廃線レポート  
森吉林鉄 第X次探索 その4
2004.8.6


 森吉林鉄の森吉ダム建設(昭和29年)に伴う路線付け替えによって新たに建設された隧道は、全部で8本だった。
幾多の困難を乗り越え、仲間達の力も借りて、いざ8本目の隧道に入る。

こんなにワクワクできる森吉林鉄の隧道体験は、これでし納めなのか…。
一抹の寂しさが、私を包む。



6号隧道 入洞 
2004.6.13 10:07

 これまで森吉林鉄で遭遇してきた隧道とよく似た、6号隧道。
既に出口が見えており、さして困難そうには見えない。
坑門は、コンクリで巻き立てられているが、さらにその外側には、支保工の跡か、朽ちかけた材木が見られた。

 

 坑門を前に一同小休止。

これより、最後の隧道に入洞を開始する。

メンバーは互いに談笑しているが、私は神妙な心持ちであった。



 入口付近で発見された、三本のビン。
上段の二つは現在でもお馴染みのコカコーラとファンタ(味は不明)であるが、右のものは何だろうか?
また、これらは昭和40年代末頃の遺物であろうと想像できるが、こうしてみるとビンの形がまちまちである。
様々なバリエーションのビンがあったようで、現在は市場として成熟したペットボトルに、各社意匠を凝らしたデザインを採用しているのと同様、当時のビンジュース全盛を感じさせるものである。

また、入口付近にいくつものビンが残っていた訳だが、これらが泥などに埋没することなく存置していたのは、廃止後の洞内に大きな土砂流入や水没が起きていないことを意味する。
そう言う意味で、この6号隧道が多分に往時の姿を残しているのではないかという期待を、私に抱かせたのである。

そして、その期待は間もなく現実のものとなる!




写真は、洞内に入り間もなく発見した焚き火の跡だ。
まだ真新しいようにも見える、枕木をくべて燃やした跡。
しかし、焦げた場所からもキノコが生えていて、見た目よりも古いものかも知れない。
暗い洞内で焚き火をした何者かに、どのような事態が起きていたのか?

あまりに手掛かりが無く、想像することより他はないが、無事に帰れたのであろうか…。
湖面を渡る自家製ボートなどを用いない限り、容易に接近できる場所ではない。
そのことは、これまでの、そしてこれからのレポートをご覧頂ければお分かり頂けるはずだ。
もう手遅れだが、心配してしまった。



 入口付近の洞内に水没はなく、敷かれたままの枕木を踏んで歩く。
殆どが素堀であるが、岩盤は堅牢であり、目立った崩壊もない。
出口の見え方から、直線の隧道の延長は300m程度であろうと類推できた。
しかし、そう長くもない隧道は、発見の宝庫であった。
その息もつかせず訪れる発見の連続は、「森吉最大のアトラクション隧道」と呼び声の高い「5号隧道」に次ぐものであったが、隧道名からも分かるとおり、本隧道と、あの5号隧道とは、3号橋梁という途絶橋梁を挟むが極めて近く隣接しているのである。





 6号隧道 数々の発見 
10:12

 さきほど7号隧道内でも発見されていた小さめの距離標らしきものは、確かに距離標であったことが確かめられた。
7号隧道内にも多数あったのであるが、全て低い位置にあったために長い水没の影響で黒変しており文字などは見つけられなかった。
しかし、ここの物はご覧の通りの素晴らしい保存状態で、ツートンのペイントも鮮やかだ。
黒くはっきりと『26.3』の数字が記されており、これまでに発見済みのキロポスト2本(7号隧道内の『27』と4号隧道内『24 1/2』)の間を補完する100メートル刻みの補助的な距離標であろう。
確かに、洞内には100m刻みでこの物体が散見された。
ただし、今回探索した7号・6号の2隧道以外では、この100m標は発見されておらず、そもそも設置されていたのかも分からない。
さらには、洞外では一切発見されていないのも、謎である。
隧道内部という特殊な環境が、全く手入れのない40年近くをして、これら貴重な遺構を存置せしめたのであろうか?




 洞内で発見した順序では、この『26.4』が先である。
写真配置の都合上、紹介の順序は逆とした。

この『26.4』の100m入り口側には、4号隧道で見られた『24 1/2』と同じ、大サイズのキロポストが設置されていたはずだが、そこは洞外であり、発見できなかった。

しかし、部分的であったのかも知れないが、わざわざ100m刻みで距離標を設置していたこの森吉林鉄というのは、本当に本格的な鉄道であったのだと感心する。
特に、このダム付け替え区間については、適当な保守さえ続けられれていれば現在でも利用が出来たのではないかとさえ思われるのだ。



 もはや外の光は殆ど届かない洞内で、植物とも菌類ともつかない怪しいものを発見した。
全体が白く、艶やかな茎状の部分は根元から二つに分かれている。
その白さは普通の光合成で生きる植物には見えない。
また、葉っぱも見あたらない。
しかし、茎から上の形状だけを見れば、まるで綿を落とした秋枯れのタンポポのようである。
周りにもこれ一つしか見あたらなかったが、おそらくはキノコ? 

私は初めて遭遇したのであるが、実はこれ同じ物と思われる発見例がある。
しかも、私も行ったことがある、あの「仙人隧道」内だ。
詳しくは、相互リンク先のこちら『自己満足の世界』様にて。

とりあえず、『洞窟タンポポ』と名付けておこう…。 
無論、MOWSONの新商品である。
(ちなみに、私はコンビニ『ローソン』で働く身である。)



 微妙なバランスのまま空中に静止しているように見える架線。
この様な不安定な状態で、どれほどの時間を経ていたのか?
落ちれば今は無事な電球も割れてしまうだろう。
廃止後僅か20年にも満たない宇津トンネルでは、無惨に墜落し地面を這う架線や配線を目撃したが、ここではさらに長い期間頭上に留まり続けている架線が、まだ無数にある。
シンプルな物の方が、保守を離れても長く残れるのだろう。

そう考えると、精密精緻な機械に支えられている現代社会など、一旦人の営みが止まれば、あっという間に機能を失うのかも知れない。
そんなことを考えさせられる、静かな洞内である。





 *よっきれん は 『きんのガマ』を、てにいれた!


色つや形とも、申し分のないガマガエル(体長5cmほど)が、我々の接近にも動じず、ただじっと洞床の濡れた土に這い蹲っていた。
彼のつぶらな瞳は、見開かれたまま、ゴツゴツした内壁に注がれている様だったが、その心中は計り知れない。
入り口から100mは入っており、よもや蝙蝠以外の生物の存在を想定していなかったから、驚いた。
また、この隧道に関して言えば、蝙蝠の姿も見えない。
天敵不在のガマ天国として、彼の子孫がいずれは洞内外を埋め尽くすのかも知れない。

彼は、黙して語らず、我々が立ち去るまで微動だにしなかったが、なにか大きな存在に思えた。
血統証付きのガマっぽい。




 入口付近から見たときには気がつかなかったが、中央付近には内壁の崩壊した箇所があった。
現在は、落ち着いているようだ。

いよいよ、最後の隧道も後半である。



 架線に導かれるようにして、大きさを増し始めた出口の明かりを目指す。
あの光の向こうには、恋い焦がれたといっても過言ではない、あの3号橋梁が待ち受けているはずだ。
過酷でありながらも、甘美だった森吉との逢瀬は、遂に最終場面を迎えようとしていた。

噛みしめるように、隧道を歩く私であった。




 出口が近づくにつれ、体感では感じられないほどの緩やかさであるが、下っていく。
それが分かったのは、内壁両側に写っている、汀線の痕跡である。
進むにつれ、その高さが増していくのだ。
私はプレ隊による排水の成果とも思ったが、パタ氏曰く、プレリサーチの時にも、この様な状況であったという。
つまりは、これから進む出口側において、汀線跡が残るほどの長期間に亘り水没し、それから水が引くという現象が起きたことになる。
全ては自然の成り行きに起きたことであろうか?
或いは、我々同様に隧道を通ろうと排水した先人があったというのか?

それは未だに分からない。



 6号隧道 遂に脱出へ 
10:18


 パタ氏の背中越しに、いよいよ大きく、明るくなってきた出口を見る。
そして、この辺りから出口までは、再び水面が洞床の上に来る。
水深は、進むにつれ急激に増し始め、最後には、膝上近くまで来た。
内壁に残る古い汀線の通りの水位であれば、ここもまた腰以上の入水を覚悟せねばならなかったに違いない。




 プレ隊は、ここで異臭騒動に見舞われたそうだが、今回も状況は変わっていないようである。
原因は、淀んだまま殆ど排水されていない出口付近のこの水溜まりが、夏の高温で変質している為で、鼻の効かない私でも、微かに腐敗臭を感じるほどだった。
夏場は藪が酷く、あまり廃隧道などに遭遇することもないが、隧道内部の異臭・悪臭、さらに進んで有毒ガスなどの危険は、冬場よりも大きい。
この光景を前に、我々はそのことを実感した。

 あなたはそれでも、廃隧道を愛せるか?


私は、愛せる。 カナ?

 

 二本の鉄条によって、まるで「進むな」とばかりに遮られる出口。
かつてこれほどに簡易なバリケードは見たことが無く、或いは別の意図から設置された物なのか?
最終局面を前にした我々の心の高まりは、見る物見る物、全てを劇的な存在として捉えるのである。

緑の森と、
青き湖と、
灰なる崖とに、四方を遮られ、
そこへ至る唯一の道も、いくつもの深き泉に閉ざされていた。
そんな40年近い時間を、我々は解き放つ。

2004年の今、WEBという場によみがえる、森吉林鉄の在りし片鱗。
林鉄というこれまでの常識だけでは計れない、森吉の真の姿を。






 腐った水溜まりに半ば沈み、それ自体も腐食した物体。
それは、最近では余り見られなくなったが、かつてはどの公園にでもあった金属ネット製の円筒形ゴミ箱であった。
付けられたプラスチック製のプレートには、『県土美』の3文字。
また文字は続いていたと思われるが、失われている。
『県土美化推進委員会』などと続いていた物か?

この場所に、なぜか公園的なゴミ箱が放置されていたこと、隧道入口を塞いでいたような鉄条の存在。
それら、一見廃線跡には場違いな遺物は、次の発見に集約する。



 廃墟 
10:24


 隧道から僅か20mほど、酷い藪を掻き分け路盤跡を進むと、そこに僅かな平地が現れる。
そして、その中央にはコンクリートで拵えられた、テーブルと、それを二方から囲むように(写真ではちょうど左側と、奥側)やはりコンクリート製のベンチが存在している。
これは、コンクリート製の東屋のような物の遺構と判断された。
隧道を数々経て辿り着いた先に、もはや殆ど原形を留めていない東屋。
東屋といえば、観光地に付きもので、林鉄のイメージからは遠い。
しかも、レールを敷くスペースは東屋の脇に残されていたと思われるが、軌道敷きからは殆ど離れていない位置にあるのだ。




この東屋の正体は、周辺にある現在も使われている観光地の存在から、類推することが出来る。
プレでこの遺構を発見したあと、パタリン氏達プレ参加者が辿り着いた結論だ。私もこれを全面的に支持している。

この東屋は、おそらく、小又峡観光に利用されている、現在も就航中の湖面遊覧船に関連していると見る。
かつて遊覧船は、このすぐ傍にある廃桟橋(以後「旧発着所」、紹介は次回)に発着していて、その待合所が、この東屋の役割ではなかっただろうか?

 

 東屋のある場所は高台でもなく、深い藪のせいもあるだろうが、見晴らしのきく本来東屋を設置するような場所ではない。
そして、遊覧船の就航開始年度が現在のところ不明なのであるが、もしかしたら、まだ稼働中だった林鉄と結びついた観光の一端を担う待合所(=駅?)であった可能性もある。
公式な森吉町の回答としては、林鉄跡(もしくは林鉄自体)を太平湖観光に利用していた事はないとのことだが、これまでに多数発見されている各隧道内のゴミや、先ほどのゴミ箱の発見など、ここが一般の観光客の通り道となっていた時期が、間違いなくあったはずだ。
そして、この東屋や旧桟橋を設置した何者かは、現在の桟橋がある500mほど上流の地点ではなく、この林鉄敷傍の小平坦地を適地と考えたのである。
目的地である小又峡や三階の滝は、上流にあるにもかかわらずだ。
林鉄敷きが太平湖観光と無縁であったとは、考えられない。




 現在では、腰よりも低い位置よりも上部は根こそぎ消滅して裸のベンチとテーブルになっており、その全体を緑の苔や地衣類が覆っているわけだが、東屋であったと断定するのには、訳がある。
国土交通省内のこちらのサイトでは、この地の昭和50年頃の空中写真を見ることが出来る。
そこには微かであるが、この地点に赤い屋根の建物が存在している。

そして、その赤い屋根と思われるトタンが、裸テーブルの傍の草むらで落ち葉の底に隠されていたのである。
長年の風雨により、建物は消滅し、唯一コンクリートで施工されていた部分だけが、今でも残っているのであろう。





 廃東屋から隧道までは、本当に近い。
6号隧道の小又峡側の坑門であるが、写真の通り、深い落ち葉と淀んだ沼地に支配されている。
排水作業を実施しようにも、腐臭もあり、しかも勾配がほとんど無いために水路を築きにくいなど、結局我々も手を付けなかった。
隧道内部の汀線の跡を思い出すが、一体どのような変化によって水位が変化したのかは、この出口の様子を見ても分からなかった。
かつては30cm以上水位が高かったと思われるが、その様なダム効果を及ぼしたと思われる崩土などは、一切見られないのだ。



 「羽根」のイラスト?と共に、火の用心を訴えた円形の看板が傍の木に掛かっていた。
しかし、この形でずっとあったとは考えにくい(固定されていなかった)ので、プレ隊が付近で発見し、ここに乗せたものと思われる。
いずれにしても、今まで森吉では見たことがない看板である。
これもまた、一般人が目にしないような林地(林業事業地)には設置する必要が薄そうな看板ではないか?

観光客達の気楽な笑い声は、もう二度とこの薄暗き藪に戻ることはないだろう。
ほんの500m上流には、いまでも、多くの観光客が笑い合っている。
その傍で、役目を終えた東屋は、不気味に口を開けた腐臭の隧道や、廃桟橋、打ち落とされた廃鉄橋などと共に、荒れるに任せているのだ。

 

 廃テーブルや廃ベンチには二つの先客があった。
一つは、写真の伝票。
もう一つは、「どん兵衛」のダシ袋の残骸である。

って、
時代が新しすぎるだろ!

そうなのである。
これら発見は、どう見てもこれまでのような昭和40年代後半の遺物ではない。
最近も最近、平成になってからの物としか思えない。
とすれば、我々以外に、この場所へと訪れた人間が居たことになる。
しかも、ベンチでどん兵衛を食し、伝票まで落とし…、一体どんな奴だ。

だが、うろたえるな!
その正体への手掛かりは、既にこれまでの4度の探索や机上調査によって、十分に得られていたのである。




 仲間達が立っているあの場所。
我々は一服の後僅かばかり湖岸側へと軌道敷きに沿って移動していた。
ほんの30mも行くか行かないかで、この地点に着く。

そこで、陸は尽きる。 我々の最終目的地。
森吉林鉄探険隊最終到達地点。
すなわち、ここが3号橋梁東詰であった。

その足元に散乱する、多数の鉄パイプ。
またも、昭和40年代の遺構ではあり得ない。


平成9年、この橋が落とされた。
おそらくは、林鉄遺構が数十年ぶりに現役の工事現場となった。
理由は、老朽化による倒壊と、その場合の遊覧船運航への危険が懸念された。

既に工事は終わって久しい。
だが、我々が目にした物は、
残された伝票、カップ麺の食べかす、多数の鉄パイプ…。





 陸が尽き、橋も尽きた。

分かっていたことだが、これ以上は進めない。
そして、対岸は既に辿り着いている。

これで森吉林鉄を求め、前へ前へと進んできた我々の冒険は、ひとまず終着点を迎えた。

破顔一笑、メンバーはその栄誉を互いに称え合った。
これまでの苦労の数々が脳裏に蘇える。
私は、やはり4号隧道をボートで越えた瞬間が、最大の興奮であったろうか。
無論、5号隧道の誤掘洞探険や、7号隧道の入水探険も、5号橋梁での初めての梁渡りも、絶対に忘れられない出来事だ。
今この瞬間の興奮と感動と歓喜が、これまでの課程にあった出来事の記憶を、より強固に脳内に焼き付けるのだ。

無数の興奮が、一つの結末に、実を結んだ。




 森吉林鉄は、次回どこへと行くのか?!


まだ …その叫びは、終わらない。







その5へ

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