11:52
いままで幾人ものオブローダーを退けてきただろう、大崩壊斜面。
いま、長年の想いが叶い、そこを前にした私。
私は、これまで歩んできた道を振り返るが如く振り返った。
もはや、そこに道があった証しは、岩陰から僅かに覗くコンクリートの法面以外に無い。
路面をロックガーデンに変えてしまった、猛烈な土砂崩れ。
だが、これから挑む大崩壊斜面は、これとは全く別の性質ものだった。
向き直る。
道は、無い。
比喩的な意味ではなく、本当に道がない。
ここは、松の木峠の崩壊箇所とは決定的に異質である事が、この時点で判明した。
というのは、松の木の場合、道は確かに存在するが、その上に膨大な土砂が堆積して斜面となっている。
一方、この日原は全然違って、路盤がそもそも存在せず、ただの流れる瓦礫斜面である。
左の写真は、崩壊地を道の先端から覗き込んでいるのだが、本来ならばこの足下の延長線上に道はあったはずなのだ。
地上は、深さ3m以上もざっくり削り取られている事になる。
つまり、道よりも上部の崖が崩壊して道路を埋め尽くしたのではなく、
道路のあった斜面ごと、全て谷底へ落ちている。
その状況は、実際に崩壊斜面に下りて見るとより鮮明になった。
写真は、崩壊斜面に下りたあとに少しだけ登って、道のある高さを振り返ったものだ。
中央右にコンクリートの部分が見える。
これについては帰路にもう少し観察するが、倒れた擁壁であろうと見る。
倒れている下面の高さが、本来の路盤の位置と言うことだ。
言いたいことはお分かり頂けただろう。
画像にカーソルを合わせてみて欲しい。
これで、この先の崩壊斜面が続く限り、路盤には全く頼れない事がはっきりした。
地図上150mも続くと思われる斜面を、ただ崩壊面だけを足掛かりに超えねばならない。
だが、幸いにして、私はここで恐怖よりも開放感を強く感じた。
転落の恐怖に萎縮した体では、長期戦が約束される斜面越えは叶いそうもない。
日差しに照らされた白亜の斜面も、谷底で輝く日原川の清流も、霞む山並みも、
「お前ならここは超えられる。」
そう励ましているようにさえ思えた。(思いたかった?)
大丈夫!
今日は身軽だ。
松の木のような事にはならないぞ。
私は、ここで“セオリー通り”に行動することにした。
セオリーとは言っても、私だけにしか通用しない間違ったものかも知れないのが、とにかく崩壊地越えは高巻きである。
見た感じ足下の斜面はそれほど急でないうえ、瓦礫のツブが大きく、しかも隙間が多くて足が沈み込む。
かなり条件はよいと感じられ、おそらくそのまま真横に渡っていくことも出来なくはないだろう。
だが、私はたとえ歩行距離が増えるとしても、出来るだけ高巻きをしたいと思う。
理由はあって、「1.いざ滑落が始まったときにも地面まで転落するまでの猶予が増える=足掻きやすい」「2.途中で前に進めなくなった場合にも、予め高い位置にいればルート選択の幅が広い気がする。」「3.斜面を渡る幅が狭くてすむ場合が多い」「4.馬鹿だから高いと(略)」 etc…。
ともかく、考えあって私は高巻きを決定した。
右写真にカーソルを合わせると、私が通ったルートを表示する。「A地点」をまず目指した。
この時、私は余り周囲を見回してみることをしなかった。
これは第一のミスだった。後で気づく。
それにしても、この崩壊は何だろう。
ぜったい普通ではない。
右の地形図を見ると、感覚的に「ちょーデカイ」崩壊地が、実際にどの程度の規模なのか分かる。
“!”マークに似た雨裂(ガリーとも言う)の記号が並んでいる場所が、崩壊地である。
幅は150m、高さは谷底から160mほど。斜度は計算上45度程度で、まさに自由崩壊面の自然型だ。
その上にも斜面は続き、最後には信じられないほどの断崖となっている。
上の写真、有名な南アルプスは北岳バットレスを彷彿とさせる双耳の尖峰は谷底からの高低差が250mにも達している。
その高山的な景観は、私がいままで東北のどの場所でも感じたことのないものだ。
従来、この崩壊斜面については、旧道が突発的な土砂崩れに見舞われたのだという認識が主であったように思う。
たとえば、松の木の旧道がそうであったように。
だが、おそらくこれは災害ではなく、作為である。
上の地形図からははみ出すが、この尖峰は山頂ではない。まだまだ山の中腹…いやむしろ麓といえる位置だ。
この尖峰の上は尾根になっていて、約1km北方に山頂を持つ海抜1310mの滝入ノ峰へとつながっている。
日原川の渓谷は確かにV字峡を形作る峻険なものではあるが、浸食作用だけでこれほどの大地形が生じたとは、考えにくい。
そう。
この瓦礫の大斜面は石灰石の露天採掘によるものだ。
平成10年に「採石技術指導基準」が改正され、このような斜面を採石跡地に残す「傾斜面採掘法」は、坑道堀りの採石と共に禁止された。現在は「ベンチカット法(階段採掘法)」のみが認められており、階段状の採石現場をよく目にする。
傾斜面採掘法では、発破などによって傾斜地表を均等に削り取っていくことになる。石灰石は砕かれてそのままベルトコンベヤやトロッコ、トラックなどで元山に運ばれるのだ。
地表は石灰石と共に持ち去られていた。
地表に道が存在しなかったのも道理である。
現地では、そんなのんびりした考察をしている余裕はなかった。
とりあえず足場は比較的安定しているものの、外見的な怖さは凄い事になっている。
下を見ちゃ駄目だ。
谷底が、暗い。
渓声もここまでは殆ど届かない。
信じられるのは、確かに沈み込む足元の感触だけだ。
外見にまどわされるな!
斜面へ進入して3分経過。無事に“A地点”に到達した。
だが、進入した段階では見えていなかった障害物が、現れた。
地形図では幾筋も書かれていたもの。雨裂(ガリー)である。
しかも、とびきり大きな。
さて、ここはどうしてやるべきか?!
とりあえず、高巻きしようもない規模なので、その中へ降りてみた。
切り立つ岩場を足掛かりに。
上(写真左) か 下(写真右) か。
ここでも、上に進路を取ることにした。
もう既に、本来の路盤の位置からは30m以上も高いところに来ていると思うが、ここでまた登ることになった。
写真左の右上に写る、枯れ草がたくさん生えている辺りを次なる目的地とした。
あそこまで行ければ、あとはもう草も生えるような安定斜面であろうか。
そうあることを祈る。
ガリーは谷底まで続いており、巨大な滑り台のようにも見える。
その両岸こそ不規則な傾斜で、かつ小礫地のため恐怖を感じたが、その内部は大きな岩礫が積み重なっており、思いのほか登りやすい。
ただし、振り返ってはいけない。
コントラストのきつい谷底は、地獄の底のように暗く見えた。
滑り落ちても途中で止まれるだろうとは思うが、想像したくない。
ガリーを10mほど登ると、もうこれ以上は辿れない垂直に近い崖となった。
ここが浸食の上端部で、やがてはもっと延びることになろう。だが、軽自動車ほどもある巨石が踏みとどまっている。
ヘルメットくらい被ってくるんだったと初めのうちは思ったが、こんな巨岩が相手なら何も感じず逝けそうだ。
このガリーが掘られた斜面の延長線上方が、大崩壊斜面ではもっとも高低差のある谷筋で、上端までは日原川から380mもの高低差が認められる。現在地点からでも200m以上は余裕にある。
そのスカイラインに見える木々のシルエットは、どうにも遠すぎて現実感が足りない。
11:58
“B地点”に到達。
枯草は、いかにも砂漠に生えていそうな耐乾性の強そうなものだった。
殆ど木の生えていない斜面内では、これも頼りにしたい手掛かりだ。
この写真ぐらいまとめて掴めば、とりあえず補助ロープくらいにはなるだろう。
乾燥地の植物は根も深い事が多い。
はじめに見えていた崩壊斜面は、全体の半分以下だった。
ガリーの存在も窺えなかった。
そして、それを超えてみても、まだ対岸の雑木林は遠かった。
とは言っても、後は楽そうに見えたのも確かだ。このままじわりじわりと下っていけば、突破できそうである。
地形図にも僅かにその形は現れているが、この崩壊地は中央部がやや出っ張っていて、中央の下部はまるで川の中州のようになっている。
中州部分には、崩壊斜面内で唯一灌木が生えている。
行きはそこを通らなかったが、帰りは利用させてもらった。
振り返ってみた。
かなり高い位置まで登って(高巻き)いるのがお分かり頂けるだろう。
旧々道は、奧に見えている現道や旧道のガードレールとほぼ同じ水平面に存在している。
そこから較べれば、現在地は50m以上も高い筈だ。
お陰で見晴らしは抜群だ。
いい風も吹いている。
ぎょー!
まだ終わりでネガっタ!
ここはヤバイ!!
この場所の中では、初めて滑落を強く意識した。
人呼んで、平滑斜面!
松の木で私をもっと苦しめた、グリップ無き斜面だ。
無策に立ち入れば、あるいは……
逝き もある!!
しつこいようだが、また登る!!
もう、行けるところまで行く勢いで登る!
平滑斜面の、その平滑なる部分を跨ぎうる場所まで、右写真(カーソルを合わせてください)のルートのように登ることにした。
ここさえ超えれば、クリアは目前だ。
12:01
“C地点”に到達。
え〜。
ここは、怖いです。
うふふ。
高く上がって来すぎたな。こいつは…
実を言えば…
これは帰りに、またこの斜面を越えようとして気づいたんだが…
道はあるのだ。この斜面にも、比較的安全に越えられる、踏み跡が。
私は最初にいきなり高巻きを始めてしまったから、遂にその恩恵に浴せず、況やこのような過分なる恐怖を味わうこととなってしまった。
部分遺体発見を期して現地を捜索した警察軍団の執念か、あるいは飽くなき岳人達の怨念か。
少なくとも、私を含めネット上のオブローダーには知られていなかった(と思われる)踏み跡が、この斜面には存在している。
いよいよ佳境となった、5年越しの夢、その達成劇。
大崩崖突破まで残り30m、最後の斜面横断を残すのみ。
動画を撮ってきた。
普段、ただ越えるだけならここまで登る必要の全くない、路盤より60m前後高い位置の様子だ。
次のリンクからダウンロードしてご覧頂きたい。
さあ、行こう!
ラスト。
ここを、越えるだけだ。
ここを……
ここを?!
こんなに上がって来んじゃなかった… orJ
あおう…
あおう……
ガラガラ …ガラッ
対岸へ、辿り着いた。
赤茶けた落石防止ネットが、こんがらがった毛糸のように放置されていた。
もっと上から落ちてきたようだ。
旧々道よりも50m以上も高い位置であり、これは旧々道のものではあり得ない。
やはり、この上に人為の地形が存在した証しといえるだろう。
これにて、“D地点”到達となり、崩壊地の横断は完了した。
斜面に入ってからここまでの所要時間は、約12分。
なお、帰りは5分くらいで横断した。
12:05
どうにか大崩壊面を横断した。
だが、ひたすら高巻きを繰り返した結果、道路本来の高さよりも50m以上も登ってしまった。
これから斜面を下って、旧々道の片割れを見付けねばならない。
下るのは、おそらく容易だろうが、帰りのことを考えるとかなり心細かった。
だが、ここまで来て後顧のために引き返すなど考えられない。
帰りに崖を横断する踏み跡を見てしまった現在では、前人未到と叫ばれていた大崩崖が、僅かながらも自分の他に人を通わせていたことを知っている。
考えてみれば、当たり前のことでもあった。
また、これは後日談だが、沢伝いに越えることも容易だった(容易と言っても遊歩道ではない)。
だが、“人跡未踏などではなかった”事を、自分の目で、誰かに教えられる前に確かめられたことは、嬉しかった。
しかも、この探索この時点においては、まだ私は、自分の他に誰も(特に同業者…笑)来ていないのではないかと、うっすら期待出来る状況だった。
その楽しさを、察していただきたい。
…有頂天だった。
黙って大崩崖の端を下って行っても良かったが、逸る気持ちは抑えられず、旧道の日原隧道が坑口を開けているだろう東寄りの斜面に分け入った。
そして、30mも下った頃だろうか…
見えた!
キタキタキタ 来た!
遂に、長い間謎とされてきた旧トンネルの氷川側坑口が、
いま この足下に!
どんな面してやがんのか!!
ネットだ…。
こちらもネットで塞がれている…。
やはり、中に入ることだけは許されないのか…。
直接鉱山とは関係のない、ただの隧道だと思うのだが。
瓦礫を落としながら、乱暴に下ってきた斜面がこれ。
写真左端に白っぽく見えているのが、例の大崩崖だ。
石灰石の採掘が行われるまでは、全体がこんな雑木林の急斜面だったのだろうと思われる。
旧々道が使われていた昭和30年代までは、少なくとも。
また、これは想像の域を出ないが、尾根ではなく、どちらかと言えば窪んだ斜面にわざわざカーブする日原隧道を穿った旧道も、旧々道が採掘現場に重なって消滅することを予期した上での路線決定だったようにも思われる。
日原隧道の立地には、不自然さがある。
従来は、単に落石の巣を避けていたのだろうと思っていたが。
旧道の隧道坑口脇にて、旧々道へと降り立った。まさにドンピシャな下降地点であった。
写真は、薄い雑木林の向こうに望まれる大崩崖。旧々道上より撮影。
大崩崖までの旧々道も、すでに半ばまで斜面に飲まれている。
完遂された日原の大崩崖。
たとえ踏み跡を知らなくても、松の木よりは幾分易しい。チャリ同伴でなくとももう松の木には行きたくないが、本レポート執筆時点で、この斜面はすでに合計3度越えている。
あと、数歩で隧道は明かされる。
その時は、来た。
次回、未踏の奥地へ!