としてスタート。
その後、米国企業との合併や解消などを経て、昭和58年に「日本電気ホームエレクトロニクス」に社名変更。
さらに、2001年にはNECライティングなどに分社した後に、同社は解散している。
蛇足だが、私はこの流れを調べていて、またもハッとした。
日本電気ホームエレクトロニクスと言えば、古参のゲーマーだったら知らぬものはないはずの、あの伝説的ホリプロ的家庭用ゲーム機“PCエンジン”の、メーカーでる。
こんな場所で、まさかPCエンジンの源流にたどり着かんとは…何処までも深すぎる森吉林鉄である。

ちなみにこの電池、電池をコレクションしている方に聞いてみないと確かなことは分からないが、レアっぽい。
新日本電気に至っては会社自体が現存しないが、親会社であるNECも電池の生産からは撤退して久しい。

“穴のほっとステーション”MOWSON、商品番号8番

次なる商品は、「陸奥パン」製の、その名もズバリの「トースト食パン」である。
現在は、この会社も既に存在しない。
その名の通り、青森県で製パン・販売を営む会社で、一時は県下第二位のパンメーカーとして名を馳せたようだ。

もう、ここまでゴミの発見が続くと、いい加減笑いが止まらない。
次は何が現れるのかと、全員が地面ばかり見ながら歩いていく。
そして、期待に違わず、次々と新商品が出現してくるのである。

MOWSONの強力すぎる新商品攻勢だ!


“穴のほっとステーション”MOWSON、商品番号9・10番

 まずは、右のパックだが、こいつは余りにも謎だ。
そもそも、「オイオイ、おやつにゼリービンズとはいつの時代だよ」というツッコミが初めにありきなのだが、このメーカー名らしい「福井」と言うのが、グーグルを持ってしても探せない。
やはり、もう滅亡してしまったのだろうか。
パッケージ上部に誇らしげに記された白抜きの『名誉金賞牌受賞』の文字が、何らかのヒントとなりそうだが…。

ちなみに、この名誉金賞牌は、全国菓子大博覧会という、明治44年から現在まで続く菓子の祭典での賞の一つだ。
次回は、平成20年に第25回大会の開催が予定されている。
先に挙げたでん六豆も、第十六回(昭和40年秋田にて開催)に最高賞である名誉総裁賞を授与されている。
我こそは検索マスターと思う貴方、ぜひこのゼリービンズの正体を解き明かして欲しい。


 もう一点、多分同じ場所で食され捨てられたらしい空き缶には、「森永グレープジュース」とあった。
こいつの素性は容易に判明するかと思いきや、現在は森永自体がコールドドリンクから撤退してしまっているようで、やはりコレクションされている方の情報が頼りという状況である。
なお、この缶のみ、清掃奉仕活動として回収させて頂いた。
今思えば、全部持ってくれば良かったかもと思っているが…。

とりあえず、素朴な疑問。
このジュース、飲み口は何処なの?
見あたらないんですけど……。
底はすっかり抜けてしまってるのだが、まさか底側に飲み口があった?



 偵察時に発見・紹介した外へと続いている横穴である。
このあと、この横穴が何処へと続いているかが、この日最後の探索焦点となるわけだが。




 ライトサーベルを振り回すHAMAMI氏。

 …冗談です。


“穴のほっとステーション”MOWSON、最終商品

 極めつけが出てきました。
一同爆笑の、「Watanabe Hi・COLA INSTANT」、いわゆる粉コーラである。
パッケージ印字によれば、
「軽快な泡立ちと、のどもとすぎる爽快さ……
手軽な渡辺ハイ・コーラはこれからのお飲み物です」

この、渡辺製菓というメーカーも今はない。
というか、昭和46年に早々と現在のカネボウフーズに吸収され消えている。
昭和42年頃までは粉末ジュースの最盛期であり、テレビCMもガンガン流し、時代の寵児となった粉末ジュースの“勇”渡辺製菓であったが、昭和44年に人工甘味料チクロが使用禁止となったことなどによって粉末ジュースは店頭から完全に消滅(現在は粉ジュース自体は復活)。
急速に業績の悪化した同社もあっけなく倒れたらしい。


林鉄が廃止された年のままに時間が止まっていた、5号隧道。
その隠された深部には、工事当時の時間すら温存されていた。

そんな、未だかつて無いレトリックなトンネルワールドにメロメロの私たちだったが、遂に隧道は終焉。
ハイコーラのパックは今も、外の光が届く沼に、浮かんでいる。
 

付録2 森吉林鉄の真実を解明せよ

 いよいよ第W次探索の成果のご紹介も残り僅かとなったが、今も机上での探索は続けられている。
しかも、それは私だけではなく、合同調査隊の外をも含めた、多くの方の協力を頂いている。
そういった活動の中から、我々が手にした、或いはご提供頂いた情報を、抜粋してご紹介しよう。



「森吉林鉄が遊歩道として利用されていた実績があるのか?」
「歩行者が軌道で事故等に巻き込まれたことがあったか?」
「軌道跡の今後の整備計画はあるのか?」

の3点について、森吉町役場に私がメールで問い合わせてみました。
すると、2回に分けて大変丁寧なご回答を頂きました。


昭和43年の廃止後、軌道敷跡を遊歩道として利用した事はないとの事でした。
ただし、平田から軌道敷跡を個人で歩いて太平湖へ歩く方は結構いたようであります。
当町企画観光課長も歩いた事があるとの事でありました。
 なるほど、想像していたとおりの現実だったようだ。
森林軌道敷を軌道車が走っていた当時は、脱線事故等、相当数の事故があったようであります。
また、軌道敷を歩いていた方がひかれた事も何度かあったようであります。
現在、森林軌道敷跡を遊歩道として整備する計画はあります。
市町村合併の際の町づくり事業計画に盛り込む予定であります。
 なんと!
軌道が現役だったときから歩道として歩く人がおり、しかも人身事故まで起きていたとは!
無事では無かったんだろうな… やっぱり。
私たちが探索している場所に、尊い命が失われた箇所があったことは間違いない。
それがどこかは余り知りたくないが、待避口などが非常に多く、また丁寧に案内されていたのは、全線の大部分を占める隧道内での人身事故が存在していたということなのかも知れない。
登りはいざ知らず、下りは燃料節約のためにもそれなりの速度を出していただろうから、確かに命懸けだったはずだ、互いに。
また、さらに意外だったのは、今後軌道跡を整備する計画があるという点だ。
落橋処置がとられてしまった3号橋梁や、老朽化が進む各隧道など、現地の状況を見る限り俄には信じがたいが、今後の進展を注意深く見守っていきたい。
数十年後には、本当に観光トロッコが運行されていたりして…。
現実的にダム湖畔の軌道跡を再利用するならば、軌道跡2号橋梁とグリーンハウス間(現遊覧船発着所)の航路を新設し、2号橋梁東詰から状態の良い5号隧道を歩道として整備、3号橋梁を新設し、その東詰から現在の遊覧船小又峡発着場までのアクセス歩道を再整備(この区間現在の状況は不明だが、現役では無い)したら面白そうだ。
<遊覧船>→<隧道歩道>→<湖を渡る橋>→<小又峡>→<遊覧船>と言う観光ルートは、人気が出るかも知れない。


「3号橋梁の撤去の経緯について」
関係各所への聞き取り調査を敢行してくれたのは、掲示板の常連細田喜仁様である。

その過程で、次のような事実が判明している。

・鉄橋の撤去時期は平成9年である。
・林鉄廃止時には、軌道敷地・隧道橋梁等工作物を森吉町に移管されている。
 鉄橋撤去の原因や施工方法などについては、現在調査中とのことであるが、隧道などが「林」から「町」へと移管されていた事実は、町が構想する将来の再利用について、より実現性を感じさせる。




当サイト掲示板過去ログにも、、実際に歩いて小又峡へと行ったという方(下野爺様)の証言がありました!
まさしく、生き証人の貴重なカキコの一部を転載します(なお、記事NO[746][741]です。)

私が高校生の頃友人達と夏休みを利用し湯ノ岱小(中?)学校の体育館(木造で小さかった)に寝泊まりしそこいら近辺を徘徊した思い出があります。
昭和38年の事でした。
(当時)合川駅から国鉄阿仁合線で阿仁前田まで行き、その森林鉄道に乗せて貰って湯ノ岱集落まで行った覚えがあります。
そこから、索道を歩いて近くの発電所や小又峡に行った記憶があります。
断片的にしか浮かんで来ないのでヨッキれんさんの地図を見ても何処なのかは判りませんが、(やや長い)隧道を過ぎて橋を渡り、川の滑で遊んだことを覚えています。 [741より]

私達が歩いた隧道は多分200mかそんな程度の物だと思います。
まっすぐで向こうの出口が小さく見えた様でしたが、定かでは・・・。
又、一つだったか二つ連続してあったのかは覚えていません。
橋は、隧道を抜けて少しで(2−30mとか)あったと思います。
木造の橋桁で、線路の真ん中に板を敷き歩ける様に造ってありましたが、湖(今の南清水淵沢河口辺り)の上に懸かる結構長いものじゃなかったでしょうか。
森吉ダムは(当時)上がらせて貰えたので、多分その近辺で軌道跡(今は道路?)が見つかるかも知れません。

 氏が実際に歩いた道は、どの区間だったのか?
残念ながら、特定は出来ない。
しかし、語られるその状況は、いかにも森吉林鉄である。
当時昭和38年は軌道も現役であったはずだが、そういった危険を感じなかったのかなど、なお興味は尽きない。





今回の紹介はここまで。
しかし、森吉では他に電気設備関連の発見も多く、その道に詳しい探索隊メンバーふみやん氏などが、詳細なレポートを作成中です。
いずれ氏のサイトで公開された折りには、改めてご案内できると思います。

今後も、皆様からの新情報などを掲載していきますので、お楽しみに!
レポ本編は、いよいよ次回で最終回です。
こちらも、おたのしみに。

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