わずか700mの県道不通区間とは、下染屋と上小国の集落を結ぶ、小さな峠越え区間であった。
下染屋側からチャリを伴って進んだ私は、車こそ通れないものの、そこに確かな道が存在することを確認する。
そして、その道は一路、峠の堀割へと私を誘った。
少しでも楽に安全に往来したいという、いまと変わらぬ人々の欲求が、古い時代に結実したと思われる、素堀のままの切り通し。
軽トラ一台がようやく通れるくらいの、狭くて暗い切り通しを抜けると、下りが始まる。
不通区間は、残り400mほどだ。
登ってきた西側同様、東側も杉の植林地の光景が始まった。
路面には一切の轍も踏み跡も見当たらない。
しかし、東側よりも道幅は確実に広く、むかし村人たちが総出で道普請を行ったのか、などと想像できる。
チャリに跨り、快調に下り始める。
このまま里まで下れるものと思いきや、林相が突然大きく変わった。
私にとっては見慣れぬ林相。
竹林の出現である。
実際、竹林の廃道というのは、これが初めての経験であった。
何事も初めてというのは行動に無駄が多いもので、初めて遭遇する「竹藪」に難儀させられた。
そして、ものの数分で、竹藪は薮のなかでも難易度が高いということを、体で覚えさせられた。
バッチバッチ撓ってきて、いてーし。
そしてこれは前にテレビでみた話の受け売りだが、竹林というのは人が丁寧に手入れをしてやらないと、手が付けられない激藪と化してしまうのだという。
枯れて倒れた竹を人が時折整理するからこそ、あの絵になる美しい整然とした竹林が生まれるのだ。
手入れのされていない竹林は、足を踏み入れることさえ出来なくなると言う。
そして、里の裏山に広がるこの竹藪もまた、同じ問題を抱えているようであった。
もともと竹は繁殖力が旺盛で、かなりこまめに手入れしなければいけないのだ。
初めのうちはそれでも結構なペースで進んでいたものの、竹藪の奧へ進めば進むほど、下って行くに比例して進行は困難なものになっていった。
枯れて倒れた無数の竹が、道を容赦なく寸断していた。
一部は真っ黒に変色しているが、なお生きたままの竹の姿をしている。
しかし、そのようなものは軽く足を乗せるだけで、パッキンと乾いた音を上げて砕け散った。
よく撓りを誇る竹がこんなになるほど朽ちても、なお踏みつけられるまで原型を留めているのだ。自然には分解されにくいのも、竹の持つ防腐効果の賜物だ。
薮となった竹林の恐ろしさを感じながら、チャリを横に縦にと何度も持ち替えて、どうにかこうにか下っていくのであった。
また、風に揺れる竹藪は、鹿威しのような甲高い音を不定期に掻き鳴らした。
これにも、慣れない私は恐怖を覚えた。
急に進むペースは遅くなり、軽く焦りを覚える私だったが、それを励ますように薮の切れ目に里の家並みが見えてきた。
行く手に地形図には無いヘアピンカーブが現れた。
苦労して突破した竹藪の特に薄暗いエリアを一旦は通り越したと言うのに、またその方向に逆戻りか。
嫌な予感がしたが、まずは道なりに下っていくことに。
ちなみに、このヘアピンの外側にも踏み跡らしきものが伸びているのを見つけた。
すまん! 撤退。
無理無理、これは無理。
そこはまるで監獄だった。
チャリ無しならどうにか突破も出来たかも知れないが、チャリは通せない。
ここでは私はろくに足掻きもせず、ものの2分くらいの挑戦で断念した。
それに、この薮の向こうには人家の屋根が見えていた。
多分、すぐそこまで下の道が迎えに来ている筈だ。
不本意ではあるが、まずは道へ脱出して、反対側から辿っても、まあ良かろう。
妥協だがな。
すぐ手前のヘアピンカーブへ戻り、その外側へ真っ直ぐ続く小道へ進路を切った。
そこはやはり本来の道では無さそうで、道幅もあってないようなものだったが、それでも古い踏み跡の気配はあった。
幸い竹の密生もたいしたことが無く、この道で順調に高度を下げることが出来た。
行く手の光が徐々に広がってくる。
薄暗い竹藪の外縁が近付いてきた。
あの光の元には、ちゃんとした道が待っているだろうか。
不通区間も、あとわずかか。
午後2時02分、峠からは17分をかけて不通県道の片割れへと脱出に成功した。
最後の斜面には道が無く、仕方ないので強引にチャリを降ろそうとするも、途中でツタに絡まり、ズルズルズルと、情けない脱出シーンとなってしまった。
そう! 全般的に締まりのない峠であった。
だが、嫌いかと言われれば、そうでもない。
全般的に生活感の漂う峠道で、自動車が主役になる前には役立つ峠だったのだろうと感じた。
脱出した先は、砂利道だった。
そして、これが県道318号の一部である。
ちょうどヘアピンカーブの先端に脱出してきたが、やはり本来の県道指定線はここではなく、もう少し先で薮に入るのだろう。
もう終点(路線的には起点)上小国は目前だが、一度この砂利道を上り直してみることにする。
砂利道をそのまま少し進むと、ぽつんと一軒の民家があらわれた。
小さな実をたわわに実らせた柿の木が目印だ。
そして、この民家の赤い屋根には見覚えがある。
先ほど竹藪に屈して引き返すとき、僅かに薮の向こうに見えていた屋根に間違いない。
そう言えば、この民家の軒先には、僅かだが反対方向に切り返していくようなタイヤの跡が付いている。
このタイヤ痕を目で追っていくと……。
凄まじい激・ヤブ!
だが、その草藪の向こうには、先ほど私を撃退したばかりの枯れ竹の薮が、まさに密林然としてそこにあった。
やはり、本来の県道の線はこの道らしい。
地形図でも端折られるほど小刻みな線形であるが、実際にはつづら折れを描いていたのだ。
不通区間の実走を終えてみて、地形図以上に正確な不通区間の地図を描いてみた。
ラインの太さがそのまま道の太さだと思ってもらって良い。
また、現在地から南に延びる点線は、激藪を通り抜けられず迂回に使ったルートである。
そしてレポもいよいよ最終章だが、ここからは「不通でない区間」、つまり“普通”の区間である。
とはいっても、もう起点までたった500mも無い。
県道の起点に続く区間でありながら、殆ど誰からも県道だと思われていない、不憫な区間でもある。
ご覧頂こう。
砂利道となった県道をひとしきり下っていくと、行く手に舗装路が近付いてきた。
その向こうには、白い大きな工場が見えている。
また、道の周りには林檎畑が広がっている。
午後2時08分、上小国集落の西側にて舗装路へ合流。
だが県道はもう少しだけ続く。
振り返って撮影。
右の道が県道である。
県道を主張するようなものは何もないかと思われたが、一本だけ佇む薄汚れた「通行止め」の標識が、密かに県道の証しを身につけていた。
「この先100m」の補助標識を従えた、「車両通行止め」の標識。
峠の反対側にはこの標識さえ無かったが、起点側だけあっていくらか顧みられているのだろうか。
もっとも、このような標識が無くとも、現在は100m以上先に道を見つけることさえ、困難である。まして車で進入することは不可能だ。
この標識、激しい逆光に輝いているが、かなり埃を被って汚れている。
相当に長い年月をここで過ごしているようだ。
そして、標識の支柱部分に、確かな県道の証し。
「福島県」の文字が見られた。
ようやく舗装路となった県道は、上小国集落を突っ切って、起点を県道51号との交差点に求める。
この間には、上小国川を渡る一本の橋が架かっている。
それは、不通県道の憂鬱を感じさせる、お馴染みの姿であった。
橋の名前は、城戸ノ内橋。
昭和49年竣功とのこと。何れも銘板から。
しかし、銘板は欄干ごとあさっての方向を向いている。
その上、酷く錆び付いて赤茶けた、欄干。
内陸のこの場所で、これほど錆び付くには、一体どれだけのあいだ放置され続けてきたのか。
しかも、橋自体は2車線の巾があり、不通県道の悲哀を醸し出す。
おそらくこの橋を架けた時点では、このまま峠を越える車道の完成も視野に入っていたのだろう。
そうでなければ、当時はまだ県道ではなかったろうこの橋が、こんな立派に建造された理由の説明が付かないように思う。
橋を渡って振り返ると、いま来た橋の向こう側に、桜の古木に囲まれた、いかにも古びた、そして風格のある建物が見えた。
気付かず通り過ぎては来たが、県道が橋に向かって90度カーブする、その場所に建つこの建物。
なんとなく気になって、戻ってみることにした。
すでに使われなくなっているらしい木造二階建ての建物。
小学校か或いは… と思って階段を上っていくと、表札が残っていた。
そしてそこには、思いがけぬ旧字体を見ることになった。
記されていたのは、
福島縣伊達郡 小國村役場
それは、明治22年から昭和30年までここにあった、村の名前だった。
霊山町の一部になって以来半世紀、さらに今年より伊達市に替わっているので、行政体としては2代前の名だ。
その役場が、この上小国の集落の真ん中、不通県道の沿道に建ち残っていた。
き た … 。
じ〜〜んと。 何かが 来た。
小国村は、かつての霊山町の南西部を担っていた山村。
この木造2階建ての役場に、どんな人間模様があったのか。
私の想像は、身勝手にどこまでも進んでいった。
……いつもステッキを片手に自慢のちょび髭が似合う、丸眼鏡の村長。
役場前の村中心部から、山を隔てた隣の大波村への車道を建設することに執心し、時折県都福島へ赴いては滑舌悪く熱弁を振るった村長。
村の子供たちにハゲだと笑われ、村の催し物では挨拶が長いと村民に煙たがられ、しかも顔を紅潮させて話すものだから、時折咳き込んで、その都度若い助役に肩をさすられる、村長……。
や、やばい、 ラブだ……。
妄想はこのくらいにして、村の目抜き通りだったろう役場前の道を、橋を渡って往く。
現在はこの道に面して大きな工場が立地しており、県道は従業員駐車場と社屋に挟まれ、なんとなく生活感の無い道になってしまっている。残念だ。
だが、最後にもう一つだけ、この道は私へメルヘンを用意してくれていた。
間もなく、突き当たりのT字路がが見えてくる。
県道の起点である。
写真左、不通県道側から起点を望む。
カーブミラーと止まれの標識の他は、何もない。
写真右、合流する県道51号(霊山松川線)より分岐を望む。
こちら側にも、何ら県道の分岐点である案内はない。
寂しすぎる扱いだ。
一応起点なのに。
角にある、もうやっていないタバコ屋。
なぜか、そのカウンターには大量の空き缶が、整然と並べられている。
「ダイドーD-1 ×15」
「ワンダデミタス ×1」
「リポビタンD ×1」
果たして、これは何を意味しているのだろうか。
この角にあったものは、ヘキサなどよりもっと深く、古い歴史を持つものだった。
目に付いた瞬間、思わず手を叩いて喜んでしまった。
そこにあったものは……
小國村道路元標
あまり山行がでは取り上げてこなかったが、道路元標は昔の道路には欠かせない存在であった。
大正8年に施行され昭和27年に廃止された(旧)道路法においては、全国津々浦々全ての市町村に、必ず一基ずつ建設が義務付けられていたもの、それが道路元標だ。
県道は国道の起終点を、各地の道路元標が担っていた。
そして、各県知事が認定し官報にも記載された道路元標の位置は、各市町村役場の前、もしくは主要な交差点と決められていた。
現行の道路法においても道路元標は道路付属物として規定されているものの、その設置は義務付けられていないため、新規に設置されるケースは殆ど無く、むしろ道路工事や沿道の開発によって昔の道路元標が次々と失われている現状だ。
短い不通県道を乗り越えてやってきた小国村。
そこには、半世紀も前の村役場が健在で、さらに道路元標までもが、その隠された起点を指し示すかのように残されていた。
小さな峠を巡る村の歴史について色々と想像させる、短いが濃密な旅だった。