廃線レポート 和賀仙人計画 その7
2004.6.12



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、第二指令へ移行。

和賀軽便鉄道の跡を追跡開始。



和賀軽便鉄道への挑戦
2004.5.30 11:37


 我々は、平和街道跡をほぼ計画通り踏破し、和賀仙人駅前に停めていたパタ氏の愛車へと戻った。
そして、心地の良い疲れを感じながら、次の目標である、和賀軽便鉄道跡の踏破を成すべく、行動を開始した。
まずは、平和街道の入り口に停めていたくじ氏の車を、湯田ダムサイト上に移動した。
この湯田ダムサイトは、軽便鉄道の踏破を完全に成功した場合の脱出点となる見込みの場所だ。

それから、パタ氏の車に全員乗って、後半戦のスタート地点である仙人鐵工所跡へと移動した。
ここは、かつては和賀鉱山群の鉱石を大量に集積精錬した大工業地帯で、いまも北上市の衛星工業地区として息を繋いでいる。
ここには軽便鉄道時代の仙人駅が置かれていたと言うが、更地化され痕跡はない。
その山際を、現在のJR北上線がトンネルで繋いでいる。


 現在地は、右の図中の「スタート地点」で示した場所である。

この後の予定を説明しよう。
我々の計画では、完全に軌道跡に追従して進み、湯田ダムによって行く手を阻まれるまでの踏破を最終目標とする。
前半は、旧北上線の廃線跡と平行する藪道が想定される。
また、中盤以降は、この踏破の最難所と思われる、大断崖地帯だ。
そして、大荒沢隧道(仮名)を経て、終盤の山岳地帯へと入る。
その距離、約2km。
この間、和賀川右岸には一切の並走路が無く、迂回路、エスケープルートもない。
しいて言えば、断崖を降りて和賀川を渡渉することで、国道への脱出が可能かも知れないが、それはもはやエスケープと言うよりも、危険な賭けとなるだろう。
途中で挫折した場合は、基本的には延々と戻ることになると考えて良い。



各車両の移動後、昼食を野外で摂り、計画を再度全員で打ち合わせ。
探険開始時刻は11時半を回っていた。
この軽便鉄道踏破こそが、今回の最大の目標であった。
平和街道など、当初オマケのつもりだった。
偵察時にくじ氏にひどく流血させ、未だその全容明かされぬ和賀軽便鉄道跡。
最強の部隊で最良の結果を残すため、単独踏破の栄光を放りなげ、私は仲間に助力を仰いだのだ。
わたしとて、なにもせずこの道を困難と決めつけていたわけではない。


 今年1月の隧道レポで紹介している「大荒沢隧道」とは、この先にある隧道である。
あのときは隧道のみに焦点を絞って探索しているが、それは時間的にそうする必要があったのみでなく、余りの断崖に完全踏破など既に捨てていたのだ。
諦めていた。

だが、くじ氏が森吉林鉄第四次探索で見せたファイティングスピリッツが、私の心に火を付けた。
彼となら、行けるかも知れない。
そう思うようになった。
そして、頼れる兄貴パタ氏の英知が、慎重さが、生還に必要だと感じた。

私は、この先の断崖突破のためだけに、この計画を提案したのであった。
全てを呑み込む和賀断崖に挑むことこそが、この旅の唯一の目的である。



 我々が歩き始める前に、再度持ち物の点検を行った。
リュックの中は本当に必要な物のみに絞って行きたい。

食料、地図、要る。
着替え、要らない。
ライト、要る。


「あれ、俺のライトは?」

(パタ氏は内心思った、「またかよ…このアルツめ…)

当然、車の中のどっかに在るものとパタ氏と私で車中を漁る。
だが、私のお気に入りの「SF501」は無い。

実は、私はライトを、あの発電所の2階踊り場に置き去りにしていました…。
梯子に登る前に、置いたんだよね。よく考えてみると。
そして、帰るときに私が握ったのは、あの巨大つらら、だけ。
ライトは、拾わなかった…。

 ヨッキれん、減点3。忘れ物する。



 パタ氏は、私に罵声を浴びせた 口汚く罵ることはせず、あくまで優しかった。

生きて帰ったら、帰りに発電所へライトを取りに行く手伝いをしてくれるという。
さすが、パタ氏だ。
パタ氏、さいこー! パタ氏、バンザーイ!

さて、代わりにパタ氏が二本のライトを準備し、いざ出発となった。
これまでもこの山中には、旧横黒線の仙人隧道探索に入ったことがあったが、その時は殆ど記憶がない。
山中は駆けた覚えしかないので。


 横黒線跡が仙人隧道に入るまでは、約400mほどだが、軌道跡と鉄道跡は並走している。
写真は、水路状に固められた急な小川を渡る横黒線の橋梁跡。
現在は、その橋台を利用して水道管が通っている。
水道管が現役かは、わからない。
この水路の底に立ち下流を見ればすぐそこに、軽便鉄道の跡を発見できる。



和賀軽便鉄道跡へ進入
11:41

 これが、軽便鉄道の橋脚である。

小さい。
頭上に聳える鉄道の橋台に比べれば、まるで玩具のようだ。

我々は、ここで軽便鉄道跡に上陸した。
この先、意地でも食らいついて離さないぞという気持ちで、草むらを踏みしめて歩く。
辺り一帯、いまは鬱蒼とした森だが、以前の姿は全く異なっていたことが、机上調査によって判明している。


 これは、大正13年に当時の横黒線、現在で言う北上線が全通した際に、丁度この辺りで撮られた写真だ。
巨大な築堤の上を走り隧道へ吸い込まれていくのが開通したばかりの横黒線。
さらに、その築堤の下に見える細い鉄路が、和賀軽便鉄道である。
公式には、和賀軽便鉄道は明治40年から大正11年までの営業とされているが、終点の一駅前の仙人駅と、終点である仙人鉱山駅との間だけは、この写真が撮られた大正13年までは存続していたと考える。
大正13年に和賀軽便鉄道と全線平行していた横黒線が和賀仙人駅から延伸され、仙人鉱山駅の傍には、大荒沢駅が設けられた。
このときに、遂に和賀軽便鉄道はその歴史を完全に閉じたのではあるまいか。

あくまでも、推論の域を出ないのだが…。



 鬱蒼と生い茂る雑木林に、腰まで埋もれる夏草の海。
ここにかつてレールがあったことだけでも信じがたいのに、当時の写真を見れば、付近には多数の建物が写っている。

正確な情報は未だ得られていないが、おそらくは、大正年間に廃止された軌道跡である。
この先の状況が好転するという期待は、まず無い。
これまで山行がで取り扱った廃線の中でも、ダントツの古い廃止である。
ちなみに、頭上の横黒線が、湯田ダム工事により現在の路線へと変更されたのは、昭和37年。
また、その4年後に、北上線と改称されている。


 それでも、地形がこの辺りは険しくないために、軌道跡は木々の薄い場所として、確かに残っている。
さらには、和賀川へと落ち込んでいく向かって右側には、低い石組みの路肩が残されている。
所々崩れ定かではない場所もあるが。



 まだ穏やかな地形の中、緩やかにカーブを描き緑の先へと消えていく軌道跡。
点々と続く石組みが見えるだろうか?
もうすでに、人がここを通っている痕跡はなにもない。
残っているものは石垣だけだが、軌道跡を歩くという醍醐味を存分に味わえる。
一見うるさそうな藪も、木陰の植生はどれも柔らかく瑞々しいものばかりで、それほど苦痛ではない。



 写真は、軌道の脇に見つけた謎の構造物である。
軌道跡は写真左の石垣の上であるが、これに沿って深さ3m、縦20m、横5mくらいのプール状の地形が築かれている。
辺り構わず木が生えており、往時の姿を予想することも難しいが、これは何だったのだろう?
そのまま凹みを進むとすぐに行き止まりであるが、そこにも奇妙な構造が見られた。



 これである。
コンクリート製の堰のようだが、この裏には水路らしいものはなにもない。
坑道の跡かとも思ったが、塞いでいるコンクリは高さが足りない気もする。
今は埋められていうるだけで、やはり水路が奥へと伸びていたのだろうか。
かつての写真には、この辺りに数軒の民家らしきものも写っており、溜め池などがあったとしても不思議はない。


 発見は相次いだ。
平行する横黒線の高い築堤を貫く暗渠だ。
暗渠はくじ氏と比較してみてもらえば分かるように、それほど小さなものではない。
人が通れるほどの高さがある。
その縮尺で見れば、築堤が如何に大規模なものであるかがお分かり頂けるだろう。
よく見ると、築堤の斜面は土ではなく、石垣である。
瓦礫状の石が、積み上げると言うほど丁寧ではないが、密に敷き詰められている。
その上に、苔や羊歯、細い木々などが生えているのだ。

私は以前、この築堤の上を夕闇の中走ったはずだが、全然こんな場所があるだなんて知らなかった。
こんなに高いところを走っていたとも思わなかった。



 タマゴ状の暗渠はコンクリート製。
大正期からはコンクリが登場し、明治の煉瓦と比して派手さはないが、年季の入ったコンクリの味、私には分かる。




 写真は、暗渠を振り返って、軌道上から撮影。
この暗渠が供されていた今は水のない小川だが、長い年月の内で浸食が進み、軌道跡を完全に消失せしめていた。
もっと言うと、軌道敷きは削り取られ落ち、和賀川に流れ消えたのだ。
それで、ここでは軌道を辿るために一旦暗渠の傍を経由する必要があった。
一部は幅30cmほどしか足場が残っておらず、結果的にこれが一つめの難所であった。

深さ十メートル以上も抉りとられた谷を覗き込むパタ氏の表情も、やや曇りぎみだ。

そして、これは難所のはじまりでしかなかった。
この地点を最後に、もう二度と横黒線には出会わなかった。
もう、逃げ場はなくなった。




 和賀川に沿っているが、まだその川面は見えてこない。
それは、まだいくらか軌道の通り道に選択の余地があることを示している。
今に、和賀川が視野の半分を常時支配するようになる。

我々の前に次に現れたのは、巨木の生い茂る掘り割りであった。
両側に高さ2m程度の石垣が築かれ、この隙間をやや右にカーブしながら通っている。
全体的に石は大きめで、その重力だけで法面を支えている。
流石に崩落している箇所もあるが、この規模を考えれば、良く原形を留めていると言える。

しかし、この美しくもある掘り割りの全体像以上に、我々の目を惹いたのは、一本の巨木だった。





 こんなことが、現実に起きうるのかと驚いた。
パタ氏は身長180cmを超える。
その彼と比較して、この巨木(木ではなく、巨木と言っていい大きさだろう)はなんなんだ。
まるで、石垣から映えたキノコのような、それがとてつもなく生長してしまったような、…何とも言えない異様な光景。
あるいは、力こぶを作っているときの人間の腕にようにも見える。

この木、開通当時に石垣の片隅で芽を出したのだろうか?
だとすると、樹齢は100年近いと言うことになる。
あり得ないサイズでもないのだろうか。




 石垣を振り返り撮影。
穏やな森の道が、その凶相を露わにする時は近い。


次回、いよいよ探険隊の身に死の危険が襲いかかる!







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