道路レポート 十和田湖八甲田山連絡道路 その2
2004.6.25

 御鼻部側から進入し、約5km。
最初のピークを過ぎてから一気に廃道化が進んだものの、比較的順調に最初の湿原に着いた。
アクシデントといえば、詳細地図をどこかで紛失したことぐらいだった。
南八甲田ならではの景観が、間もなく私の眼前に出現する。

ルート上の地名は、『 昭文社山と高原地図4 十和田湖・八甲田 』を参考にしています。
このレポでは、地図を用意しています。
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 袖ヶ谷地 地図で確認
2004.6.16 7:17


 実は、辿り着いたときには、ここが袖ヶ谷地だとは思わなかった。
既にこのときは手許から失われていた山岳地図ではあったが、出発前にほぼ暗記するほど読んでいたから、この袖ヶ谷地を境にして、前谷地、大谷地と、徐々に規模を大きくしながら湿原が順に出現することを知っていた。
だが、樹林帯を突破した私が見たのは期待していた湿原の景色ではなく、チシマザサの原とそこに島のように点在するアオモリトドマツたちによる景観だった。

残された僅かな地肌の見えるスペース、すなわち旧道敷きから左右に踏み跡があるのを見つけた。
踏み跡はすぐにチシマザサの樹海に消えたが、地面にはしっかりと踏跡が感じられる。
意を決して胸までの笹藪を掻き分けること、僅か5m。

そこには、別世界が広がっていた。



 湿原…ではない。
やや乾いており、草原といった方がしっくり来るだろう。
しかし、この晴れ晴れとした景色を目の当たりにしたときの爽快感といえば、これまでの苦労が一瞬にして吹っ飛んだ。
そして、心の心底から、来て良かったと確信できた。

この湿原は、御鼻部側からは最も近いものだが、旧道からはほんの数メートル笹藪で隠蔽されているために、立入禁止のロープなどもなく、極めて天然性が高いように見えた。

本当に、なんて気持ちの良い場所なんだろう。

もう、道(=藪)に戻りたくないよー。


 などといっているうちにも時間は過ぎるので、潔くチャリに戻り、再びこぎ始める。
実は道の両脇にあった踏み跡は、いずれも湿原(草原?)に続いていた。
つまり、旧道は湿原の隙間を貫いているのだ。

或いは、湿原の中央に道を通したために、乾いた車道脇のみ、笹などが覆い茂るようになってしまったのだろうか。
進むにつれ、私はそう考えるようになるのだった。


 袖ヶ谷地の道は良く原形を留めており、幅3mほどの草原が、灌木に挟まれ真っ直ぐと続いている。
写真左奥には、南八甲田の最高峰である櫛ヶ峯(海抜1516m)の姿。
この道の最高所である地獄峠も、海抜1300m近い。
まだまだ先が長いと言うことは、この景色からも、その標高差からも容易に分かる。



 袖ヶ谷地は大きくはなく、なんの標識などもないままに終わる。
100mほどで、道は再び樹林帯へと舞台を移す。
この場所のように、湿原から樹林帯へ、またはその逆の遷移区間が特に困難な藪となる傾向があった。
それは、森が道の進入を防ごうと築いたバリケードのようである。
 

 樹林帯にはいると、再び道は走りやすかった。
もっとも、走りやすいとは言っても、通常のアスファルトや砂利道と比べるべくもなく、落ち葉が積もり、所々に地石が露出した土路面は、時速8km程度の巡航で精一杯だった。
私としては、概ね徒歩よりも高速に移動できるならば、良しとしなければならないと考えた。

袖ヶ谷地と前谷地の間は、一度小さな丘に登り、再び下るようになっている。
ピークとの高低差は20mほどしかなく、勾配は緩やかなので殆ど走行に影響はない。






 湿原を離れ12分ほど走行した。
途中一度小湿地っぽい場所に出たが、これは次の前谷地ではなく、再び森に入った。
いつの間に、周囲の森の景色は、スタート直後の鬱蒼としたブナ林から大きく変容していた。
笹藪が全体を覆い、そこから枝を上に伸ばしている木々も、ひょろっとしていて細い物が目立つ。
大きな木が、殆ど見られないのだ。
そのせいで、道に干渉する小枝や笹の葉が増え、視界を多いに妨害している。
路面がまだ良いので、チャリでの走行に支障するほどではないが、徐々に悪化してくるという展開は、先が長いだけに、恐い。

そして、再び濃さを増した藪を、押し出すように漕ぎ出ると…。



 前谷地 地図で確認
2004.6.16 7:43


 御鼻部口から6.3km。
全線中で最も低地に位置する海抜870mの前谷地である。
ここは、東の弘前方面に流れる浅瀬石川の源流と、西の八戸方向へ流れる奥入瀬川の源流との分水界であり、、両谷上端のなだらかな鞍部にある湿原が、前谷地と呼ばれている。
しかし、地図上で見てもなだらかな土地を、その地面に張り付いた私の目から見れば、もはや平坦地である。
とにかく、広大な景観が広がっている。
旧道までも湿原的な草原となっており、その両脇の大湿原との境を示すのは、「湿原立入禁止」と書かれた立て札やロープのみである。
こんな山奥にも管理の手が伸びているのに少し興ざめしたが、そんなことはちっぽけに思わせるスケールの大きなパノラマに、 溜息が漏れた。

正面の残雪輝く山が、先ほど袖ヶ谷地でも存在感をアピールしていた最高峰:櫛ヶ峯、その右側になだらかな山容を見せるのが、写真では切れているが、駒ヶ嶺だ。
目指す地獄峠は、駒ヶ峯の山頂直下である。

ここで、初めて具体的な目的地が、この目で捉えられた。
その余りにも遠い姿に、「大丈夫だろうか?」と、間抜けな自問自答をしてしまう私だった。
駄目でも、もう引き返すのは容易でない場所にいる。
引き返す勇気が山での正解なのは知っているが、私にその勇気があるか…自信がない。



 カメラを右に向けると、乗鞍岳と赤倉岳がその巨大で秀麗な姿を惜しげもなくさらしている。
これらは、原始性をうりにした南八甲田連山の中でも、特に登山者の少ない山々だと聞く。
地獄峠というのは、あの山脈の裏手となる。

…まじで、大丈夫か…。

景色の美しさを純粋に喜べない私だった。
こんな景色の中を走った経験が無く、再びナーバスになってしまうシャイな私。




 とにもかくにも、そこに道がある限り、出来るだけ速やかに前進する以外に答えはない。
進めなくなったときが、引き返しの時だ。
道は、この先緩やかすぎて気が付けないようなカーブを繰り返しながら、峠までヒタスラに登り続ける。
地図上では、峠までの距離は9kmほどだ。
高低差は400mほど。
道が普通の林道なら、まあほどほどの道だなという感想だが、そう簡単にいくとは思えない。

漕げる場所は、大概景色の良い場所だったりするが、あっという間に過ぎてしまう。
そしてすぐにまた、景色なんて何もないような藪に、道は消えていく。

いよいよ始まる。
地獄峠の地獄…。


森にはいると、途端に登りが始まった。
そして、そこに待ち受けていたのは、到底チャリなど漕げない溝。
洗掘と呼ばれる作用によって、深いところでは45cm程度の鋭い溝が、狭い路面の全てとなっていた。
勾配自体は、元車道を裏付けるかのように、せいぜい10%未満に抑えられている。
現在の車道ではもっと険しい勾配などよく見られるが、昭和初めの自動車の性能を考えれば、そんな急勾配が現れないのも頷ける。
また、車道幅は相変わらず5m以上認められるのだが、この区間では洗掘箇所が僅かな踏み跡と一致しており、それ以外の元道路敷きは全て、とても通行できない藪と化している。
想像以上に、選択の余地がない道幅なのである。

こうなれば、もはや意地を張っても仕方がないので、チャリを押して進む。
しかも、洗掘箇所は須く泥の地山であり、とにかく良く滑る。

すすまねー!





 ここまでも、何度となく暗渠でも埋められているかと思われる小さな沢越えがあったのだが、ここに来て初めて、大規模な路肩崩壊によって埋設物の正体が判明した。
それは、苔生したヒューム管だった。
現在でも流水処理に幅広く利用されているヒューム管(土管とも言う)は、コンクリ黎明期である大正頃から存在しており、この道にあったとしても不思議はない。
この素っ気ないヒューム管が、本旧道における、第一の道路遺構的発見であったと言える。
そして、この後も決壊箇所にヒューム管の残骸は散見された。


 脇の沢や、旧道敷きの反対側の轍跡(本当に元々が轍だったかは分からないが、いずれにしても、旧道敷きの中央より反対側)に洗掘された流水路が逃げると、やっとチャリに復帰できた。
距離的には短い不乗区間だったと思うが、ますます先の展開に不安を与えるものであった。
万が一チャリに乗れない場合、通常の徒歩で得られる時速3km程度よりも、さらに低速となることは、チャリという重量物を運搬する以上やむを得ないことだ。
その場合山中で夕暮れを迎えるという事態も、充分にあり得る長大路線である。
とにかく、徒歩よりも速度を出すことが、通常は泊まりがけの縦走登山路を一日で突破するための大前提なのだ。
私は、この「徒歩以上」を維持できるかどうかを、進むか引くかの目安にしようと考えていた。




 前谷地から、約20分。
道の右側に小さめの湿原が現れた。
この辺りからが大谷地なのだろうか?

大谷地は、名前の通り、とにかく広大だ。
その広さを正確に計ったという資料を見たことがないが、地図上で大雑把に見ても、それらしい湿原が、緩やかな尾根上に旧道を取り巻いて散在しており、その広がりは、南北2km東西1.5km程度認められる。
ポイントは、それが単一の湿原ではないということだ。

その走行感はといえば…
峠以前にも恐るべき難所が待ち受けていたのだと言うことを、
私に知らしめるたのである。


 再び嫌な洗掘道路。
全く乗れないばかりでなく、押して進む足場も確保しづらく、無理な姿勢が続く。
要する時間ばかり強調してきたが、もちろん体力とて無尽蔵ではないのだ。
登山経験と言うことでは素人の私がどれほどの悪所歩行に耐えられるのかは、自身でも分からなかった。
とにかく、無駄な動きを最小限に、黙々と先へと進むことだけだった。
不乗区間が占める割合は、この辺りから急激に増えた。
もはや、当初の「チャリで突破」は不可能で、「チャリ同伴で突破」と目的は変化したが、決定的な引き返しの原因もなく、苦悩の押しが続くのだった。


 大谷地 試練の湿原地帯 地図で確認
2004.6.16 8:11


 再び湿原を左右に見る広場に脱出。
標高は再び900m台を回復し、湿原が連続するうちにも、確実に高度を上げていく。
地図上の湿原の上端は、海抜960m付近である。
湿原といえば、真っ平らな部分をイメージするが、この大谷地は意外にも起伏に富んでいる。

写真の小湿原で小休止する私へ、背後の森から、けたたましい音が襲いかかった。
それは、たかが音でも、「襲ってきた」と形容したくなるほどに高圧的かつ警告的な、大変に不愉快な規則音だった。
かなり大きなその音は、文字で形容しづらいものがあるが、敢えて記せば
 『ふぉん ふぉん ふぉん』
という感じの、とても高い音だった。
真っ先に思ったのは、サイレン?
辺りには全く人の気配はなく、当然建物やサイレンを鳴らすようなモノはない。
湿原に不用意に進入する事への警告音かとも真剣に思ったが、そんなモノはどこにもない。
考えられることは、鳥の声ということになるのだろうが、あれほどに無機質的で、焦燥感を感じさせる音は、聞いたことがなかった。
しかも、全く音程やテンポを変えることなく、私が移動しこの音を完全に聞き取れなくなるまで、少なくとも10分間は鳴り止まなかった。

未だに不思議な音である。


 とにかく湿原と樹林帯との遷移する区間がやっかいなのだ。
笹や灌木といった、ちょうどチャリや人が通る高さに繁茂する植物が密集し、ますます曖昧になってきた踏跡をも覆いかくさんとしている。
実際、気を抜くと道を失うのではないかという恐怖感が、このあたりではじめて生じた。
さらに、下枝を払われていないと思われる藪は、容赦なくチャリの駆動系に絡みつき、その都度チャリを停止して取り除く作業に追われた。




 足元には、可憐な花が密生していた。
この先も、随所で様々な花を見かけたが、私の心には花を愛でる余裕がなくなりつつあった。
まだまだ時間はあるが、恐れていた藪が現実のものになったという事も辛かったし、なにより、引き返しが容易に出来ない場所へと、ますます嵌り込んでいく展開が、気色悪かった。
もう、入山から2時間を経過していた。
しかし、進めた距離は10kmにも満たない。


 断続的に出現する大小の湿原地帯。
大概、道の両脇だけは藪となっている。
車道建設によって引き起こされた湿原の無容赦な分断は、道が放棄され70年を経過してもなお、取り戻せぬ傷跡を残したのだと理解した。
湿原は、デリケートなものなのだと。





 ここでは、くっきりとかつての車道幅が分かる。
さらに、僅かだが車道は盛り土されており、両脇には側溝代わりの浅い溝も確認できた。
また、他の場所では見られなかった大きめの石が多数路面に埋没していた。
もしや、これは舗装代わりの、昭和版石畳の痕跡なのだろうか?
或いは、登山道として改めて木道代わりに整備されたものなのだろうか。
かなり深く埋まっており、車道時代のものな気がするのだが…。

また、地面に這うように湿原立入禁止のロープが敷かれているが、これが無くとも、この広大な湿原に踏み込めばまず無事に戻れぬだろう事を、まともな入山者であれば予感できよう。
とにかくアップダウンのスケールが大きく、遠くの峰以外何も見通せないのだ。
万が一道を失うことになれば、死をも覚悟せねばなるまい。
(ケータイは繋がらず、付近に山小屋等一切無い。)


 この写真もまた、古の姿を連想させるに充分だ。
2車線幅の車道が、真っ直ぐと森を割って続いている。
とても現代では考えられない、『エコロード』も真っ青な大量破壊的道だ。
この道を、青森県が救農対策(=失業対策)として建設したのだと言うが、どういういきさつで廃止になったのかは、調べても分からなかった。
戦時中に放棄されたという話も聞くが、この道も不要不急と判断され必要な保全が成されなかったのだろうか?
それとも、環境に配慮しての廃止が、決定されたのだろうか。




 道端を彩る可憐な高山植物達。

これらはみな、
ここにあるから、
美しい。


 何度目か分からないが、また藪へ。
いい加減、大谷地の広さに飽き飽きした。
もう、大谷地に着いてから20分以上走っているのだが、一向に周囲の景色に変化はない。



 そう思って次の藪に突入すると、いきなり変化が現れた。
しかも、悪い予兆だ。
道に、ゴロゴロと河原のような石が散乱し、その全体が深く洗掘をうけている。
またも、自走不能な洗掘区間が出現するのか…。




 うわー。
洗掘よりも厄介な、となっている。
ここだけは、ちょっと元来の道幅などが判然としなかった。
さっきまでの路面から、1m以上抉られた水路を行くのだが、本当にここが道路跡なのか不安になる。
足元には、淵になったところは水深30cm程度の流れがある。
両岸は切り立ち、上部の藪が覆い被さっておりどこに道が離れていっても気が付ける気がしない。

本当に、この沢が道なのか?




 まもなく、本当の沢のように大きな石がゴロゴロとしだした。
笹や低木の枝が憎たらしい事に、沢の水面まで落ち込んできており、とにかく視界不良。
足が濡れることなどもう気にならないが、ここで道を失ってしまうことは絶対に避けたいし、こんな終わり方は悔しすぎる。
だが、私が焦るほどに、沢は沢以外の何者でもない景色になり、しかも、四方から枝沢が合流してくる有様。
もはや、単身ならいざ知らず、チャリを伴って進める状況でなくなった。

頼む。
これが本来の道でないでくれ!
これが道なのだとしたら、断念宣言をせざるを得ないだろう。

すぐそこに迫っている終了宣言に、全身が強ばった。
泣きたくなった。
が、一縷の望みをかけ、チャリを沢に捨て、藪に登ってみた。
周りを見通そうと思ったのだ。


 生還した。

やはり、私は途中で道を失っていた。
実は、沢に下りるのは一瞬だけで、すぐに対岸に赤いテープが枝に張られていたのだが、これを見落としたために失敗した。
一度視線が低くなると、上への注意が薄くなる弱点を突かれた。
辛うじて、10mほど離れた正解の道へと修正することが出来た。
ここで担いでチャリを運んだのだが、一気に疲労してしまった。
ほっとした気持ちもすぐに、またこんな場所が現れてしまう事への不安に、しぼんだ。

事実、ここで引き返していた方が、楽だった。





 確かに高度は上がっているらしく、しばらくぶりに残雪に出会った。
旧道が、広大な湿原内の水路となっているようで、今は涸れているが、深い抉れが道を何度となく寸断していた。
湿原に車道を通すのは簡単でも、まともに保守するのは想像以上に難しいようである。
もっとも、この道は登山道となった今でも、まともな保守はされていないが。


 再び視界が開けると、乗鞍岳が多少近づいて見えた。
だが、その高度差が以前より際だつばかりで、思うように高度も距離も稼げていない。

進むほどに困難になっているではないか!

このままでは、音を上げる事になるのは、道ではなく、私かも知れない。
願わくば、この踏跡だけは絶対に消えてくれませんように…。

現実の森は、道無き道を行くことなど出来ぬのだと思い知った私は、そう願うのだった。



 チャリを放棄し憮然とした表情の私。

そういえば、大谷地に入ってから、殆ど押しだ。
いい加減、この道に山チャリは無茶だったことを理解したのだが、今さら遅すぎた。
ここにチャリを置いて進むことなど、あり得ない選択だ。

きっと、いつか下りに辿り着ければ、そこで一気に遅れを挽回してくれるはず…。
そんな期待を込め、再びチャリを押し始める。





 一面に白いものを鏤めた湿原が傍に現れた。
こんな素敵な出会いすら、もう喜べないほどに、精神的逼迫感を感じていた。

だが、私は言いたい。
「楽しくないのなら山に行く必要など無い」というのは違うと。
例えどんな気持ちで歩こうとも、生還できて、その時に充実感を得られればそれでいいと。
辛い事もあっていいし、辛いだけでも仕方がない。
自分で選んだ旅ならば、どんなに辛くても、自分の選択に殉じるのみだ。

だから、私がどんどんすさんだ気持ちになって、この先延々と、かけがえのない美しい景色に泥を塗るような発言をしたとしても、許して欲しい。
この道は、チャリには優しくないのだ。
私も、笑ってなどいられないのだ。


 この辺で吹っ切れた私は、正午を目安に前進を続けることを決意した。
そして地獄峠到達目標時刻を、正午とした。
正午まで進むと、午前6時に入山したので、そこまでで6時間を進んだことになり、引き返すと脱出は単純計算で午後6時。
まあ、この時期7時以降も明るいくらいだから、帰宅は明日になるだろうが、とりあえず生還は堅い。

もう、時間に追われる事は止めて、正午まで、じっくりと攻めよう。
そう決めた。



 その後、もう大谷地湿原は現れなかった。
湿原の横断に、約1時間を要した。
とにかく、海抜960m以上の、いよいよ等高線が密になる部分に踏み込んだらしい。
ここに来て、何とか自転車に跨がれそうな森の道が復活した。

と思いきや、勾配がキツいと洗掘も多く、チャリに跨がれても漕いで進めない場所も多かった。
藪だけが敵ではなかったのだ。
洗掘、侮りがたし。


 ひとしきり登ると、それはオアシスのように現れた。

湿原の頂点に頂点にあって、何故ここだけはなみなみと水を残しているのだろう…。
不思議な存在、枯木沼の姿だった。






その3へ

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