廃線レポート 和賀仙人計画 その6
2004.6.11



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、平和街道目標区間踏破間近。

その最終難関へ接近開始!



北本内川を渡る橋への道
2004.5.30 10:00


 すでに、この平和街道の踏破に取りかかってから、2時間50分が経過している。
多少の寄り道はあるだろうと思っていたが、これほど濃密な時間を過ごすことになるとは思わなかった。
嬉しくもあり、今後の残りの計画を考えると、多少ペースを上げなければならないなという気もする。
我々は、初めての廃墟探険に興奮を感じながらも、本来の目的に戻るべく撤収を開始した。
私は、侵入する前に草むらに置いていた、お気に入りのコンクリート鍾乳石(全長70cm)を手にすることを忘れてはいなかった。

各自、忘れ物はないか!

よし!
川をもう一本渡れば、和賀仙人集落となり、第一任務は完了である。
気合い入れて、行くぞ。


 街道筋は、ここまでの経路から言えば、サージタンク遺構と発電所遺構の中間付近の斜面を横断しており、正確に辿るには一度降りてきた斜面を登らねばならないのであるが、多少疲れも入っており、全員深く協議することもなく、何となく下に下にと、結局河原に降りてしまった。
この川は北本内川であり、写真正面の発電所放水路跡の橋台の様な石組みの奥は、和賀川との合流点となっている。
北本内川には、これより上流に家一軒と無いが、雫石町近くの相当に山奥まで続いており、その広大な流域面積による水量は、本流に負けず多い。
いざとなれば、この川を渡渉してしまえば強引に脱出と言うことも出来るが、いや、この水量では危険が伴うだろう。
慎重に、河原付近の浅い部分を選んで進む。
我々、山をよじ登り街道に戻る気合いは、廃墟に置いてきたらしい。


 河原を100mほど上流へ進み、くじ氏が偵察時にも渡ったという、橋を目指す。
なにか、“特殊な橋”らしいとは聞いているが、一体どんな橋だというのか、期待がふくらむ。

ちなみに、我々は時として、道を探して進むことよりも、進める場所を探して進むことを優先する。
特に精神的・状況的に余裕がない独り探索時、例えば偵察とか、ソロでの探険などではそうだ。
そういうこともあって、一度は逆側から踏破したくじ氏も、今回同じ場所を通ったと言う場所もあるが、そうでない場所もなかなり多かったと聞く。
また、春の一ヶ月弱で藪は猛烈に生長しており、同じ場所でも、そうは思えない様子になっていることもしばしばだったらしい。
しかし、やはりくじ氏の積極的なルートファインディング力と、それを実行し生還し得た脚力とは、賞賛に値するものである。
ここまでの道のり、独りで歩くのは、かなりの冒険であったはずだ。

我々は、川の一段上に道形らしいものを見つけ、そこへと登った。



だが、折角見つけたと思った道は、すぐに途切れた。
結局、これが街道の跡である確信は得られなかった。
心持ち位置が低すぎるきらいがあるので、なんともいえない気がする。

道が途切れた原因は、の4枚目の写真で見下ろした廃水路であった。


 水路は幸い水を通していなかったが(もし水が流れていたらと思うとゾッとする)、非常に急でかつ苔生したコンクリート斜面は、容易に立入り、横断することを赦さない。
ミスをすれば、10mほど下方の奔流にドボンといって、逝きかねない。
正直、ここは恐かった。

独りで歩くときに比べ、二人以上だと安心な場面というのは多い。
特に、距離が長い山歩きなどでは励まされる。
しかし、このような、どうしても当人だけの能力が求められる場所もある。
二人同時に手を繋いで渡るというわけにはいかないのである。
まあ、それでも色々と複数人だから助かるという点はあるのだが、やはり、一人だろうが複数だろうが、絶対的に独りになる場面は確かにある、というのが私の考えだ。

また、そんな考えに乗っ取って、合同調査も進めている。


 どのように歩を進めて水路を攻略したかと言うことは、まあ追試しようという人もいないだろうから割愛するが、何とか、全員無事にここを乗り越えた。
非情に危険な場所だったことは、肌で感じた。

で、吊り橋が見えてきた。
その橋の下には、腰まで水につかって釣り糸をたれるオヤジの姿も見える。
久々に人の姿と、その日常を見たことで、生還が近いという実感が湧いてきた。
なにか、特別な吊り橋にも見えないが、もういい、ネタにならなくて良いから、脱出しよう。
さっきの水路越えでかなり疲弊し、緊張の糸が、全員そろそろ危うくなってきていた。
私も、まあ山チャリ時は大概そうだが、徹夜明けである。

疲れてきた。


 で、残念だが、先ほどの水路を何とか“つらら”付きで突破した私も、この写真の岩場では、生き残ることが精一杯であり、泣く泣く“つらら”を水面に投げ捨てた。
今ごろは、勢いのある川水に粉々になってしまっていることだろう。

命の危険が特に大きな場面では、流石に写真撮影どころではない。
それで、このような「事後の振り返った写真」となってしまうのだ。
踏み込んでみたら、もう写真撮影どころではなくなってしまうということもある。
ここも、その様な危険極まりない岩場であり、我々は殆どフリークライム状態で、このオーバーハングに木々の幹を頼りに張り付き、奥から手前へと渡りきった。
ちなみに、足元は淵である。

…この後吊り橋で、釣り人に我々は言われることになる。

「落ちるかと思ったよ。」

突然山から現れたうえ、ヒヤヒヤさせて申し訳ありませんでした!



“度胸試しの橋”
10:14

 藪を掻き分け、遂に吊り橋の袂まで来た。
もはや、これが街道ではないだろう事は明らかであるが、さらに岩場によじ登り探索するのは危険すぎた。
昭和2年の地形図では、街道がこの北本内川を渡るのは、もう50mほど上流よりであるように見えるが…。
少なくとも、付近にこれ以外の橋が現存していると言うことは、なかった。

なにはともあれ、3時間ぶりに廃でない物を見た。
この吊り橋は、金属製でそこそこ頑丈そうなものだ。
これを渡ってこちら岸へ来ても、何処にも通じる道はない様に見えるが、まあ、それはよい。


なんだコリャー!

なんと驚いたことに、この橋はめちゃスリム。
超軽量化対策済み!
何故こうなっているのかは全く不明だが、左右の網は安全性重視の安心設計に見えながら、肝心の足場が終わっている。
これでは、吊り橋を渡らせるときの励ましのセオリーである『下を見ないで!前だけ見て!』をやったら、絶対落ちる。
不幸中の幸いというのか分からないが、落ちても死なないくらいの高さなのだが、容易でない。

こりゃ、確かに根性試しの橋と言うに相応しい。

森吉仕込みの“梁渡り”実装部隊の実力を見せてくれようぞ!



 こんな感じで、足場は大股歩きでやっと次の足場に届くという間隔のみにしかない。

両手が常にロープに触れていられるので、思ったほどの恐怖はないが、見た目のインパクトは未だかつて無い吊り橋だ。

そして、動作が大きくならざるを得ないので、揺れも相応に大きくなる。
揺れ大好きッ子の私は、スキップ気分でこれを楽しんだが、流石にくじ氏、顔色が優れない様子もあった。
パタ氏が、励ましている。


 橋上から、さっき我々を恐怖させた岩場を振り返った。
あの断崖を、超えてきたのである。
しかし、どう考えても、旧街道筋はこの断崖の上であろう。
藪の落ち着いた時期に、一度調べてみる必要がありそうだ。



 ちょうど、この橋の真下で釣り人が糸を垂らしていた。
その釣り人も、我々が渡り終えて、対岸の小道を道なりに登り始めると、後ろを追うように川から上がってきた。
彼らは、我々を追い越していくついでに、楽しそうに話しかけてきた。

よほど、可笑しげな連中に見えたのであろう。
さっきの崖を渡る我々の姿に、「落ちると思った」って…、

落ちてたら今ごろここにはいなかったかも知れない。



和賀仙人町へ到達
10:19

 水位計が備えられていると思われる小さなコンクリの小屋が吊り橋の袂にあって、ここから先の道は、釣り人達もアクセスする普通の歩道だった。
道に沿って、一段上ると、このさらに広い道筋に出た。
ここも歩道となっているが、かつては車道だったという位の幅がある。
おそらくは、これが探していた平和街道であろう。
そして、道は吊り橋の袂を素通りして、上流へも続いていた。

ここで休憩のパタ氏とくじ氏に断り、旧橋の痕跡を探しに、少し上流へと歩いてみた。



 50mほど平坦な道跡を行くと、頭上の崖が道に覆い被さるように険しくなり、そのまま道形も自然と呑み込んでしまった。
その先も覗いてみたが、そこには小川が流れ、滝となって北本内川に注ぎ落ちていた。
また、小川の上部には、北本内川林道のガードレールと橋が見え、無数の空き缶などのゴミが、辺りに散乱していた。
対岸には、道形が消滅した場所と同じくらいの高さに、河岸段丘らしいススキの原が見えたような気もするのだが、木々の葉が邪魔で、良くは見えなかった。
いずれにしても、架かっている橋はなく、橋台等も発見できなかった。
また、本内川上流500mほどの地点には、かなり大きな砂防ダムが微かに見えていた。

今回は時期が悪く、この北本内橋の遺構については、追調査が必要である。
さて、戻ろう。
 



 仲間と共に下流へと轍の残る土っぽい道を上っていく。
街道らしい雰囲気が残っている心地よい道だ。
ちょうど、川に面した岬のようになった場所に、3基の石碑が建立されていた。
一基は、昭和二十年建立と刻まれた「白鷲鉱山遭難者供養塔」、さらにその奥、岬の突端にあったのが、写真の石碑。
一つは基礎だけを残してそっくり消失していたが、もう一基、断崖に面して「水神」碑である。

無事生還の喜びに、思わず手を合わせてしまった。
これらは、街道時代からの碑と思われる。



 視界が開け、そこに二車線の見違えるようなアスファルト道が現れると、遂に脱出と相成る。
ちょうどこの場所が、北本内川と和賀川の合流点の直上にあたり、この岬の突端部に一基の吊り橋の基礎が残されていた。
この橋の反対側の基礎も、国道107号線からちょっと日本重化学工場側に入った道の袂にある。
それは以前確認済みであったが、対岸の基礎が、この地点に残っていたのは今回初めて知ったのである。
この橋、高さもかなりあるが、延長も50mではきかなかっただろう。
往時はかなりの名橋であったかも知れない。




 1029、
北本内林道に合流である。
ここから、パタ氏の車が待つ和賀仙人駅までは、500mほどである。
生還した喜びに上機嫌となり、3人はここで見た数々の遺構について言い合った。
言い合いながら、歩いた。

アツイ。
日射しが、熱い。
予想以上に盛りだくさんであったが、なんとか、一つめのターゲットを完了した。



 現在の車道は、勾配を抑えるためにやや遠回りをしているが、旧道筋が森の中に残っていた。
これを使って、駅までの道を僅かにショートカットできた。



 なにやら、和賀川を渡る橋の上でくじ氏の挙動が怪しい。
この橋が、相当に恐いらしい。

…真性だ。

くじ氏は、真性の高度恐怖症なのだとこのとき知った。
それなのに、趣味が滝巡りって、何か矛盾してない…?
いや、それがまた、くじ氏の味なのであるが。

そんなこんな、私が人のことを笑っていられる時間は、もう長くはなかった。


レポは、ここで終わってしまいたいんですが…?




え?
駄目ですか? パタリンさん。
え、最後までやれ?
ちゃんと、全てをさらけ出せ??

そうですか。
仕方がないですねー…





それでは、いよいよ次回より和賀計画後編のスタート。
後編は一転。「山行が」らしい軌道踏破作戦である。
ご期待を。

そして…


 ヨッキれん伝説、地に墜ちる?!








その7へ

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