ついに、峠に立った。
だが、そこに休息の時間は無い。
日は、既に沈みかけている。
もはやこの山で夜を迎えることは、逃れ得ない現実であった。
ただ、少しでも、先に進んでから、その瞬間を迎えたかった。
河北の秋田側の道は、
阿仁側以上に、長く、険しい。
凍える夜が私の生を奪う前に、三内集落を目指さねば。
<地図を表示する>
峠は広場になっており、その隅に石碑が建立されている。 あたりは一面のブナ林であり、林道があるのにこれだけ自然が残存しているということは、珍しい。 四方は木々にさえぎられ見晴らしこそ無いが、静かな木陰の澄んだ空気は、ここに立つ全ての勇者を労うかのようだ。 個人的に好きな峠三傑に入る。 よほどの健脚向きだが、太平山から郡境の稜線に沿い、白子森を経て、この峠にたどり着く道が、ある。 その道は、確かに縦走している者はあるようだが(1999年には、それらしい一団の残したメモが落ちていた)、峠からその入り口を伺う限り、余りにも途方も無い挑戦に見える。 地図には、さらに東へ進む道も描かれてる。その道は、峠直上の無名のピークを経て、阿仁町の小岱倉沢に降りているが、この道など、現存するのかも不明だ。 相互リンク先サイト『MOTO WORKS HIRATA』には、この無名峰や、白子森の登山記録が公開されています。貴重です!ぜひご覧ください! とにかく、この河北林道の通っている場所は、山ばかりの県内でも特に山深い場所なのだ。 | |
現在時刻は、午後4時37分。 この林道へと分け入ってから、まる二時間がたっていた。 二時間もあれば、普通なら、秋田市から大曲市くらいまでは進んでいる。 しかし、この道のりにおいては、やっと…、 やっと 13100 メートル を進んだのみだ。 これでも、殆ど無休息で来たのだ。 そして、まだ先は長いのだ。 これまでの道のりよりも、さらに。 | |
開通を記念して建立されたと思われる立派な石碑は、身の丈よりも遥かに大きい。 そこには、一遍の詩と、小さな小さな祝詞が刻まれている。 読んでみた。 時間が無いのにね。 昭和43年に完成したこの道が、どれほどの期待を背負っていたのか。 どんなに悲願の開通であったかが、よく伝わってきた。 私は、この峠に立ち、徐々に改良されてゆく道を感じるたび、約10km南方にある、もう“一つの峠”のことを思い出す。 その道も、ほぼ同年代に竣工した。 山村振興、林業隆盛、県道昇格、観光推進…、背負う期待は、同じであった。 しかし、その一方は、結局、県道にもなりえず、叢の中に消えた。 隧道のある峠は、もう、ほんの数人の記憶にしかない光景となった。 | |
振り返ると、そこには、やる気の無い閉鎖ゲートが。 どうやら、峠から比立内までが通行止区間であったようだが、特別に通行が困難と思われるものは無かった。 むしろ、これまでの4回の通行の中では、最も良い状況であったが…。 日中は、工事中ということなのだろうか? それとも…、勘ぐりすぎかもしれないが、自治体の「思惑」か?? | |
立っている標識にはこんなことが…。 「注意して通行してください」 のすぐ後に、「郡境から先は(中略)通り抜け出来ません」って… 『おおっ、いけるのか!』 と期待させておいて、でも抜けれないよ、って感じ? なんか意地悪くさくね?? | |
ところで、この画像は、二つ上の写真の一部を拡大したものだが、なんか、真っ黒の物体が立ってますよね。 じつは、こんな物体が写っていることに、気が付いていませんでした。 しかし、後日たまたまホリプロ氏が、昔の写真を持ってきたときに、判明しました。 この黒い物体の正体が。 それは… | |
1994年の写真では、まだ微かに、赤いペンキと、黒い文字が見て取れます。 文字は…「比立内」と書かれていそうです。 その下にも、小さな文字が並んでいそうですが、読み取れませんでした。 貴重な旧タイプの標識が、こんなところにも、あったんですね。 当時はまだ林道時代でしたが、多分、開通当時からの標識でしょう。 もったい付けるほどではなかったかな?? | |
午後4時41分。 5分にも満たない峠での時間だったが、やはり、この場所で感じられる「やり遂げた感」は絶大だった。 なんか、すっかり、気持ちよくなっていた。 あとはもう、下るだけ下れば、人家のある場所まですぐな気がした。 しかし、それは間違いだった。 はっきり言おう。 本当に辛かったのは、ここから先であったのだ。 |
いよいよ河辺側、その下りの始まり。 ぶっちゃけ、この河北林道、阿仁側よりも、河辺側はさらに険しい。 距離も長いし、高低差も大きく違う。 今回は、幸い下りな訳だが、それでも、時間が無い私には、この距離は脅威である。 ペースをあげて、せめて視界の良いうちに、沢沿いのある程度平坦な場所まで降りたい。 しかし、写真の通り、阿仁側に比べ、こちらは明らかに道の状況が悪い。 正確に言うと、初めて通った頃から、何の改良もなされていない。 幅も狭いし、路面のガレ方も、相当だ。 そして、私はここに嫌な思い出を持つ。 1994年のあの日、勢い良く我先と峠を下り始めた3人。 先頭を切った私のチャリは、この少し先で、余りの衝撃に耐え切れずパンクしたのである。 余りにも愚かな行為であると、理性を失わずに最後尾を走行してきた保土ヶ谷に、指摘を受けた。 そう、私は(ホリプロ氏も)、完全にサルであった。 サルは、パンクしても、サルのままであった。 不幸なことに、サルのパンク箇所は、最も厄介な場所であった。 それがどことは、察するにお任せするが、とにかく、素人のパンク修理術では、手の打ちようが無い場所であった。 一応孔は塞いでも、僅かな衝撃で、再び空気が流出してゆくという状況。 …お忘れの方も多いと思うが、1994年は、この状況に加え、すでに峠の遥か手前で、私のボトルの中は、空であった。 意識が、遠のきつつあった…。 |
峠から2kmほど下っただろうか、さすがにここでパンクしたらシャレにもならないので、いつもよりは慎重に走っていたが、突然、強烈な西日に頬を照らされた。 それまで、稜線の影の部分を走っていたのだ。 そして、久々に見る太陽の姿は、なんとも頼りないものだった。 地平線ではなく、遥か彼方の雲海に、今まさに太陽が沈もうとしている。 見渡す限り、山。 黒い山々が、大海のうねりの様に、どこまでも広がっていた。 遥か先に、特徴的にピョンと突き出した小山が霞んで見えた。 あれは、三内にある筑紫森であろう。 あそこまで、この林道は続いているのだ。 それを、現実として見せられたとき、遂に私は実感した。 「俺は、本当にこの道で夜を迎えるのだ。」 と。 |
いま、まさに、太陽が燃え尽きようとしていた。 今日一日、本当に私を翻弄した空だった。 出発したときには、あんなにまぶしかった、虹を輝かせた太陽。 しかし、突然裏切り、大粒の雨で私を洗礼した。 そのままその雨が、半日も続いていたこと、その中を普段着で旅した馬鹿者がいたこと… それらを、身に纏うじっとりと湿ったままの衣類が、証明している。 最後に、再び私を祝福したかに見えた太陽だったが、余りにも、遅すぎた。 今度の旅は、生涯幾度目かの、林道内日没という結果になってしまった。 しかも、過去最大級に深いぞ…。 | |
最後に振り返った峠。 中央左付近の、木々が一寸凹んで見える場所が、峠である。 この先では振り返ろうとも、特有の入り組んだ地形に阻害され、峠を仰ぎ見ることはおろか、峠のある稜線を見ることも叶わない。 勢い良くベルを鳴らし峠に別れを告げると、漕ぎ脚に力を込めた。 |
日没後、すぐに暗くなるわけではない。 暫くは、まだ明るい。 むしろ、西日が弱まることで、一時的に視界は回復する。 しかし、あとはもう、加速度的に闇が迫ってくるのみ、 猶予は無い。 しかし、焦ってはいけない! かつてパンクしたのは、この辺ではなかったか?! 大きめの岩がゴロゴロとしており、パンクに注意する以前に、転倒注意である。 ひどい道だ。 相変わらず。 | |
上の写真の少し前、路傍で、かつては気が付かなかったキロポストを発見した。 「何キロだろう??」 「ぐふっ …20km…。」 ちなみに、この20kmとは、「起点」、すなわち、三内までの距離である。 なんと、まだ河北林道の道のりは、その半分も来ていなかったのだ。 まだ、20kmも、あるのだ…。 「なんとぉー…。」 |
いよいよ5時になろうというとき、見覚えのある景色が。 たしか、この水場は、かつて峠の遥か手前で、ボトル内が空になった男が夢にまで見た、水場。 『野生(聖)水』という造語が生まれた、その地である。 はい、狂ったように、飲みましたとも。 がぶ飲みですよ。 なんか、葉っぱ浮かんでるんすけど、気にならないですよ。 ま、それは、昔の話。 今回は、わき目でチラッと見つつ、写真にも、チラッと写して、通過しました。 |
「 大 滝 又 沢 橋 で す 。」 「 さ び ー ー … 」 「 さ び ぃ ー ー … 」 カメラの音声メモには、少し震えた声で、そう録音されていた。 この頃には、外気温は、5度を下回っていたと思われ、濡れたままの私の感じていた寒さは、相当であったはずだ。 |
橋の先は、再び上りに転じる。 河北林道河辺側は、途中一つの小ピークがある。 これからの上りは、そこにいたるものだ。 その途中、かつてのがそうであったような、砂地の“傾いた道”に遭遇した。 『ええっ、これでも県道?!』 などといえば、当サイト的には盛り上がるのだろうが、林道時代を知るものとしては、正直、驚きは無い。 河北とは、こんな道なのだから。昔から。 通り抜けられるだけで、儲けもんなのだ。 |
小ピークを越える。 ついに、私の行く手を、遮るものが無くなった。 あとは、ただどこまでも下ってゆくのみだ。 いずれは、三内に至る。 とりあえず、暗くなる前にこの小ピークを越せたことで、少し安心したのは確かだ。 |
17時16分。 三内川の最奥の谷、中芝沢の谷底に近付くにつれ、休息に視界が悪くなってきた。 次第に暗くなってゆくとき、目が順応するのでその変化は微々たる物に感じられるが、実際撮った写真を見比べてみると、その暗さが、際立って見える。 相変わらず、ひどい道が続いている。 しかも、長い。 そんなに自分が高いところにいたのかと驚くほどに、下っても下っても、ぐねぐねと、おんなじ様な景色が続いている。 こんな路面で真っ暗になってしまったとしたら、転倒は免れまい。 それどころか、先に進む勇気が、なくなってしまうのではなかろうか? 足元の見えない悪路が、どんなに怖いものであるか、私は、知っている。 |
偶然とは恐ろしいもので、この下りで夜を向かえるのは、初めてではない。 8年前、サル野郎のパンクに、一体どれほどトリオの時間を無駄にしたか、分からない。 結局、何度膨らませても萎むチューブに、その度に足止めを食らい、ここにたどり着いた頃には、すっかり日が落ちていた。 しかし、あの時と、今回とでは大きく違う。 まず、先行きを照らすべきライトが無い。 そして、10月の夜は、想像以上に冷える。 さらには、悪いことに、私の全身は、未だ乾いていない。 あまりにも、条件が悪い。 |
「 中 芝 沢 橋 で す 。」 「 さ み ぃ ー 」 ボイスは、それだけである。 中芝沢橋こそが、河北林道が再び沢沿いの林道に戻る地点だ。 やっと、私は阿仁・河辺を隔てる山脈を、越したのだ。 本当に長かった。 ここまで、比立内から約20km。残りは、三内川沿いをあと15kmだ。 ここから、最後の苦難が始まる。 それは、暗闇と、寒さと… そうだった。 ひとつ、1994年とは大きく違っている点が、まだあった。 今回は、私はただ一人、この暗闇に立っていた。 暗闇と、寒さと、孤独。 立ちはだかる壁は、余りにも大きい。 ぞっとしつつ、以下、最終回へ。 |
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|