会津線旧線 大川ダム水没区間

福島県会津若松市・南会津郡下郷町
公開日 2006.12.2
周辺地図

 日本最大の内陸盆地である会津盆地の雄都・会津若松。
ここを発して、大川(阿賀川)沿いの国道121号を南下すること15kmあまり、若松の奥座敷と呼ばれる芦の牧温泉のホテル群の、大川峡谷にへばり付くように群れている姿を見るだろう。
更に南下すれば、車窓はますます緑を深くし、ついには長いトンネルに視界を奪われる。そして、いくつかのトンネルを抜けると、あなたは谷を満たす広々とした水面を見る。
大川ダムによって昭和62年に完成した人造の湖、若郷(わかさと)湖である。

 この水面下には、49戸の暮らしとともに、歴史深き道たちが幾つも沈んでいる。
鶴ヶ城におわす殿さまの治世のころ、盛んに行商人達が行き交った“南山通り”こと、「会津西街道」。
猛威を振るった天下の土木県令三島の落とし子、明治の「会津三方道路」。
そして、この国道の旧道。
更に、国鉄会津線の線路もまた、延々5.8kmに渡って付け替えられている。
今回探索するのは、この沈んだ鉄路である。

 湖底の村へと続く廃線跡。
果たして、人は何所まで近づけるだろう。




幽谷へ挑む鉄路

アプローチルートを開拓せよ!

 まずは右図を見ていただきたい。
新旧線の位置関係はこのようになっている。
旧線は昭和40年代までの地形図に普通に記載されているので、これから転記した。

 会津若松地域の防災および灌漑、発電などの多目的ダムとして、昭和52年に計画決定され、同61年に完成した大川ダム。
現在湖底となっている大川沿いには、右岸に桑原、左岸には沼尾、ダムサイト直下に舟子の3集落(49戸)が存在した。右の地図にも上記3つの集落が描かれているが、これらはいずれも集団移転先となった新しい集落である。

 鉄道旧線を赤い実線(隧道部は破線)で示した。
線路は河岸段丘上を主に通っていたが、大川の蛇行部や狭窄部に面する箇所には橋や隧道が設置され、山岳的な鉄道風景を有していた。
昭和49年まで蒸気機関車が25‰に及ぶ急勾配の山渓を力走しており、一帯は鉄道ファンによく知られた撮影地だった。特に、大川を一跨ぎにする大川第一・第二橋梁は撮影ポイントとして名高かったという。
また、廃止区間には駅が2箇所あって、それぞれ舟子と桑原といったが、このうち舟子駅は正式には駅として認められていないにもかかわらず、ホームがあって駅舎もあって毎列車停車するという不可思議な“ヤミ駅”だった。

 線路が新線に切り換えられたのは昭和55年だが、新線は殆ど全区間がトンネルで、美しい景色の中にありながら車窓のない鉄道になってしまった。
新しいダムが湛水を開始したのは昭和61年だが、その前後にかけて、今度は路線全体が存亡の危機に立たされることになる。
国鉄解体を前にした、不採算線の廃止の動きである。
結局は会津鉄道(3セク)が営業を引き継いだ。

 さて、この地に鉄道が敷かれたのはいつ頃であろうか。
それは、昭和初期にさかのぼる。
会津若松を通る磐越西線から枝分かれした二本の線路は、はじめ両方とも会津線と呼ばれていたが、只見を目指した線路はやがて只見線と呼ばれるようになる。
もう一本の会津線は大川に沿って南進し、南会津の城下町田島を目指して伸びていった。
その行く手に見えていたのは、はるかなる首都・東京。
それは、かつて三島通庸も道路畑で思い描いたルート、東北中央を縦断する“第二の”東北本線の構想。当時は「野岩羽線」と盛んに喧伝された。
水没区間を含む、上三寄駅(かみみよろ、現:芦の牧温泉)−湯野上(現:湯野上温泉)間が開通したのは昭和9年である。
以来、水没付け替えとなるまで約半世紀の職務を全うした。
 なお、田島からさらに南へ延びる線路(野岩鉄道会津鬼怒川線)が完成し、会津と東京(浅草)が一本に繋がったのは、奇しくも、国鉄が会津線を放棄したのと同じ昭和61年である。そうして、会津鉄道、野岩鉄道、東武鉄道という民線3つを繋げた長壮な“野岩”鉄道は実現したのである。
ただし、北進した国鉄日中線の延伸は終ぞ叶わず、“羽”は結ばれずに終わった。


 会津へ行く機会があれば是非探索したいと前々から思っていた、会津線ダム水没の旧線跡。
2006年11月24日は念願の叶った日だった。




 探索は、湯野上温泉駅寄りの新旧線分岐地点から、徐々に水面へ下っていく旧線跡を北へ向けて辿る事にした。
しかし、事前に行っていた現行版地形図への旧線書き入れ段階で、この探索は一筋縄では行かない事が予想された。
まず初っ端から言ってそうである。

 新旧線の分岐地点は、右図の通り、国道から谷を隔てた山間の傾斜地にある。
この旧線を地上から辿ったという報告は手許になく、手探りに近い探索にならざるを得なかった。
そんな中で、私がアプローチルートに選んだのは図中の「現在地」から北東へ延びる道だ。
現行の鉄道橋(第三大川橋梁)を渡って接近することは困難なため、この道が唯一のルートと思えた。



 実際現地へ来てみると、国道118号から入る地図上の細道は、まるで廃道のように見えた。
何の案内もない入口には、しっかりとしたゲートが設置され、施錠されている。
特に立ち入り禁止とは書いていないが、一般に開放された道ではないムード。

 国道を行き過ぎる車からの目に神経を使いながら、サッと侵入する。




 封鎖された道の隣には、3階建ての立派なペンション風ホテルの残骸があった。
豊富な湯量と大川ラインの風景でいまも人気の湯野上温泉だが、その温泉街から北へ離れ、しかもメーンストリートの国道121号から橋を隔てた当地までは、その恩恵が及ばなかったらしいと見える。
沢山ある窓のガラス全てが悉く割れており、不気味さに拍車をかけている。
落ち葉を無数に浮かべたプールが、淀んだ水面を凩に揺らしていた。

 道は、柵を隔てて廃墟の脇を舐めた跡、地図にも描かれている大きな橋に差し掛かる。



 大川とこの直ぐ下流で合流する支流、鶴沼川の深い浸蝕谷を一跨ぎにする橋。
なぜか橋の名を書いた銘板が見当たらず、これだけ立派な橋にも関わらず名称不明である。
欄干と同じ水色にペイントされたV脚ラーメン鋼橋で、おそらくはダム工事や鉄道の新線工事に関わって建設されたのだろう。
道はこの先も湖畔を周回しようとするかのように進んでいくが、1kmほど先で崖が険しくなると行き止まる、それだけの道だ。
ただし、旧線へアプローチするには、唯一無二のルートである。



 橋は鶴沼川の水面から50m近くも高いところを渡っており、眼下にはTの字型の大川合流が見える。
更にダムの方に視線を向けると、胸の空くような広がりをもって、会津線の鉄橋と崖伝いの国道が見えた。(右写真)
また、大川上流方向には、足元と同じくらい高いの国道118号の赤い鋼アーチ橋が架かっている。
反対側の欄干に近付いて鶴沼川上流を見れば、今度は屏風のような垂崖が眼前に迫り上がり、その足下を波濤が渦巻く、寒気さえ覚える絶景だった。
まさに、三方三様の渓流美を欲しいままにする、知られざる名展望地である。

 感動していると、上流湯野上方面から列車の邁進する音が聞こえてきた。



 列車の音は一度消えたが、須臾の後、今度はその愛らしい姿と共に鉄橋の上に現れた。
橋を挟んで両側はトンネルになっている。走行音もトンネルで一度遮蔽されたのだ。
写真に写るコンパクトな列車(一両でも列車?)は、会津田島発の上り列車である(東京方面にも繋がっているにもかかわらず、この路線では会津若松行きが“上り”なのだ)。

 目指す新旧線の分岐点は、あの鉄橋の右岸袂にある。
既に探索の険しさを約束するかのような光景である。



 橋を渡ると、道はやや幅広になった。
しかし、敷かれたアスファルトは赤茶けて乾ききっており、長らく車の往来が無いムード。
狭い橋と、幅広の袂。
まさに、工事用道路として、ダンプカーやミキサー車が無線を使って行き違いしていた景色が思い浮かぶ。



   ボンネットバス?!  …じゃないな、ただの箱バスの廃車体だ。

背丈を遙かに超える枯れススキの原っぱに、埋もれたバス廃車体。
ダム工事の昔から、ここへ来る道があったのだろうか?
或いは、工事中に休憩所として持ち込まれた物だろうか。
周囲は河岸段丘の上に開けた平地であるが、人の気配はまるっきり無い。



 橋から300mほど進んできた。
杉の植林地の中に分け入った道は狭まり、路面には泥が浮いている。
いよいよ先細りの雰囲気が強まる中、私は周囲の景色と手持ちの地形図とを、交互に繰り返し睨んだ。
ここから足下の段丘崖へトンネルで吸い込まれる線路は見えないが、間違いなくこの辺りで新線と旧線は並んでトンネルに突入しているはずだ。

 見えるのは、足下の線路ではなく、遠く対岸の国道やスノーシェッドであった。
しかし、それらの景色を頼りにして現在地を特定。
私はここから道無き斜面へ突入することに決めた。
目指すは会津線の旧隧道である!



 斜面はきわめて急で、60度近い勾配があったと思う。
灌木や蔦が猛烈に密集したこの斜面でなければ、私は重力に任せて転落したに違いない。
だが、密集ぶりは凄まじいものがあり、70kgの体重を絡み付く蔦に被せ、強引に突き進んでも、なかなか進むことは出来なかった。

 ブチブチッ

  ブチブチブチッッ

 驀進するSLを脳内イメージに、私は薮を引きちぎり進んだ。



 狂おしいばかりの密林!

 それでも、既に10mは下ってきただろう。
思いのほか、底は遠い。
もし夏場だったなら、絶対に進めなかったルートだ。
ここまで来て、見当違いの場所に進んでいたら最悪だ。

 大丈夫なのか、俺のルート!!



出たー!!!



 現れた昭和初期の廃隧道


 自分でも驚く素晴らしい正確さでピンポイントに新旧線分岐点の直上に下ってきていた。
まだなお10mくらいの高低差はあるが、その下にはまず廃隧道の坑口(残念ながら塞がれているのが見えた)と続く堀割が見えた。
反対側には真っ直ぐ前に、現役の線路を載せた大川第三橋梁が見える。
私の立っている場所こそが、新線の大戸トンネル坑口真上だった。

 ここまで来て人工的な施工が目立ち始める斜面。
相変わらずの密林を手掛かりに、残りも強引に下ったのだった。




 無情にも、密な鉄格子がしっかり嵌め込まれた旧隧道の坑口。
入れないと分かっても、やっぱり近くに行ってみたい!
最後の斜面はまるで自然の傾斜のようだが、実は土嚢が積み上げられた人工的なものだった。
また、一番下には廃レールで作った土留めがあった。



 5分を要し急斜面を無事降下。

降り着いた先は、目指す隧道と橋に挟まれた、ほんの僅かな地上部分であった。
背後に口を開ける隧道に気持ちは惹かれるが、まずはその前部の旧線を確認しておきたい。
写真は、分岐地点を臨む。
左のコンクリート構造物が新線の大戸トンネルだ。



 いま下ってきた斜面を振り返る。 (写真右)

帰りはここを上り直さねばならぬのだろうか…。
気が滅入るな……。

 ま、まずはそのことは忘れよう…。


 新旧分岐地点に立って、田島方を見渡す。
かつて線路は向こうに見える小野嶽隧道から出て来ると、第三大川橋梁を渡って、更にそのまま直進して背後の隧道へ進んでいた。
この間は気持ちの良い直線だったのだ。
だが、新しい線路は見ての通り橋を渡ると緩やかにカーブして、長い長い大戸トンネルへ吸い込まれていく。

 橋の袂には、小さい黄色の標識が運転席から見えるように立っており、底にはただ1文字「風」と書かれていた。
横風注意と言うことだろうか。



 分岐地点から、今度は若松方を見る。

エラが張ったコンクリート坑口が厳つい大戸トンネル。
小さな銘板が取り付けられており、全長は2840mもあることを知る。
地図で見ると、その内部は湖畔の地形に合わせ何度もカーブしていて、あの「奥只見シルバーライン」を彷彿とさせる長大トンネルである。
昭和52年から延べ4年をかけて掘り抜かれ、これ一本で新線延長の過半を占める存在となった。
乾いた氷のように冷たい風が吹き抜けてくる洞内を覗くと、そこには何の個性もないスラブ軌道が、闇の奧へと続いていた

 写真左奧には、控えめに旧隧道が見えている。



 さて、それではこれより旧線を辿る旅を開始する。


 ……

  ………


 開始したいのだが……

 ここからはどこへも行けないのか……(泣)



 全長は300m強か。
鉄格子の隙間から、反対側の明かりが点よりも少し大きな丸に見える。
昭和9年の竣功。
日本全土が、世界恐慌と大凶作のダブルパンチによって未曾有の不況に見舞われた、その最悪の年に開通した隧道だ。
東北地方は特に凶作の影響が深刻だったが、会津地方も例外ではなかった。
そのような世情を反映してか、同年代の隧道ではまだまだ見られた装飾的な要素は皆無である。
ただ、表面の剥がれかけたコンクリートは後補のもののようで、裏地にあるコンクリートブロック製と思われるアーチが透けて見えた。
坑口前にすっくと生えた若木に、廃止されてからの20数年という月日を教えられるようだ。



 この隧道の名称は、残念ながら調査及ばず現時点で不明だ。
坑門にはペンキで隧道名と延長のほか、通過に要する目安の時間が「徒歩○分」と記されていた痕跡があるが、読み取れるのはせいぜい「徒歩」の文字だけだった。
或いは反対側の坑口へ行けば… そんな期待も、この鉄壁の守りの前では…。




 って、わざとらしかった?(笑)

何処かの怪力さんの仕業か、或いは天のイタズラか、鉄格子には私を赦す隙間(「好き間」ともいう)があった!!


 次回、この隙間を使って、隧道の先を目指す!!

   そこで遭遇する、山峡の地の面目躍如たる光景とは?!

     果たして、水没区間は何所まで辿れたのか?!?!