急傾斜の山林を突破し、会津線の大川ダム建設に伴って廃止された区間の、南端に辿り着いた。
全部で7本が地図上に確認されている隧道の1本目が、目の前に口を開けていた。
本来人が潜り込めない密度で廃レール製の格子が入れられていたが、どういう訳か一箇所だけ壊れており、そこから侵入することが出来た。
果たしてこれが人為か、はたまた偶然か。
それは分からないが、ともかく進路は開かれたのである。
いざ、入洞!
頽廃的なムードを醸し出す、鉄格子越しの眺め…。
度を超した廃道巡りが行き着く先もまた……
ま、まさかな。 ははは
鉄格子の隙間に身をよじらせ、内部へと侵入。
約300m先の出口がはっきりと見えており、廃隧道にありがちな心細さは余り感じない。
この季節ともなれば野外と洞内の温度差こそ無いものの、濃縮された北風が吹き抜ける風洞は、やはり外より寒く感じる。
特に、指先や耳たぶが痛寒い。
内壁を囲う鋼鉄製の補強工が、まるで肋骨のように白く規則的に続いているのが見えた。
天井を見上げてみてギョッとする。
そこには、補強工に支えられた木製の板がびっしり…。
それらは気持ちの悪い色に変色しており、所々は襤褸のように乱れ、剥がれ落ち、洞床に汚らしい残骸を示している。
さながら、木造の隧道のようである。
しかし、本来の内壁面はコンクリート製であるから、木の板はそこにあてがわれているだけだ。
漏水防止か、補強工の支力を内壁全体にまんべんなく伝えるためか、理由は分からないが、鉄道隧道としては初めて目撃する光景である。
厚く層を成してこびり付いた煤が、今度は長い年月をかけ剥離し、漏水で白化したコンクリートブロックとの斑模様を形作る。
坑口で感じた印象よりも遙かに気味の悪い、なんとなく有機的な感じを受ける隧道である。
洞内にはまるで生き物の姿は無いにもかかわらずだ。
坑口から100m程度までは断続的に廃レール製の補強工が設置されており、その先も数箇所の補強があった。
余り良好な地質ではなかったことが想像される。
内壁は、起拱線(※アーチ(拱)部と側壁の境のこと)より上がコンクリートブロック製で、それより下は生コンクリートが打設されていた。
隧道工事におけるこのようなコンクリートブロックと生コンの併用は、それまでの煉瓦にかわってコンクリートが主に使われるようになった大正末期から昭和初期にかけての特徴である。
当時まだ不安定なアーチ部分にコンクリートを打設する技術が確立されていなかったため、煉瓦をコンクリに置き換えたコンクリートブロックが使われたものである。
また、この隧道の特徴として、枕木がほぼ完全に残されたままになっているということが挙げられる。
おそらく、昭和52年の廃止後にレールを剥がしたきりで、あとは殆ど利用されぬままに現在に至っていると思われる。
ちなみに、枕木は殆どバラストに埋もれており、今日の枕木や軌道が山盛りのバラスト上に載っているのとは対照的である。
しかも、バラストの層は薄く、枕木は地面(硬い土)に掘られた溝に半分くらいまでは沈み込んでいるのである。
さらに、バラスト自体も明らかに角の丸い川砂利が使われており、昭和30年代以降全国で川砂利の採取が禁止された、それ以前の構造であることを教えてくれる。
余談だが、昔の客車はトイレから汚物を垂れ流しながら運行していた。
これが当時のバラストだとしたら…。
隧道内は部分部分で老朽化の度合いが大きく異なる。
それは、壁面に濡れ具合と比例していた。
なぜか待避坑が隧道中央より北側にばかり集中しているのだが、その待避坑の様相も場所によって大きく異なっていた。
この写真の待避坑はもっとも酷い箇所だ。壁のコンクリートが剥がれている。
私はこの待避坑で昔懐かしいコカコーラの1L瓶を見つけた。
しかも、中身が半分以上も入ったままである。
内部の液体の色はまさにコーラそのもの。
いったい“何年もの”なんだろう……。
なお、コカ・コーラが日本で正式に販売されたのは昭和32年のようである。
なんか待避坑の前の岩が、能で使う翁面に見えるんですが… まあ、気のせいですよね。
キロポストを発見。
同様のものを洞内にて数箇所見つけたが、この他は殆ど原形を留めないほど腐食していた。
酷く腐食した壁…。
人知れず朽ち果てて行くのみだ。
壁に不思議な痕跡を見つけた。
側壁に何本もの鉄の棒が突き刺さっており、その穴の周りに明らかに新しいモルタルが塗られている。
果たしてこれは何だろう。
この一箇所だけであり、現役当時の何らかの補強工事とは思えない。
或いはこの隧道でも、廃止後に何らかの試験が行われたのかも知れない。
まさかドリル打ちの練習をしたわけでもあるまい。
一本だけ外された坑口の鉄格子も、その辺に繋がってきそうな予感。
いよいよ近付いてきた出口に、憎らしい鉄格子の姿は見えない。
片側の坑口だけが塞がれている現状…。
ムフフ…。
苦労して接近した甲斐があったというものだ。
この先はフリーパスですか。そうですか。
あの光に向かって、走るんだ〜〜!
うおづ
橋がない!!
隧道を出た先は、それ以上どこへ行くことも出来ぬ、絶壁上の小さなテラスのような所だった!
現役当時は、有名なSL撮影ポイントでもあった「第二大川橋梁」が、大川の景勝地「目覚ガ淵」を一跨ぎにしていた。
…あはははは。 これじゃ、こっちに柵なんかいらないわけだ。
背後にはぴったりと、いま潜り抜けたばかりの、名も知れぬ隧道。
足場が無く、もはやこれ以上カメラを引く事は不可能。
稲穂形にこうべを垂れる落石防止柵よりもまだ高い、とてもおでこの広い坑門である。
坑門上部にも遙か高い崖が続いていることから、この坑門の高さも、落石が列車を直撃するのを防ぐためだったと思われる。
橋桁を載せていた構造が足下に残る。
この大変高低差のある“切り欠き”から想像が付くかも知れないが、ここに架かっていたのは巨大な上路式トラス橋だった。
濃緑のトラスが水蒼き峡間を一跨ぎにする姿は、季節映えのするとても絵になるものだった。
ましてそこを、マッチ箱のようなSLが煙を引き引き駆け抜けるのだから、世の風流人は黙っていない。
当時撮影された写真がいまもネット上に多く残っていることからも、そのことが分かる。(googleで“目覚ガ淵”を検索する)
現在地である第二大川橋梁南袂から直接次の隧道(第四小沼崎隧道)へ進むには、この大川“目覚ガ淵”を跨ぐより無いが、それはどう考えても不可能である。
水が無いとしても崖だけで死にそうなのに、既にダム湖化しており、こんな水に浸かったら目覚めどころか、確実に死ねる。
おとなしく引き返すことにしよう…。
橋は無いくせに、次の隧道の口が対岸に小さく見えているのが、憎たらしい。
突端から見える、北岸の橋脚跡(左)と隧道坑口(右)。
橋台は中程から崩壊しており、おそらく人工的に壊されたのだろう。
この遺構は現在も国道121号のスノーシェッド越しに見えるそうだ(『鉄道廃線跡を歩く〈9〉』より)。
隧道は遠望で覗くと開口していることが認められる。
あの裏側の坑口は、さっき入って来た坑口同様鉄格子で塞がれていそうな予感がするが、私が辿り着けそうなのはそっちだけだ…。
いまは湖底に沈んだ目覚ガ淵と、その下流の景色。
湖を車道がほぼ一周しているものの、この辺りの右岸部分だけはそれも途切れている。
あるのはぶ厚い岩盤に守られた地中の大戸トンネル(新線トンネル)だけである。
それにしても、明らかにダムの水位が高い…。
この調子では、果たして、あと何本の隧道を捜索出来るだろう…。
水位がもっと低い事を期待して降雪期前に来たのだが、読みを外してしまった。
ただ、正直なところ、現在地がこんなに水面から高いのにもかかわらず、先で水没しているなどということが、この時点ではどうしてもイメージできなかった。
しかしそこは、鉄道としては非常に急な25‰という勾配である。
これは1kmで25mを上下する勾配であり、現在の水面からの高さが仮に50mあったとしても2kmで…。
もと来た隧道を潜り直し、地上へ戻った。
するとちょうど目の前の新線を、カラフルにペイントされた列車が通り過ぎる所だった。
従来はその車窓から“見えるだけ”の存在だった本隧道、および、通常の手段で接近が困難な第二大川橋梁跡に(片側だけとはいえ)接近できた喜びは大きかった。
来るときに下ってきた斜面はいま思うとあんまりだった。
考え無し過ぎた。
もしアレで見当違いな場所だったらどうしたのだろう。
帰りは、もう少しマシなルートを探して登った。
周囲をよく見舞わしてみれば、隧道坑口の真上を横切って杉林の中を車道まで登るのがよほどマシだった。
このような斜面をよじ登り……
車道へ戻った!
陥落せし巨大鉄橋。
塞がれた進路を諦め、見えた隧道の裏側へ回り込むべく、行動を開始。
次回、 暗き湖面が不気味に迫る!!
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|