道路レポート 十和田湖八甲田山連絡道路 その5
2004.7.5
黄瀬萢(おうせやち)へのラスト500メートル
2004.6.16 12:00
それが目指す黄瀬萢なのではないかと、出会う度に期待を抱かせる、大小の湿原や、草原。
かつて遭遇したことがないほどの極限の藪と、楽園のような風景とが、交互に現れるのである。
求め続けた脱出の瞬間は、近いのか。
坦々と蛇行するだけの10万分の1道路地図上の点線は、何も語ってはくれない。
時刻は遂に、正午に達した。
入山から、6時間が経過した。
ヘアピン以降では、これまでで最大級の湿原帯が左に現れた。
踏み跡はこの縁に沿って、さらに次の藪へと吸い込まれるように登っている。
あなたは、想像が出来るだろうか。
この景色の中に、かつて車道があったこと。
登りながら振り返る。
そこに6時間ぶりに見る、御鼻部山の姿。
ゆったりとした緑の絨毯が、僅かな起伏を描きながら繋がっている。
私が踏破してきたのは、その絨毯のただ中であった。
それは、直線距離にして10kmにも満たないものであるが、6時間という時間が、その道のりをこれ以上なく語っている。
過去に、一本の道でこれほどの時間を要した経験があっただろうか。
御鼻部山から入ってくる少し前、逆側からこの山脈を見、底知れぬ恐怖を感じた。
しかし、いまはこうして、その山脈を振り返っている。
次は、右側に広大な草原が現れた。
もう、ここはボーナスゲームに入っているのか?
これは、ウィニングランなのか?
そんな気分にさせられる。
私はこの時、天上の人にでもなったような、最高の気分だった。
ここにチャリを運んだ事の、その馬鹿らしさが、最高に愉快だった。
「かつて車道だったそうなので、チャリで来たんです。」
もし登山者に叱られたら、そう言ってのけよう。
独りほくそ笑む私だった。
遂に見た、あれが地獄峠である。
あの鞍部が、海抜1260mを数える本道の最高所だ。
最初にガイドブックの地図に其の名を見たとき、思わず笑ってしまった。
「地獄峠?」
なんて恥ずかしい、小学生が考えたような名前なんだろうと。
どうして、こんな仰々しすぎて、逆に陳腐な名前になっているんだろうかと。
笑ってしまった。
だが、地獄峠は大まじめにそこに実在している。
しかも、青森県で最も高所にある峠として。
車道が通る(った)峠としては、東北有数の高さを誇る峠として。
私は、もう殆ど藪を写すことをしなかった。
だが事実、フレームの外にあるのはいつも藪だった。
美しい湿原や草原が脇にあっても、踏跡は決してその中を通りはしなかった。
律儀にも、酷い藪と化した車道跡にそれは続いているのである。
すぐ脇にある、容易に通れそうな草原を捨てて。
私は、幾多の山男達の、ストイックで尊い暗黙のルールに感動を覚えた。
私も、ここだけは苦しい藪に耐えて進まねば名が廃ると思った。
12時31分50秒。
そろそろだろうという期待を、30分間以上も裏切り続けた藪に、明らかにこれまでとは違う「明け方」を感じた。
まさに、この写真だ。
藪が、まるで引き潮のように、左右へ開いていく。
その先には、今はまだ見えぬが、おそらくは広大な草原が開いている。
これまで、周囲が湿原や草原の中であっても、なかなか道路上の藪が明けなかったのとは対照的だ。
いま、その瞬間への期待感は最高潮に達した!
黄瀬萢
地図で確認
12:32
黄瀬萢到着だ。
藪を脱したちょうどその場所には、公園なんかでもよく見かけるような案内標識が立っていた。
なんか、もの凄くホッとした。
ちゃっかり、私が出てきた藪を指して「御鼻部山」と書かれているが、無責任じゃないか?この先一度も案内など無いのに。
まあ、それはいい。
ここまでは、目指す猿倉温泉からそこそこ登山者が訪れるという。
山小屋もなく山中泊を強いられるコース故、中級者以上だけに勧められるコースとの触れ込みではあるが、私にとってはこの先は下りが中心。
当然日帰りするつもりだし、日帰り以外の準備などしてはいない!
あとは、登山者には悪いけど、登山道を快走させてもらうつもりである。
その残された距離は、地獄峠までが2km、さらに猿倉温泉まで7kmだ。
これまでのような藪はないだろうから、あと1時間くらいで下れそうである。
ほぼ、攻略も完了したようである。
本当に、ホッとした。
これが、私を苦しめた藪の入り口だ。
結果的に、ここから松森のヘアピンカーブの入口付近までが、最も困難だった。
この間、距離は4kmほどであったが、優に3時間を要した。
もし、「私も!」と、この道をチャリで走ろうとあなたが思うならば、一つだけ加えて言いたいことがある。
私が通行した時期は、これだけ酷い藪とはいえ、中でも一番嫌な笹が、まだ成長途中であった。
唯一の通行路である踏跡上にもかなりの数のタケノコが生えだしているのを見てきた。
よって、決行時期が盛夏となれば、おそらくはもっと困難だろうと思う。
木の案内標が立つ黄瀬萢は、猿倉と御鼻部山とを結ぶ「旧道」縦走登山路上の一経由地である以上に、南八甲田連邦の最高峰であるところの櫛ヶ峯(標高1516m)登山道との分岐点として存在感がある。
実際、殆どの登山者がここから櫛ヶ峯を目指すか、或いはこの黄瀬萢を望む旧道上を、幕営地に選び一夜を過ごしている。
写真は、猿倉方向へ進む旧道。
私も、この方向へと進む。
黄瀬萢は、右。
櫛ヶ峯は、左だ。
正面の山は駒ヶ峯(標高1416m)という。
地獄峠近くまで、この駒ヶ峯を正面に見据えて登ることになる。
これは、分岐点から櫛ヶ峯登山路と、残雪に覆われた櫛ヶ峯だ。
同峰は別名上岳とも称される。
山頂までは2kmもないが、元車道以外をチャリで走る趣味も、根拠もない。
パスだ。
これは、黄瀬萢と、その対岸に聳える乗鞍岳(標高1449m)の眺めだ。
山チャリとは直接関係ないし、山行が読者の皆様もあんまり興味ないと思うけど…、
とりあえず、こんな景色のただ中に、旧道はあったんですよ。
と言う風にご理解頂きたい。
それでは、緩い休憩も終えて、いよいよ先へと進もう。
気持ち的には、もう攻略したつもりになっているけど、まだ2kmは登りが続く。
そして、こんな雪渓が、早速私の行く手を遮るのであった。
まだ、先は長い。
天上の廃道
12:40
櫛ヶ峯から黄瀬萢に落ち込んでいく浩蕩たる雪原に、道は呑み込まれ消えている。
先へと進むには、これを横断する以外にはない。
しかし、もちろん雪渓対策の装備など持っていない。
相変わらずのスニーカーでは、ここをチャリを支持しながら進むのは、大変に心許なかった。
もう少し勾配があったら、こんな穏やかな場所が、私の終点になっていたかも知れない。
堅く締まった6月中旬の雪原は、想像以上に歩きにくかった。
写真の背景は、池塘を多く抱える黄瀬萢。
雪原には、私の通った轍が写っている。
黄瀬萢が後方に消えると、再びチャリに跨がれない道となってしまう。
確かに登山者達の踏跡はしっかりとしていて、道がどこであるかは明確であるし、下刈りもされている。
だが、これまでにはなかった新しい障害が、私を苦しめ始めたのだ。
それは、路盤自体の荒廃。
もっと言えば、路盤の消失である。
ここは、三方を高峰に囲まれ、残る一方から黄瀬沢が流れ出していく、まさにその源流部である。
ここには、地図上に現れないような小さな沢を多数横切っていたのだ。
予想外の、困難である。
背丈以上の垂直に近いアップダウンが、数十メートルに一度現れ、その都度チャリは担いで進まねばならなかった。
早くも、私の目論見(藪さえ脱すればペースが上がるだろう)は外れた。
それどころか、依然私には「突破不能」という最悪の結末もあり得るのだという恐怖を覚えた。
もし、次に現れた沢が、それこそチャリを担いで往来できぬような懸崖であれば、そこが、終点となるのだ。
その可能性が決して低くないことは、次々と現れる“橋のない”谷を超えていく中、ずっと感じていた。
もし、この谷底を埋める雪渓がなければ、もしかしたら、通れなかったかも知れない。
幾つ目の谷だっただろう。
これまでの谷には、橋がなかった。
そして、橋がないのは、この谷も同じであった。
しかし、かつて袂であったはずの、現在では登山者が急な斜面をへつりながら登っていく場所には、大きな石が散乱している。
そしてそれらは、微妙に石垣を形成しているように見えた。
断言は出来ないが、橋台の痕跡なのかも知れない。
水量は決して多くないだろう源流の沢に橋が残されていない理由としては、雪渓だろう。
深いところでは10mもの厚さで谷を覆う雪渓は、氷河のミニチュア版のようにして、深く深く谷を抉っていくのだ。
そこに橋など架かっていようとも、根こそぎ持ち去られるだろう。
谷と谷の合間、僅かばかりの平坦な道も、ご覧の通り。
石がゴロゴロと河原のようになっていて、漕いで進むよりも押した方が楽だ。
それでも、まだかつての道路敷きの雰囲気を良く残していると言えるかも知れない。
ここまでが、酷すぎたのだ。
黄瀬萢から1kmほど登ってきた。
振り返って撮影したのがこの写真。
黄瀬沢を中央に、左側に乗鞍岳の斜面。
私が辿ってきたのは、中央にずうっと伸びる稜線上だ。
遠くで一際高くなっている場所が、起点である御鼻部山。
素晴らしいとしか言いようがない眺めだ。
もしもの話になるが、
今でもこの道が観光道路として生き続けていたとしたら、八幡平アスピーテラインにも、蔵王エコーラインにも、磐梯の有料道路にも、どこにも引けを取らない道になっただろう。
北東北の二大観光地である八甲田と十和田湖を繋ぐという立地も素晴らしいが、この茫漠広大な景観こそが最大の見所だ。
その経済効果も、計り知れなかっただろう。
しかし、実際にはこの道が残っていれば良かった、と言うような声は聞かれない。
ほとんどの観光客はかつてこの道の在りしを知らないし、登山者たちにすら「旧軍用道路」とまことしやかに噂され、八甲田をよく知る地元の山人たちがその廃道なるを安堵する道。
昭和初めの寒村を襲った、爪に火を灯すような貧困が生み出せし、一時の幻の如き道。
雲の上、空にも等しい高さに遺された、すてられし路。
「天上の廃道」
その6へ
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