廃線レポート
生保内林用手押軌道 向生保内支線 その3
2005.4.15
大江に脚を洗う
2004.6.23 8:39
午前8時39分。
私は、長内沢を無事徒渉し、スタートラインに立った。
ここから先は、一切他の交通手段に接続していない、孤独な道行き。
腰まで水に浸かった私は、すでに興奮も醒め、ただ不安が大きかった。
これほどに、嫌なムードのスタートも、稀である。
愛車を捨てた対岸に、名残惜しさを感じながらも、前進を開始する。
実際の軌道敷き跡は、3号隧道から橋を渡って続いていたわけで、その位置も、河床から10mほど斜面を登った場所にある。
予想していたことだが、まるっきり草むらと藪に覆われた川岸には、まったく踏み跡もなく、いっそう不安になる。
腰まで瑞々しい夏草に埋もれ、それを掻き分け掻き毟りながら、急な斜面を登ってみる。
徒渉からはじまり、間髪入れず藪漕ぎ…。
いきなりにして、林鉄探索の苦行の主なもの二つが、来現している。
幸いにして、平場が鮮明に存在し、まずは探索の礎を得た気持ちになった。
長内沢を振り返ると、対岸にはあの柱状節理が木陰に、見えている。
しかし、残念ながら3号隧道は見えない。
当然のように、こちら岸にも、橋の痕跡は全くなかった。
長内沢から離れ、本支線の起点である夏瀬(ダム)へ向けて、前進開始。
鮮明に軌道敷きが確認できたのは、長内沢のごく近くだけであった。
100mも進むともう、軌道敷きは険しい崖斜面の一部になり、まともに歩けなくなる。
崖を削って得た軌道敷きは、特に支保されていた様子もなく、荒れるに任せているようだ。
雨は依然降り続いており、この滑りやすい悪条件の中、濡れた体を引っ張って斜面を進むことは、根負けする気がした。
軌道敷きを諦め、私は、河床の狭いが平坦な氾濫原に進路を求めたのである。
ふたたび、緑の樹海に身を沈める。
もう、パンツどころか、背中までグッチョリである。
斜面には、無数の甘みが実っていた。
その棘に気をつけて、いくつかもいで口に運んでみる。
木イチゴ特有の、爽やかな甘み。
緊張に乾いた口中が、豊かに潤された。
誰に収穫されることもなく、この地の木イチゴは大変な群落を形成している。
氾濫原は、300m程度であるが、私の進路を確保してくれた。
だが、それも長くは続かなかった。
玉川に落ち込む両岸は、いよいよ切り立ち、河床に僅かな猶予もなくなったのだ。
波立つ水面を覗き込んでみると、岸の30センチ先からは青灰色。
机に座って山行がをご覧の読者様には、なかなか想像しがたいとは思うが、この景色を見たときの私の戦慄は、文章にし難いものだった。
とにかく、怖いのだ。
玉川という激流が、ガードレールや欄干という隔たり無く、この足元を浚っている。
この川岸ぎりぎりを歩くと言うことは、崖っぷちを歩いていたことと、何ら違いはないことなのだ。
もし、ただの一歩でも踏み外せば、あっと言う間に私の体など、どんなにか深いとも知れぬその奔流に引き込まれるだろう。
おそらく、その先に生還の二文字は、ない。
上の写真の場所から、さらに10mほど、川岸の草むらを掴みながら、膝まで流れに浸かって前進してみた。
足元には、深い場所が接しており、しかもそれが流れに反射して見定めにくいという悪条件。
ここまでは足元のの流れも穏やかであったが、それでも、見えない薄壁の向こうには死の激流が潜んでいる強烈な予感から、生きた心地は全くしない。
そして、午前8時54分。
右の写真の地点で、私は河床を行くことを断念した。
腰よりも深くはまることが感じられたし、同じ場所を戻ってこれる自信がないからだ。
廃軌道
2004.6.23 8:54
笹を手がかりに、何度か足を滑らせながらも、急な斜面をよじ登り、軌道敷きへと戻った。
幸いにして、軌道敷きは鮮明さを取り戻しており、これならば、前進できそうだ。
しかし、まるっきり人が入った気配のない、荒れ果てた軌道敷きに、寒々としたものを感じたのは、本当に寒かったからばかりではないだろう。
進めば進むほどに、生還から遠くなるような気がして、正直、しんどかった。
常に、ものすごく増水したら本当に戻れなくなるのではないかという恐怖もあったし。 いまだ雨は降り止んでいないし。
とにかく、カメラを濡らさないようにと細心の注意を払いながら、一枚一枚、もう二度と訪れることもないだろう軌道敷きの景色を、切り取っていく。
枕木も、レールも残ってはいない。
ただ、幅2m足らずの平場が、斜面に沿って続いている。
勾配も全くと言っていい程なく、軌道敷きと確信できる景色だ。
河の流れる音が、常に響いている。
そしてときおり、鳥の声。
林道も近くには全くなく、人の気配などまるっきり感じられぬ森だ。
崖下を流れる玉川は、いつの間にか、瀞となっていた。
瀞とは、河の流れのゆっくりな、それでいて深い場所を言うが、この夏瀬の玉川は、まさに瀞というにふさわしい景色である。
そして、新緑にも負けぬ強烈な鮮やかさを見せる河水は、玉川特有のもので、源流の強酸性を中和する為に行われる人為の所作である。
玉川のこの独特の色は、水深が深く、かつ他の河川の流入が少ない、ここ夏瀬から下流の抱返渓谷に掛けてがピークであり、僅か50km下流の雄物川合流地点では、普通の色になっている。
人は、景色に映えるこの河を、美しいという。
だが、私と、やはり一人でこの地を歩いたくじ氏は、共に、不気味で怖い河だと、口をそろえる。
その怖さの最大の原因は…レポートでも、追々判明するだろう。
進んでいくうちに、何度か小さな支沢を渡る。
しかし橋は存在せず、長い時間が岸辺の地形と共に押し流してしまったようである。
これ以上なく湿気を含んだ梅雨の森が、私を飲み込もうと包み込んでくる。
ただ歩いているだけでも、神経に棘が刺さるようなストレスを感じてしまう。
オレって、こんなに臆病だったけっかな…。
玉川の圧倒的水量。
森を分かつ、絶対的な壁に見える。
この緑の濃さ、原色の景色は、とても北国秋田のものとは思えないが、如何か?
ほんのこの1ヶ月前には、そこかしこの日陰に雪も残っていたはずだが…。
万年続く森の輪廻の生命力には、畏れ入る。
軌道敷きは、相変わらず手つかずのままで、頻繁に写真のような障害物が現れる。
カラフルなキノコを横目に、ジャングルとなった軌道敷きを突き進んでいく。
徐々に徐々に、軌道は玉川の奔流へと沈没しつつあるのだが…、またその実感はなかった。
さらに進む。
いつの間にか雨が上がり、やや空に明るさが戻ってきた。
今日はこれまでずうっと早朝の明るさのままだったが、空が明るくなると共に、ようやく私のテンションも上がり始めた気がする。
今までよりも、しっかりと前を向いて歩きはじめた私は、その行く手に、なにやら黄色い立て札が立っているのを見つけた。
思わず遭遇した人工物に、私は喜びを感じた。
もうすっかり、軌道敷きだって人工物であることなど、忘れていた。
立て札は、軌道敷きとは異なる時代のもの、比較的新しいものに見えた。
そこに記されているのは、
NO25 左
縦断距離 5.182M
横断距離 48.5
杭標高 188.035
そもそも、この標識は、陸に向けた表示ではなく、河から舟で見るものなのだろう。
道などまるっきり無いはずの対岸にも、この標識と正対して、NO25 の標識が立っているのが見えた。
おそらく、この下流2kmほどで夏瀬ダムがあり、関係があると思われる。
午前9時13分、徒渉完了から35分を経過した。
この間に私は、軌道敷きに沿って、おおよそ地図上での900mを前進した。
全体の三分の一を歩いたことになるが、ここはそれ以上に大きな意味を持つ場所だ。
というのは、大きく蛇行する玉川を、ここで軌道敷きは1km近くショートカットするのである。
その手段は… 隧道 である。
お待ちかね(無論、一番楽しみにしているのは私である。半ばこの隧道を目指して、ここまで来たとさえ言える。)の、隧道だ。
道中の位置関係から、この隧道は、2号隧道と呼ぶこととする。
初めて来たのだが、そのカーブを見た瞬間に、予感を感じてしまった。
河から突然向きを変えて、山へと向き直った軌道敷きに考えられる進路は、切り通しか、隧道のみである!
死んでる!!
大正時代の地形図にちょっと載っていただけの隧道である。
もう廃止されて半世紀が経っている隧道である。
誰も、その存在を語ることがなかった、秘められし隧道である。
そして、人知れずして、隧道は圧壊 していた…。
崩れ落ちて、果たしてどれだけの時間を経過しているのだろうか。
もう、そこに隧道があった痕跡を、三方の切り立った岩肌に留めるばかりである。
玉川の大蛇行を激しく短絡して結んだ隧道の死は、完全なる進路の消失を意味していた…。
もう、終わりだ…。
ますます流れをゆったりとしたものに変えつつある玉川。
辿る道のない、うねりの如き蛇行が、行く手を絶たれた軌道敷きを尻目に、遠く続いている。
河道に沿って進んだ場合も、2キロメートル耐えられれば、再び軌道敷きは左岸に現れるはずである。
だが、道無き斜面をそんなに歩けるわけがない…。
先へと進むための、ただ一カ所の隧道が、死んでいた。
この事実は、大きかった…。
その4へ
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