道路レポート 
静岡県道38号掛川大東線旧道にある
3本の煉瓦トンネルの先代ルート(掛川大坂往還) 第1回

所在地 静岡県掛川市
探索日 2023.03.19
公開日 2024.08.08

《周辺地図(マピオン)》

静岡県掛川市といえば、言わずと知れた、東海地方きって古トンネルの多い街。
当サイトの過去作では岩谷隧道や「上張の手掘り隧道」などがあるが、後者はいま開発によって失われる危機らしく、地元有志による保存運動が起っていると聞く(参考)。

今回もトンネル絡みの探索である。
が、なんとも言えない分かりにくい表題になっていることを、まず最初にお詫びしておこう。
別にこれは奇をてらったわけではなく、真実にシンプルな表現するのが難しい探索対象なのだ。(表題の括弧の部分が正式名でありシンプルだが、それだけだとたぶん検索からヒットする可能性がほぼゼロのレポートになっちゃうからね…苦笑)

ではさっそく本題だが、掛川市にたくさんある古い道路トンネルの中でも、特にその古さ、長さ、外観の良好さから代表格として知られているのが、県道掛川大東線の旧道上にある3本の煉瓦トンネルである。
まあ、メジャー過ぎるのもあって敢えて私はレポートをしてこなかったが(いずれも旧道ながら現役トンネルだしね)、青田(あおた)隧道、檜坂(ひのきざか)隧道、岩井寺(がんしょうじ)隧道の3本からなり、それぞれの簡単なスペックを以下にまとめて掲載する。

青田隧道檜坂隧道岩井寺隧道
竣工:明治28(1895)年竣工:明治38(1905)年竣工:明治38(1905)年
全長:224m
全幅:4.0m
高さ:3.0m
全長:47m
全幅:3.6m
高さ:3.2m
全長:137m
全幅:3.6m
高さ:3.2m
出典:道路トンネル大鑑

最も掛川市街地寄りの青田隧道から南端の岩井寺隧道まで約4kmの範囲にあり(何れも掛川市内)、共に小丘陵を貫通する立地条件である。
竣工年は青田隧道のみ10年早く、扁額がないなど外観に違いがあるが、3本とも明治中期に整備された総煉瓦造りの道路トンネルであり、かつ同一の県道の旧トンネルであるという共通点がある。
そのため3本セットで扱われやすく、土木学会が選定する『日本の近代土木遺産(改訂版)現存する重要な土木構造物2800選』にも「青田隧道他、旧県道の煉瓦トンネル群」として登録されている。

また青田隧道については、建設にまつわるエピソードが掛川市公式サイトの特設ページで読めるという親切設計だ。
それによると、隧道が掘られた青田峠は、近世の信州街道(御前崎市の相良港を起点に掛川で東海道と交差し、さらに北上して森町、秋葉山、信州方面へ通じる南北の幹線)に当っていたが、勾配がきつく車馬の通行は困難であった。そこで地元の資産家で地域の近代化に力を尽くした山崎千三郎(やまざきせんざぶろう)らの働きかけで、明治25(1892)年に掛川町、南郷村、上内田村の関係者と「青田坂隧道工事組合」を結成して工事に着手、工事費6071円(今の物貨で約2000万円)余りの巨費を投じて明治28(1895)年に隧道が完成した。これにより、銘茶の産地である小笠郡の丘陵地帯や太平洋に面した城東郡の人々や物資が掛川駅より東海道線に繋がり、地域の発展に大きく寄与したとされる。

……といった話は有名なわけだが、私はここでも陰なるものに着目したいと思う。


@
地理院地図(現在)
A
大正5(1916)年
B
明治22(1889)年

これは、3本の煉瓦トンネルがある範囲を描いた、3世代の地形図である。

@は最新の地理院地図で、県道38号掛川大東線の旧道上の3個所に、青田隧道、檜坂隧道、岩井寺隧道が、このような配置で存在している。

次にAを見て欲しいが、これは大正5(1916)年の5万分の1地形図である。
この版にも3本のトンネルが同じ場所に描かれているが(明治生まれなので当然)、一際太く描かれている「県道」の位置に注目すると、旧道路法公布以前のこの時期は、青田隧道は県道上にあるものの、残りの2本は県道ではない(「里道」の中で最も上等な「達路」として表現)道に描かれている。

よく似た3本の煉瓦トンネルだが、当初から同一路線上の構造物として順次に整備されたわけではないのかもしれない。
なんだか、ありきたりな物語に綻びが見えてきたようで、楽しくなってこない?(笑)

で、最後のBだが、これは当地を描いた地形図としては最古のもので、明治22(1889)年版である。しかし古いのに縮尺は立派で、2万分の1の精度を持っている。
明治22(1889)年といえば、青田隧道(明治28年竣工)でさえ建設前だから、当然そこにトンネルは描かれておらず、その代わりガッツリとした切り通しを越える太い道が描かれている。この太い道はやはり県道を示しており、この画像の範囲外だが、径路上に「信州街道」の注記がある。
こうした道路名からも感じられるように、近世と近代を橋渡しするような地形図である。

明治22年の地形図には当然、檜坂隧道と岩井寺隧道も描かれていない。これらは明治38年竣工らしいので当然である。

だが、念のため、“描かれていないこと”を皆さまにも確認して貰いたいが、

この画像だと細かい部分が見えないだろうから、次に「桃色枠内」の拡大図を用意したのでご覧いただきたい。(↓)



明治22(1889)年の地形図に、

別の隧道?らしきものが既に描かれているんだが?!

……という、衝撃的な発見があった。

まず、檜坂隧道については、対応する旧隧道と言って良いのか分からないくらい場所が違う。数百メートルは外れている。
だが確かに小さな丘陵の尾根を越える部分に短い隧道を示す記号が使われている。2万分の1の大縮尺でなければ、省略されても不思議ではない短さだ。

もう1本の岩井寺隧道だが、こちらは明治38年生まれとされる現在のトンネルのすぐ上に、やはり短い隧道が描かれている。
のであるが、切り通しを描いているのに、その中に隧道があるという、何か間違っていそうな表現をされている。切り通しなのか、隧道なのか、はっきりしない。

明治22年の地形図に描かれたこの2本の隧道、後者は(もし本当に隧道ならば)岩井寺隧道の旧隧道と言えそうだが、前者は檜坂隧道の旧隧道と言えるのかちょっと謎。
しかしどちらも、県道として太く描かれた「信州街道」から板沢で南に別れた一連の里道上(黄色く着色したライン)にある隧道という共通点がある。

明治生まれの有名な3本の煉瓦トンネル群に、2本の旧隧道が存在したという、これまで考えもしなかった可能性が浮上したのである。これら青田隧道をも上回る古さを持った“古隧道たち”は、果たして現存するのか?

それを確かめるのが今回の探索だ。
なお、机上調査を行うまで道路名が分からなかったが、以後単に「里道」と書いた場合、探索の対象とした一連の里道(黄色いライン)を指すものと解釈されたい。

なお、現在の地形図(チェンジ後の画像)と比較してみると、かつての里道の位置には、概ね今も何かの道はある様子。

それではさっそく、青田、檜坂、岩井寺、この3本の煉瓦トンネルの旧道を探る旅へ出発しよう!







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