走破レポート  河北林道 その4
2003.3.2



 ついに、峠に立った。

だが、そこに休息の時間は無い。
日は、既に沈みかけている。
もはやこの山で夜を迎えることは、逃れ得ない現実であった。
ただ、少しでも、先に進んでから、その瞬間を迎えたかった。

 河北の秋田側の道は、
阿仁側以上に、長く、険しい。
凍える夜が私の生を奪う前に、三内集落を目指さねば。

<地図を表示する>

 
郡境の峠 標高約730m
16:37
 峠は広場になっており、その隅に石碑が建立されている。
あたりは一面のブナ林であり、林道があるのにこれだけ自然が残存しているということは、珍しい。
四方は木々にさえぎられ見晴らしこそ無いが、静かな木陰の澄んだ空気は、ここに立つ全ての勇者を労うかのようだ。
個人的に好きな峠三傑に入る。

 よほどの健脚向きだが、太平山から郡境の稜線に沿い、白子森を経て、この峠にたどり着く道が、ある。
その道は、確かに縦走している者はあるようだが(1999年には、それらしい一団の残したメモが落ちていた)、峠からその入り口を伺う限り、余りにも途方も無い挑戦に見える。
地図には、さらに東へ進む道も描かれてる。その道は、峠直上の無名のピークを経て、阿仁町の小岱倉沢に降りているが、この道など、現存するのかも不明だ。
相互リンク先サイト『MOTO WORKS HIRATA』には、この無名峰や、白子森の登山記録が公開されています。貴重です!ぜひご覧ください!

とにかく、この河北林道の通っている場所は、山ばかりの県内でも特に山深い場所なのだ。


 現在時刻は、午後4時37分。
この林道へと分け入ってから、まる二時間がたっていた。
二時間もあれば、普通なら、秋田市から大曲市くらいまでは進んでいる。
しかし、この道のりにおいては、やっと…、
やっと 13100 メートル を進んだのみだ。
これでも、殆ど無休息で来たのだ。

そして、まだ先は長いのだ。
これまでの道のりよりも、さらに。


 開通を記念して建立されたと思われる立派な石碑は、身の丈よりも遥かに大きい。
そこには、一遍の詩と、小さな小さな祝詞が刻まれている。
読んでみた。
時間が無いのにね。

 昭和43年に完成したこの道が、どれほどの期待を背負っていたのか。
どんなに悲願の開通であったかが、よく伝わってきた。
 私は、この峠に立ち、徐々に改良されてゆく道を感じるたび、約10km南方にある、もう“一つの峠”のことを思い出す。
その道も、ほぼ同年代に竣工した。
山村振興、林業隆盛、県道昇格、観光推進…、背負う期待は、同じであった。
しかし、その一方は、結局、県道にもなりえず、叢の中に消えた。
隧道のある峠は、もう、ほんの数人の記憶にしかない光景となった。

 振り返ると、そこには、やる気の無い閉鎖ゲートが。
どうやら、峠から比立内までが通行止区間であったようだが、特別に通行が困難と思われるものは無かった。
むしろ、これまでの4回の通行の中では、最も良い状況であったが…。
日中は、工事中ということなのだろうか?
それとも…、勘ぐりすぎかもしれないが、自治体の「思惑」か??


 立っている標識にはこんなことが…。



「注意して通行してください」
のすぐ後に、「郡境から先は(中略)通り抜け出来ません」って…
『おおっ、いけるのか!』
と期待させておいて、でも抜けれないよ、って感じ?
なんか意地悪くさくね??

 ところで、この画像は、二つ上の写真の一部を拡大したものだが、なんか、真っ黒の物体が立ってますよね。
じつは、こんな物体が写っていることに、気が付いていませんでした。
しかし、後日たまたまホリプロ氏が、昔の写真を持ってきたときに、判明しました。
この黒い物体の正体が。

  それは…

 1994年の写真では、まだ微かに、赤いペンキと、黒い文字が見て取れます。
文字は…「比立内」と書かれていそうです。
その下にも、小さな文字が並んでいそうですが、読み取れませんでした。
貴重な旧タイプの標識が、こんなところにも、あったんですね。
当時はまだ林道時代でしたが、多分、開通当時からの標識でしょう。

 もったい付けるほどではなかったかな??

 午後4時41分。

5分にも満たない峠での時間だったが、やはり、この場所で感じられる「やり遂げた感」は絶大だった。
なんか、すっかり、気持ちよくなっていた。
あとはもう、下るだけ下れば、人家のある場所まですぐな気がした。

 しかし、それは間違いだった。
はっきり言おう。
本当に辛かったのは、ここから先であったのだ。

下り始める
 いよいよ河辺側、その下りの始まり。
ぶっちゃけ、この河北林道、阿仁側よりも、河辺側はさらに険しい。
距離も長いし、高低差も大きく違う。
今回は、幸い下りな訳だが、それでも、時間が無い私には、この距離は脅威である。
ペースをあげて、せめて視界の良いうちに、沢沿いのある程度平坦な場所まで降りたい。

 しかし、写真の通り、阿仁側に比べ、こちらは明らかに道の状況が悪い。
正確に言うと、初めて通った頃から、何の改良もなされていない。
幅も狭いし、路面のガレ方も、相当だ。
そして、私はここに嫌な思い出を持つ。

 1994年のあの日、勢い良く我先と峠を下り始めた3人。
先頭を切った私のチャリは、この少し先で、余りの衝撃に耐え切れずパンクしたのである。
余りにも愚かな行為であると、理性を失わずに最後尾を走行してきた保土ヶ谷に、指摘を受けた。
そう、私は(ホリプロ氏も)、完全にサルであった。
サルは、パンクしても、サルのままであった。
不幸なことに、サルのパンク箇所は、最も厄介な場所であった。
それがどことは、察するにお任せするが、とにかく、素人のパンク修理術では、手の打ちようが無い場所であった。
一応孔は塞いでも、僅かな衝撃で、再び空気が流出してゆくという状況。
…お忘れの方も多いと思うが、1994年は、この状況に加え、すでに峠の遥か手前で、私のボトルの中は、空であった。
意識が、遠のきつつあった…。

 ついに 運命の…
16:46
 峠から2kmほど下っただろうか、さすがにここでパンクしたらシャレにもならないので、いつもよりは慎重に走っていたが、突然、強烈な西日に頬を照らされた。
それまで、稜線の影の部分を走っていたのだ。
そして、久々に見る太陽の姿は、なんとも頼りないものだった。
地平線ではなく、遥か彼方の雲海に、今まさに太陽が沈もうとしている。

 見渡す限り、山。
黒い山々が、大海のうねりの様に、どこまでも広がっていた。
遥か先に、特徴的にピョンと突き出した小山が霞んで見えた。
あれは、三内にある筑紫森であろう。
あそこまで、この林道は続いているのだ。
それを、現実として見せられたとき、遂に私は実感した。

 「俺は、本当にこの道で夜を迎えるのだ。」   と。



日没
16:50
 いま、まさに、太陽が燃え尽きようとしていた。
今日一日、本当に私を翻弄した空だった。
出発したときには、あんなにまぶしかった、虹を輝かせた太陽。
しかし、突然裏切り、大粒の雨で私を洗礼した。
そのままその雨が、半日も続いていたこと、その中を普段着で旅した馬鹿者がいたこと…
それらを、身に纏うじっとりと湿ったままの衣類が、証明している。
最後に、再び私を祝福したかに見えた太陽だったが、余りにも、遅すぎた。

 今度の旅は、生涯幾度目かの、林道内日没という結果になってしまった。
しかも、過去最大級に深いぞ…。

 最後に振り返った峠。
中央左付近の、木々が一寸凹んで見える場所が、峠である。
この先では振り返ろうとも、特有の入り組んだ地形に阻害され、峠を仰ぎ見ることはおろか、峠のある稜線を見ることも叶わない。

 勢い良くベルを鳴らし峠に別れを告げると、漕ぎ脚に力を込めた。

キロポスト発見
16:55
 日没後、すぐに暗くなるわけではない。
暫くは、まだ明るい。
むしろ、西日が弱まることで、一時的に視界は回復する。
しかし、あとはもう、加速度的に闇が迫ってくるのみ、
猶予は無い。


 しかし、焦ってはいけない!
かつてパンクしたのは、この辺ではなかったか?!
大きめの岩がゴロゴロとしており、パンクに注意する以前に、転倒注意である。
ひどい道だ。 相変わらず。

 上の写真の少し前、路傍で、かつては気が付かなかったキロポストを発見した。
「何キロだろう??」


ぐふっ  …20km…。」


 ちなみに、この20kmとは、「起点」、すなわち、三内までの距離である。
なんと、まだ河北林道の道のりは、その半分も来ていなかったのだ。
まだ、20kmも、あるのだ…。
「なんとぉー…。」

水場
16:57
 いよいよ5時になろうというとき、見覚えのある景色が。
たしか、この水場は、かつて峠の遥か手前で、ボトル内が空になった男が夢にまで見た、水場。
『野生(聖)水』という造語が生まれた、その地である。
 はい、狂ったように、飲みましたとも。
がぶ飲みですよ。
なんか、葉っぱ浮かんでるんすけど、気にならないですよ。

 ま、それは、昔の話。
今回は、わき目でチラッと見つつ、写真にも、チラッと写して、通過しました。

大滝又沢橋
16:59
 「 大 滝 又 沢 橋 で す 。」

「 さ び ー ー … 」
      「 さ び ぃ ー ー … 」


 カメラの音声メモには、少し震えた声で、そう録音されていた。
この頃には、外気温は、5度を下回っていたと思われ、濡れたままの私の感じていた寒さは、相当であったはずだ。

 傾いた道
17:00
 橋の先は、再び上りに転じる。
河北林道河辺側は、途中一つの小ピークがある。
これからの上りは、そこにいたるものだ。

 その途中、かつてのがそうであったような、砂地の“傾いた道”に遭遇した。
『ええっ、これでも県道?!』 などといえば、当サイト的には盛り上がるのだろうが、林道時代を知るものとしては、正直、驚きは無い。
河北とは、こんな道なのだから。昔から。
通り抜けられるだけで、儲けもんなのだ。

小ピーク
17:11
 小ピークを越える。
ついに、私の行く手を、遮るものが無くなった。
あとは、ただどこまでも下ってゆくのみだ。
いずれは、三内に至る。
とりあえず、暗くなる前にこの小ピークを越せたことで、少し安心したのは確かだ。

どこまでも深く、下る
17:16
 17時16分。
三内川の最奥の谷、中芝沢の谷底に近付くにつれ、休息に視界が悪くなってきた。
次第に暗くなってゆくとき、目が順応するのでその変化は微々たる物に感じられるが、実際撮った写真を見比べてみると、その暗さが、際立って見える。
 相変わらず、ひどい道が続いている。
しかも、長い。
そんなに自分が高いところにいたのかと驚くほどに、下っても下っても、ぐねぐねと、おんなじ様な景色が続いている。
こんな路面で真っ暗になってしまったとしたら、転倒は免れまい。
それどころか、先に進む勇気が、なくなってしまうのではなかろうか?
足元の見えない悪路が、どんなに怖いものであるか、私は、知っている。


夜が迫る
17:18
 偶然とは恐ろしいもので、この下りで夜を向かえるのは、初めてではない。
8年前、サル野郎のパンクに、一体どれほどトリオの時間を無駄にしたか、分からない。
結局、何度膨らませても萎むチューブに、その度に足止めを食らい、ここにたどり着いた頃には、すっかり日が落ちていた。

 しかし、あの時と、今回とでは大きく違う。
まず、先行きを照らすべきライトが無い。
そして、10月の夜は、想像以上に冷える。
さらには、悪いことに、私の全身は、未だ乾いていない。

 あまりにも、条件が悪い。



中芝沢橋
17:22

 「 中 芝 沢 橋 で す 。」

「 さ み ぃ ー 」


 ボイスは、それだけである。
中芝沢橋こそが、河北林道が再び沢沿いの林道に戻る地点だ。
やっと、私は阿仁・河辺を隔てる山脈を、越したのだ。
本当に長かった。
ここまで、比立内から約20km。残りは、三内川沿いをあと15kmだ。

 ここから、最後の苦難が始まる。
それは、暗闇と、寒さと…

そうだった。
ひとつ、1994年とは大きく違っている点が、まだあった。
今回は、私はただ一人、この暗闇に立っていた。

暗闇と、寒さと、孤独。
立ちはだかる壁は、余りにも大きい。

ぞっとしつつ、以下、最終回へ。




最終回へ

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