まだ私が秋田県に住んでいた2006年の8月。
当時、東京への移住は構想段階に過ぎなかったが、縁あって西沢林鉄の深部を探索している。
今回は、だいぶ前の話になってしまったが、これをレポートしようと思う。
私にとって、東北以外で探索した、最初の森林鉄道である。
山梨・長野・埼玉の3県が山頂で交差する甲武信ヶ岳(標高2475m)と、信玄の隠し金山伝説の残る黒金山(標高2231m)に挟まれた西沢渓谷に沿って、この西沢森林軌道(以下「西沢林鉄」と略)は幅762mm、本線延長14.5kmの軌道を有していた。
本線の起点側(上部)は薊(あざみ)沢線など2本の支線に繋がり、終点(下部)の旧三富村(山梨市)広瀬では三塩森林軌道(以下「三塩林鉄」と略)と接続していた。この三塩林鉄はガソリンカーが運行された高規格なもので、「森林鉄道」といって差し支えのない規模であったが、西沢森林軌道や支線では廃止まで馬力を用いていた。
西沢林鉄の歴史は、三塩林鉄が昭和6年に塩山駅近くの赤尾貯木場から広瀬まで、笛吹川沿いに全長18.5kmの軌道を着工した年に始まる。(同8年竣工)
広瀬からさらに上流へと、県による伐採事業の奥地進展と共に軌道は延ばされ、西沢源流である本谷の奥地まで、全長14.5kmを着工したのは昭和30年であった。
昭和39年に県行事業は終了したため三塩林鉄は同41年に廃止されたが、西沢林鉄については民間業者の手に渡り、同44年に廃止されるまで馬力による輸送を続けた。
廃止後の昭和49年に、終点のあった広瀬地区に多目的の広瀬ダムが完成し、軌道跡の一部は水没した。
水没を免れた軌道跡の一部は、旧三富村によって西沢渓谷遊歩道として整備され、現在に至っている。
続いて、この日の踏査計画についてだが、その前にまず、この計画の発端をお話しししよう。
実は、この探索は私が計画したものではなかった。
私が盆休みを利用して関東遠征を企てているという情報が、関東在住のちい氏及びトリ氏によって察知され、彼らがこの西沢林鉄の奥地探索をプロデュースしたのである。
その下地として(当時の私は知らなかったが)、西沢林鉄が関東地方では旧状のよく保存された林鉄跡として、ある程度メジャーな存在であったことがまず第一。(東北人の私を“接待”してくれた訳だ)
そして、ここからが重要なのだが、メジャーである割にその奥地の情報は乏しく、特にネット上には当時詳細なレポートが無かったということ。
具体的には、下の地図中で「二号隧道」としているあたりまでは到達したというレポートも見られるのであるが、その先、本谷方面については情報が極端に少ない状況であった。
そこで、私を巻き込んで3人掛かりによる「奥地探索計画」が企図されたのである。
今回の計画の肝、すなわち踏査目標となるのは、上の図中で示した通り「滝ノ上展望台」から「西沢橋梁」までの、おおよそ2kmである。特にこのうち既存レポートの無い「二号隧道」から西沢橋梁までの踏査が最大の目標となる。
だが、この僅か数キロの距離を確かめるために歩かねばならない距離は、かなり大きい。
一般の車が行けるのは国道140号に面した「西沢渓谷駐車場」までだから、そこが出発地にならざるを得ない。(本谷側の林道は一般車通行不能)
そこから、笛吹川左岸をかつての「東沢林鉄」をなぞるようにして歩き、東沢と西沢が合する「東沢吊橋」へ。そこから「西沢渓谷遊歩道」に入りしばらく歩くと、ようやく目指す西沢林鉄との出会い「滝ノ上展望台」に着く。駐車場からそこまで約4kmある。
なお、この西沢渓谷遊歩道は、西沢渓谷の周囲を巡る反時計回りの一方通行路となっており、これ以外のルートは設定し得なかった。
その後、今回の踏査目標区間(約2km)を往復し、帰路はまた一方通行に従って西沢林鉄跡に設定された遊歩道を歩き、途中から下って「ナレイ沢広場」経由でスタート地点に戻る。 これもまた5km近くあるので、全て合わせると出発から帰着まで大凡13km(プラスかなりの高低差)となり、十分丸一日かけて行う探索計画となってしまった。
このように、かなりの時間をかけてようやく辿り着く事が出来る奥地には、果たして我々を満足させるような発見はあったのだろうか。
久々の林鉄レポートを始めよう。