2013/6/9 6:37 《現在地》
カエルの大合唱だけでなく、カエルそのものを頬が触れるほどの至近距離で目撃したカエル天国であるところの旧河道沿い軌道跡であるが、一度目に長い築堤でその旧河道を横断してから100mほどで、また同じように横断していた。今度は旧河道の右岸から左岸へ。
写真はその2度目の横断地点にて進行方向を撮影した。
鉄道らしい緩やかなカーブの築堤が、ほとんど見わたす限りに続いており、今日の探索ではじめて軌道跡を「綺麗だ」と思ったシーンだ。
残念ながらこの路盤には、レールはおろか枕木さえ残っていなかったが、確固たる林鉄の存在感が確かめられた。
カエルの合唱が後方に去ると、代わりにまた新鮮な水の音、渓声が近付いてきた。
軌道跡が旧河道に身を置いていたのはほんの300mほどでしかなかったが、それがいかに貴重な平穏であったかという事を、間もなく思い知る事になった。
そろそろ対岸にあった国道も、川を離れて山へと去る。
谷底をゆくのは我らが軌道跡だけになるというのに、両岸は遂に狭まって、まるで里と山の世界を分ける門戸のようになってくる。
また、そんな天然の門戸が最も極まった地点を選んで作られるのが、人類の力を込めたダムである。
であるから、ダム直下の地形が険しいというのは当然のことだった。
軌道跡は川と再開してすぐ、猛烈に草の茂った急斜面に掻き消えたのだった。
6:48 《現在地》
ぐぬぬぬぬ。
今年の春手に入れた情報を持って、その春のうちに探索したいという気持ちから、今日を決行日に選んだのだったが、6月9日というのはいささか遅かったらしい。
北東北の山の中だから、もう少し藪が浅いことを期待していたが、待ち受けていたのは、無惨な初夏の激藪だった。
探索不適度はマックスレベル!
斜面の微妙な凹凸や、路盤の残り具合なんかも非常に分かりづらくなっていて、少なからず後悔をした。
しかし、だからといって撤退するは悔しかった。
目的地までは、あと1〜1.3kmくらいであろう。
それならば這ってでも前進し、核心部を暴いてやりたいと思った。
その成果を報告することが、情報提供者が私に対し暗に期待している事だとも感じていた。
それから間もなくして。藪がどうのこうのという問題以前に、路盤は現実に歩行がほぼ不可能な状況に陥った。
川べりの急斜面につけられた路盤は、連続する埋没と欠壊により途切れ途切れになっていたからだ。
所々には石垣の残骸が半ば斜面に呑み込まれるように残っていたが、それらの上を歩くことは危険で難しかった。
我々は適当な所で路盤に見切りをつけ、斜面を伝って川べりに降りた。
予想以上の荒れ方だった。
そうして再び渡渉の道を選んだ(選択の余地は無かったが)一行を待っていたのは、太腿まで沈み込む深緑の水嵩。遡ろうとする我々を押し返す水勢は、なかなかに強烈だ。
最初の渡渉で濡れていたので、川を歩く事はあまり問題無かったが、この水量には不安を感じた。
流石に泳いで進むような準備も技術も無いのである。
どうやっても進めないような谷が、今に姿を見せるかもしれない…。
そもそも、あの“古写真”の谷底には、ほとんど水が流れておらず、その代わり広い河原が見えていた。
しかし、今日の水量は間違いなくそれよりも多いと思う。
ということは、同じように歩ける河原が存在するとは限らない。
あの“古写真”の絶壁に刻まれた“片洞門”や“洞門”が今も歩けるのならばまだいいが、もしそうで無いとしたら、我々は結局最後は突破出来ず引き返すハメになるのかもしれない。
谷いっぱいに、まるで大河のように流れる渓水。
その量もさることながら、長時間足を浸しているのが苦痛になるほど冷たかった。
周囲の緑はこれほど鮮やかに初夏を演出していても、源流にはまだまだ大量の残雪が溶け続けているのを予感した。
上流には目指す高坂ダムがあるので、水量はその機嫌次第だという面はあるのだが。
谷底から見上げる路盤の状況が多少でも改善したように見えたら、すぐまた川から上がるつもりでいたのだが、そういう展開にはなかなかならないまま、5分、10分と、河中の行進は続いた。
対岸に、物言わぬが何か言いたげな、面白げな形をした大岩があった。
今日の豊富な水量では、川中の島に近い大岩だが、その下流に面する側にだけ隙間無くツタが絡みついていて、半身緑、半身黒という、熟練の庭師か芸術家も斯くやと思われる造形を見せていた。
この間違いなく天然のものである大岩について、多少の地理的考察を試みるとしたら、恐らく昭和42年に高坂ダムが完成する以前には、このような大岩を押し流すほどの洪水がときおり起きていたのだろう。
それがダムの完成を境として増水の規模が小さくなったため、大岩はこのように少々不安定な位置に留まるようになり、さらに川下の側にツタが蔓延ることを許したのだろう。
さらに河中を進んでいくと、巨大な金属の板が落ちていた。
広さは一畳、厚さは30cmくらいもある。
一瞬、林鉄のガーダー橋の一部かと色めきだったが、そうではないようだ。
上面には運搬用の取っ手のようなものや、滑り止めの模様などが見て取れ、何かダム関連のパーツとも思ったが、正体は不明である。
いずれ、どこか上流から流れてきたのだろう。
7:26 《現在地》
河中の行進をはじめて15分が経過した所で、谷が右にカーブしている場所に辿り着いた。
地図を確認すると、ダムまではあと650mほどである。
例の隧道などがあると見られる目的地は、厳密にはダムより少し下流なので、いよいよ目的地は500m内外の至近に迫ったのである。
結局この間、我々の頭上に軌道跡の痕跡が断続的に見えたが、まともに歩けそうな場所がほとんど無かったので、見送り続けたのは残念だった。
だが、ここに来て突然、多少を無理をしてでも登ってみたいと思える状況になった。
なぜなら――
軌道跡に、大きな鉄の物体を見つけた。
ちょうどここは左岸に小さな滝が落ちており、軌道跡はその滝を2段に分ける“中段”として存在している。
本来はそれだけの場面であるはずだったが、そこには見覚えのない鉄の何かが“立って”いた。
探索者タルモノ、未知ノモノニハ多少危険ヲ冒シテモ近付キタイ。
我々は周辺を見回して、何とかよじ登れそうな斜面を探し出すと、一人ずつ登攀した。
一体これはなんだろう?
軌道跡と関係があるものだと嬉しいのだが、たぶんそうでは無いだろう。林鉄関係でこんなものを見たことは無い。
おそらくだが、ここがダムの近くであることを考えると、レーダー測量のために設置された反射板か何かの跡だと思う。
ダムの建設当時であれば、今のように路盤が荒れ果ててはいないから、機材の設置や巡回も容易かっただろう。
さて、せっかく路盤と再開したことだし、ここからまたどうにもならなくなるまで、この路盤を歩いてみようと思う。
振り返って見る方向は、とても無事に歩けそうに見えなかったが、この写真の前方については、まあ何とか歩いても大丈夫そうだった。
これまで同様、踏み跡とかそういうのは全くない、完全なる廃道ではあったが。
このまま軌道跡で500mほど頑張れれば、最も理想的な形で、目的の場所へと辿り着けるはず!
路盤跡を歩き始めて間もなく、一行の誰かが(自分だったかも知れないが覚えていない)河原に横たわる1本のレールを見つけた!
本日初のレール発見である。
残念ながら流出した残骸ではあるが、これまで軌道跡の周辺で見かけた“遺物”はどれも軌道跡と無関係そうだったので、このレール発見は嬉しかった。
出来れば近付いて手を触れ、また寸法も測りたかったが、今度は近場に下りられる場所が見あたらず、先ほどの地点まで戻るのも流石に嫌だったので、見送ることにした。
路盤上を歩き出して約10分が経過した。
この間、特に目立った遺構は無かったが、何度か危険な崩壊の現場はあって、それらをそれぞれの判断で超えていく過程で、“現場監督の中村”氏は、路盤から降りて再び河原を歩くという選択をした。
したがって今も路盤に残っているのは私とHAMAMI氏の2人である。
互いの姿は間近に見えるから、お互いに相手の進行具合を確かめながら、声を掛けあって前進する体制に変わった。
路盤組は主に滑落という危険に、中村氏は主に渡渉という困難に立ち向かった。
今は別行動はしていても、目的地までに再び合流できる機会があることを期待していた。
しかし、その機会はなかなかに訪れなかった。主に地形的な理由から。
7:55 《現在地》
さらに10分後。
相変わらず路盤と河床の間には垂直に近い崖が途切れずに続いており、我々は2人と1人で分かれたまま進んでいた。
高度的には高い位置にいる私だったが、周りの緑が視界を遮り続けていたから、谷底を進行していた中村氏のほうが視界に恵まれていたかも知れない。
だがそれでも、川の上流に今まで見えなかった壮大な岩肌を見つけた時には、半ば自動的に、そここそが目指す場所だと確信した。
それほどまでに、これまで目にしてきた風景とは、規模が明らかに違っていた。
それは、古写真を見た後でありながら、「こんな場所が慣れたつもりの真室川にあったのか」と、改めて驚くほどだった。
この写真は、岩壁の最も高い辺りを望遠で撮影した。
一番下に辛うじて水面が見える。上は見切れているが、もう少し上まで崖が続く。
その高さは50mどころではない。100m有るとしても不思議では無い見え方だ。
ただし、今のところ肝心な軌道跡の路盤や隧道に関するものは見えていない。
そして、この下流側からのアングルで何が見えるのかと言う事について何も事前情報は無い。
“古写真”と酒井氏が送って下さった最近の写真は、共に上流側の大体同じ位置から撮影したものだった。
今我々は、はじめて違う角度から被写体へと近付いている。
その事がもたらす興奮を得たいというのも、敢えて私が下流からのアプローチに拘った理由の一つだった。
いずれ、核心部まではもう200mと見た!
これが目的地と我々を隔てる“最後の難関”となるか。
はたまた、今は遮られて見えないその向こう側に、さらなる難関が待っているだろうか。
地形は最険のエリアを目前に控え、風雲急を告げる様相を呈している。いや、もはや嵐の中には立ち入ったと見ていい。気付けば周囲は岩場ばかりだった。
ここに至って、移動の自由度は前後のみという完全な一本道となり、姿は見える中村氏との再合流も当分難しいと見えた。
特に今の状況で危機的かもしれないのは、自分がいる“路盤組”の方と思われた。
中村氏のいる谷底については、今までもこれからもしつこいくらいの渡渉を強いられてはいるが、なんとか問題の絶壁の直下までは進めそうに、ここからは見えた。しかし、自分のいる路盤の先行きは見えないのである。
中村氏からどのように見えているのかも、渓声が喧しく、話し合いが不自由となっていた。
いよいよ、真剣な場面であった。
その興奮が、私を引きつるようにニヤけさせた。
そして、小山のように大きな倒木を乗り越えて、その先の路盤に初めて視線を進めた私は、思わず叫んだ。
隧道だっ!!
あの影にあの地形、もはや見間違えるはずもなく……確信!
やっぱり現存してやがったんだ。
貴重な写真を掲載してくれた山形県ありがとう!
場所を教えてくれた酒井氏ありがとう!!
安楽城林道時代における釜淵起点から数えての“第4号”とみられる隧道だった。
大沢川林道となってからの滝ノ上起点から数えたならば“第1号”の隧道か。
この路線のこの辺りは、歴代の地形図に描かれたことが無かったから、何か情報を得ないままだったら、私はいつまでも隧道の存在を知ることもなく、ここを探そうともしないままだったことだろう。
それだけに、情報はありがたく、また発見が嬉しかった!
正式名称など元から無かった可能性もあるが、本稿では“第4号隧道”と称したい。
これが“古写真”の右側に見える隧道なのだろうか。
であるとすれば、崖伝いに結構長いものかも?!
うぁー!2本だ!
2本だよ!!! 続けざまに2本あるよぉ!!
まっ 待てッ !
何本あるんだよぉおお!!
ここは地獄の様に怖ろしい天国だぁー…
おぶろぉだぁーー。
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