福島・宮城県道45号 主要地方道 丸森霊山線 後編

公開日 2006.11.11
探索日 2006.04.24

峠への長い80年

笹茂る峠路


 笹ノ峠への伊達市側は、かなり稜線の近くまで新設された県道が伸びており、その途中から古道へと分け入った私に科せられた残りは、そう長くないようだった。
松の高木が疎らに生える斜面の先を見通すと、もうそこに空との境界線が見えている。
しかしこの道、遠目にはとてもここに道があるとは分からないだろう。
朝までの雨でじっとりと濡れた腿くらいの深さの笹藪が一面に広がっていて、僅かに窪んだ道の痕跡を選んで進む私のズボンは、忽ちびしょ濡れとなった。
押し進むチャリの前輪を舳先のように、緑の海原を突き進んでいく。



 2万五千分の一地形図には今も幅1.5m未満の道(点線)として描かれている峠越えの道だが、実際にはそこに描かれていない細かなカーブが無数にあった。
この写真の箇所では、道は180度方向を転換するヘアピンカーブを描いていた。
地形的には、真っ直ぐ稜線へ上ってしまうことも出来るくらいに緩やかなのだが、敢えて屈曲し勾配を抑えてある。
それは、この道に自動車とまでは行かないものの、かつて何らかの軽車両が往来した歴史を感じさせる。

 笹藪の絨毯がぱあっと明るくなる。
さっき福島平野に見えた晴れ間が、十数キロを移動してきて、いま笹ノ峠に差し掛かったのだろう。
この後も、天候は斑に変化したが、やがて晴れへと落ち着いていった。



 二回ほどヘアピンを乗り越え、いよいよ鞍部とそう変わらぬ高さまで来た。
相変わらず松と笹の支配する軽やかな風景。
不通県道の突破と言えば、大概は、もう嫌になるような道を辿らねばならない事が多いが、この笹ノ峠は例外的に快適である。
むしろ、この程度の山並みを、未だ車道が越えていないと言うことに意外さを感じる。



 道は殆ど平坦になったが、油断は禁物だった。
これまで道の右側にある程度距離を保っていた沢がいよいよ源頭に達し、道のすぐ傍まで登り詰めてくる。
すると道は日なたとなって、そこには笹だけでなく、非常に邪魔な薮が現れ出す。
幸いまだツタは冬枯れの最中で、あの恐るべし撓りはない。
自分が先導しグイグイとチャリを引っ張って、引っかかるツタは強引にちぎりながら進んだ。
もう、峠はすぐそこだ。



 笹ノ峠は、阿武隈山地らしいなだらかさを持った峠である。
海抜550mは同山地内で比較的高い峠だが、南方直近に聳える霊山の夥しい岩峰の連なりを見れば、ここが古来重宝されてきた峠だと窺えよう。
事実これより南、霊山までの間に他の峠は見当たらない。

 峠鞍部を目前にして、祓川源頭の小湿地が古道の袖を濡らす。
傍らには、ここまで見ることの無かった50cm四方くらいの石が一つ二つ露出しており、或いは旅人の腰掛け石だったものだろうかと思ってみたり。


 午前9時08分、笹ノ峠に到着。
古道に分け入ってから約20分、距離にして400m程度だろうか。
それほど困難な道のりではなかった。むしろ新道が現れる前までの、急勾配の砂利道がしんどかった。

 笹が生い茂っていたからこの名前が付いたという由来の通り、今日でに峠周辺には一面の笹原が広がっている。
木々はまだ新芽を出すにいたっておらず、鳥や虫たちの姿も無い。
ゆったりとした鞍部には、冬が置き忘れたような静寂が充ちていた。



 ん?

 きのこ?


 こんな時期なのに?



 いや、どうやらこれはキノコではないぞ。
どちらかというと無機物。
…キロポスト… その仲間。

 なぜか数字が記載されていないキロポスト。
ここが県道である動かぬ証拠と言いたいところだが、肝心のキロ数の表示が無く、また前後の何所にも続きとなるキロポストも見当たらない事から、将来の県道の峠の位置を“予約”する意味で設置されているのかもしれない。


 わー!
 俺じゃないよ。

なぜか、小さなキロポストは中程で綺麗に切断されていた。
何者かがキノコと間違って収穫しようとしたのか…。

なんとなく気まずくなった私は、それを元の形にそっと戻すと、その場を離れた。
 



 峠からの下り それは県道なのか?


 笹藪の中に切断されたキロポストが眠る、不通県道の峠。
キロポストの他には何も見当たらなかった。
一応は福島県と宮城県の県境なのだが、車が通れない道に県境の標識も不要なのか。
そこから宮城県丸森町側へと10mほど進むと、意外にも車の轍が現れた。
宮城側は、なんと峠まで車道が通じていたのだ。


 鞍部の端っこを掠め、稜線に沿って南へと林道らしい道の一方は続いていた。
峠から丸森町の最奥集落である筆甫(ひっぽ)地区へと下るには、素直に鞍部から真っ直ぐ続く方へ行けばいい。
不整地で活躍する小型のブルが路肩に停められていたが、あたりに他の車や人影はない。
しかし、周囲は人工的な杉林というでもなく、単に薪を集める為の機械のようだ。(今でもこの地方の山村では薪は立派な生活物資である)



 午前9時13分、笹ノ峠を発つ。

 その道は、勢いよく斜面を駆け下っていく。
ブルの轍が鮮明に残る泥っぽい道で、普通車では滑って登れないのではないか。
はたして、これが不通区間とされる県道なのか、或いは偶然ここにあるだけの道なのか、残念ながら私には判断がつかなかった。
キロポストや県標柱の一つでも見つけられれば良かったのだが。
ただ、細かく探したわけではないので、実はあるかも知れない。
チャリだと、どうしても下りの探索は目が粗くなる。


 手持ちの地図だと、峠の宮城県側は県道の色が復活するまで、1.7kmほどの無色の道が描かれている。
下っていくとこの車道は砂利が敷かれはじめ、普通の林道のようになったが、地図に記載があるのはもっと古い古道かも知れない。
いずれにしても、車道はやがて「平場」という谷間の地区に降り立つ。
そして、そこから先はおそらく、県道なのだろう。(地図では県道の色が塗られている)



 ちなみに、不通区間には行政上の「自動車交通不能区間」という“正式名”があり、その定義は簡単に言うと「供用している道路のうち、最大積載量4トンの貨物自動車が通行できない区間」というものである。
つまり、歩いて通れるだけでは駄目だし、普通乗用車が何とかギリギリ通れるだけでも、駄目なのだ。
また、まだ建設に着手していなかったり、その路線中に供用区間が全くないなどの「未供用」の道の場合も、これには当てはまらないのだ。
そう言うことを踏まえると、単に歩き道しかないこの笹ノ峠も、また霊山の不通県道31号もどちらも供用済み県道であり、正式な「自動車交通不能区間」であることが理解できる。



 いよいよ畑が現れ始め、里は近い。

 それにしても、この道は砂利こそ敷いてあるが、殆ど車が通っていないようだ。
この日一台も擦れ違わなかっただけでなく、敷かれた砂利の上に轍が見られず、構造もきわめて簡易的という印象を受けた。
これが県道だとすれば、それはそれでかなりの驚きだ。


 更に進むと鋪装が復活するが、今度はもの凄く道が狭い。
左右の写真は共に途中にある合流を振り返って撮影したものだが、今写真を見直してもどちらが正解だったのか思い出せない。
下ってくる分には問題ないのだが…今度登りなおそうと思ったら…。

 確か、両方とも右が正解だったと思う…。


 3度目の合流で、道は内川の川沿いに降りる。
地図ではここから県道の色が復活している。
ちょうどそこが平場という地名だ。だが、今は人は住んでいないかもしれない。

 今度は内川沿いに下っていくが、谷が狭まって両側に山が張り出して来たところに、鮮やかな鳥居がある。
霊山を彷彿とさせる巨石を背後に控えた神社で、その石段を傍らに通り抜けると、また景色は開ける。
いよいよ人家も現れて平松地区である。
そして、この写真にある2トン制限の小橋を渡る。
この辺りは一応県道らしいが、何の案内もない。



 牛の歩みで峠を目指す新道


 県道という確証を得られるようなものが何もないまま、峠から2.5kmを一気に駆け下ってきた。
時刻は午前9時26分、峠からはあっという間だった。
そして、唐突に2車線の立派な道へと突き当たった。

 写真は合流地点を振り返って撮影しているが、向かって左の道から出てきた。
そして、手前方向へと丸森町中心部へ続く県道は進む。
地図上で県道の色が塗られているのは、左から来て手前へのルートである。

 だが、逆側から県道を走ってきたとしたら、まず、分岐に気付かず真っ直ぐ進むことになるだろう。
では、この先には何があるのか。


 気になって進んでいくと、一見綺麗に見えた路面が、実は継ぎ接ぎだらけの、しかもかなり日焼けしたものであることに気付く。
さらに進むと白線も消え消えとなり、越えたばかりの峠へと戻ろうとするような登りが始まった。
道の両脇に取り付けられているデリニエータ(視線誘導標、道端にある反射材付きのポールなど)には、宮城県と記されている。
この道こそが宮城県側から峠を目指す真打ち。
県道の新道らしかった。

 しかし、その結末はあまりに呆気なく訪れた。



 合流地点からは僅か500m。
唐突な幕引き。
通り抜け出来ない旨の立て看板が一枚あるだけの、何とも殺風景な終着風景。
鋪装が途切れ、道幅も急激に減少。
峠を目指す新道は、なお峠まで多くの距離と高低差を残したまま、ここで終わるのだった。



 諦め悪く、その先に続く狭く荒れた砂利道へとチャリを進めてみる。
しかし、それが新道として作られたものではなく、ただ単にそれ以前からここにあっただけの林道なのは明らかだった。
それでも、地図に描かれている終点まではと、先ほどまでの道よりも更に荒れたオフロードを進む。
堪らず汗が噴き出す。




 夏の間は薮に隠れてしまいそうな道。
左に小さな沢を見下ろしながら、笹ノ峠とは一筋ずれた鞍部を目指して進んでいる。
おそらく県道の予定線は、この沢を登り詰めた後でゆったりとしたカーブを連ね、あのキロポストの鞍部を目指すのだろう。



 荒れた道を600mほど進んできた。
地図ではここで沢を跨ぎ、さらに対岸へと道は続くのだが、それらしい場所にあるのは、沢の流れで無惨に崩壊した築堤の残骸だけであった。
対岸にも僅かに路面らしいものが見えたので、ここにチャリを置いて進んでみることにする。
写真からは分からないが、この築堤跡はもの凄いイバラの密生地で、カメラを操作するために手袋をしていなかった私はその指に出血を見た。
以来数ヶ月間、不幸にも棘の一部が体内に残留し、化膿して痛んで散々な目にあった。



 確かに地図にある道は存在する。
だが、砂利を抜き取られたように路盤は窪んでおり、これは自然の現象とは考えられない。
おそらくは人為的に廃道化されたのだろう。こんな綺麗に凹んでいるのは見たことがない。
海抜は再び400m台に突入しており、高さの上では峠も近付きつつある。しかしその進路は峠に向いていない。



 かつては確かに車道規格で造られただろう道が続いているが、見た目以上に路盤は荒れていて歩きづらい。
杉の林があることから、それを目的にした造林道路ではなかったか。

 この先間もなくで、地図の通り道は無くなっていた。
薮に掻き消えるように。(次の写真参照のこと)



 河北新報社が刊行した『みやぎの峠』という本にも、他の多くの峠と共に笹ノ峠が取り上げられている。

 それによれば、この笹ノ峠に始めて車道が企画されたのは大正12年であるという。
その年、丸森霊山線が県道に編入され、筆甫村(現在の丸森町字筆甫地区)から福島県伊達郡霊山町へと車道を建設する運びとなった。
車道新設工事は大正15年に起工したというが、それから80年を経ていまなお車道は繋がっていない。
昭和46年には「丸森霊山線全面改良事業促進期成同盟会」が結成され、建設工事はその後も進められて来たが、昭和55年末でなお不通区間が2kmあったと、記されている。




 現在(平成17年)、私の見立てでもなお、不通区間は2km弱あるだろう。
近年は、殆ど進んでいないようだ。

 午前9時47分過ぎに、つまらぬ負傷をしながら廃道の終点に到着。
そこに新設県道の影を見ることもないまま、同じ道の引き返しに入った。
はたして、ここに新しい道が引かれる日は来るのだろうか?
個人的には、あればそれなりに利用される道だと思うが、いかがだろうか。




 存在感の薄い主要地方道


 15分かけて舗装路に戻り、峠への分岐を今度は突っ切って、この県道の起点である丸森町中心部へ向けて快走する。
そこには、大正時代より同じ名で主要地方道たり続ける道の、恥ずかしくない姿があった。
人が住んでいる場所の道路は、この平成の世にあって、あらかた改良されつくされたという感はある。
こと平野部に近い場所では。

 合流地点から1kmほど下ると、肱曲(ひじまがり?)地区である。
橋の向かいには、おそらく筆甫村の中心地だったろうT字路がある。
旧家らしい大きな商店がある。



 このT字路は主要地方道と一般県道102号平松梁川線との分岐である。
この交差点が平松梁川線の起点なのだが、そちらはやはり枯松峠をへて伊達市(旧梁川町)へと続いている。
以前は路線バスも通った道で、枯松峠の車道が完成したために笹ノ峠の重要度が落ちたことは容易に想像できる。

 この交差点には、久々に我らが主要地方道31号丸森霊山線のヘキサがあった。
だが、その存在意義に水を差すような通行不能の予告標識も同居している。



 写真は丸森町側から交差点を振り返っている。
向かって左に折れるのが主要地方道なのだが、扱いは明らかに格下であるはずの一般県道に分がある。
行き先無しの青看が泣かせる。


 うっ うっ… っ




なお、ここに架かる橋の名前は小筆甫橋。
平仮名にすると、ご覧の通り。

 かわいー。


 何はともあれ、不通区間である笹ノ峠を無事に突破した私は、この後も山チャリを堪能した。

 いつか、この道がなんの面白みもない車道の峠に変わった日が来たとしても、私はそれを祝福出来ると思う。